宝珠の音が聞こえる。
回廊を進む度、靴との間で生じる衝突音は不思議に澄んでいる。一歩、また一歩、佇む者の少ない中では谺を備えて短く響く。それはあたかも床へと落とした宝石が、割れることも罅を抱えることもなく小さく跳ねた音のようで、深層の部分へと細い針を突き刺す。護るべき対象の欠けた今、誰も連れずに独り階を上がりつつも、引かれる髪はない。
後ろめたい行為をしているつもりはない。他人に対し恥じているのでもない。しかし最後のサフォーの門を抜ける時、瑠璃は知らず気配を窺う。張った意識の琴線が振れないのを確かめた後で、眼前の扉に手を掛ける。様々な宝珠の輝きで彩られたそれは、外見の重厚感と低い軋みの割には容易に押し開くことができ、中には人影が一つだけある。緩慢な動作で半ばだけ振り返り、白銀の髪が僅かに揺れた。
「やっぱりここか」
瑠璃は玉石の座へと足を踏み入れる。靴音の反響が更に増大する中、ゆっくりと歩を進める。傍らまでは寄らず、一身分程の距離を挟んで立ち止まった。
「久しいな」
レディパールは言った。体を翻すことで、真っ向から対峙する体勢に変える。全てを見透かすかのような冷徹な眼差しを、心持ち柔らかに見えるものへとふと移す。
「君は変わったな」
瑠璃は眉を顰める。
「俺が、変わった?」
「瞳が強くなった。いや、怯懦が薄れたと言うべきか」
「前は俺が怖がっていたと言いたいのか?」
「それは君が一番よく知っていることだろう」
顔色を動かさず告げるレディパールに、相変わらずだと瑠璃は思う。人に傷を負わすのを厭うことなく、自らの意志に忠実な言動を繰り返す。全ては玉石の姫を守護せねばならない、騎士の宿命に魂を委ねた上であると知っている。珠魅の最高位、癒しの涙石を生み出せた彼の人さえいれば、一族を滅亡から防げる。身をただひたすら削り続け、崩す姫を見ても義務を果たした先の事実だとしかしなかった。
残酷な程の沈着さは、既に性質として息付いたもので消えはしないのだろう。考えを巡らせるうち、瑠璃の脳裏を濃霧がよぎる。
「あんたこそ、何考えてるんだ」
珠魅を維持するが為だけに玉石を護ってきた彼女が、何故今もここにいるのか。幾度か胸に覚えたものと同じ違和感であった。
「何故、奴をあのまま行かせた」
問い質す口調を投げても、その面差しに動揺の色が浮かぶ風はない。静かに声が発せられる。
「アレクサンドルはアレクサンドルなりに、騎士として悩み、行動した。今更責め立てても無意味だしな」
「珠魅殺しも、何もかも水に流すっていうのか?」
「今となっては同じことだ。それに蛍がいいと言っているのだ、追ったところで仕方がない。私のなすべきことは蛍を護ることだからな。騎士である君なら判る筈だと思うが」
自らを犠牲にしても皆を癒し続けようとした蛍姫を、騎士の座を継承したばかりだったアレクサンドルは攫い、隠した。命を痩せ細らせることに対し微塵も拒まない姫を深く想うが故の、しかしまぎれもなく一族への背徳行為であった。しかも自分の核を傷つけ殺そうとした相手だ、なのに追放のみでレディパールは事足りると言う。ジン曜日を選びこの部屋を訪れたのは、この騎士へと疑問を投げ掛ける為であったのだ。
「それであんたはいいのか?」
「今の私は真珠姫でもあるからな」
間髪入れぬ、思いがけない科白であった。咄嗟には理解できず、それでも冷ややかなだけではない雰囲気は伝わる。自然、表情は唖然とした形を心持ち取った。
「姫の心というのは、あれ程までに苦しいものなのだな」
「苦しい……?」
「自分の非力さでは何もできない無力感、悲壮感といった感情だな。ただ護られていろというのは、剣を振るえる騎士の驕りでしかないと、ようやく知ったよ」
僅かに下げられた音域で語られる。無口である筈の彼女からすれば、そぐわない程長い言葉が耳へと届いた時、何処か噛み締めるかのようなそれは瑠璃の胸に痛みを及ぼす。何も考えず、悩むこともなく、傍にいて護られてくれればよい、それは確かに、真珠姫へと望んだことだった。レディパールという一騎士としての個、使命、封印された全てを思い出して欲しくない、身勝手でしかない願いを彼女は、その別相である真珠姫もまた、軽蔑していたということか。
少しばかり伏せられた眼差しに気付き、レディパールは小さく笑う。
「勘違いするな、何も君を責めているのではない」
苦悩をそのまま言い当てる。他者の深層を何の苦もなしに悟ってしまえるのは、近くで過ごした真珠姫の側面か、それとも怜悧な眼差しで何もかもを捉えるブラックパールの側面か。二者択一の自問は形を変え、続く。
「大人しく護られて欲しい、騎士は皆利己的に思う」
「皆?あんたもそうだったって言うのか?」
「……真珠姫は君の傍にいるのを幸せと感じている」
「幸せだと……今更慰めようってのか!?」
「私が思ったのだ、事実と言うしかあるまい」
自らの感情を告げながらも何処か客観的な物言いに、瑠璃は焦点を向ける。知らぬ内に穏やかな表情が、こちらへと投げられているのだった。笑顔ではない、しかし作られたものでないと判るそれは、抗う心をほどかせる。僅かに真珠姫の影を宿しているようにも見えた。
瑠璃は面持ちを戻し、緊迫感は次第に薄れてゆく。おそらくは瞬きを幾度かする程度の、しかし長く感じられた時の後でレディパールは顔を引き締め、鋭いものに返す。
「少々お喋りが過ぎた。蛍が散歩から戻る、君ももう帰れ」
明確な科白で退出を促され、瑠璃はふと記憶が至る。この玉石の座は蛍姫が存する為の場所であり、アレクサンドルが出奔中の現在空きとなっている騎士の位を、レディパールは仮に埋めているだけなのだ。
事実を思い起こし、同時によぎった謎を口にするのはもはや彼女の許すところではないだろう。挨拶も会釈もせず踵を向け、速足で部屋を辞す。サフォーの門を潜って元来た道を逆行し、回廊をゆっくりと上ってくる人影を認める。纏う薄い蒼に気付けば瞳を凝らす必要もない。心持ち緩めた歩調で擦れ違いかけ、そして呼び止められた。
「お元気ですか?」
振り返ったラピスラズリの騎士へと、蛍姫は微笑みを投げる。
「お変わりありませんか?」
同じ煌めきの都市に暮らしているのを、彼女が知らないとも思えない。しかし落ち着いた口調で語り掛けてくる。瑠璃が半ば気圧されつつ頷いたのを見、嬉しげに崩した相好は少女のそれに近い。どの珠魅よりも心身の苦しみを受けてきた、しかし悲痛さなど感じさせないままで言葉を継ぐ。
「あなたの真珠姫も息災ですか?」
「それはあなたの方が」
反射的に言いかけ、口を噤んだ。嚥下されたものを悟ったのであろう、蛍姫は面差しを心持ち張らせ、慈愛を満たす。
「あなたの言いたいことは判るつもりです」
「俺の、言いたいこと?」
蛍姫は微笑む。
「あの日、心優しきあの方の為に皆で生んだ涙で、パールの核の傷も癒されました。それなのに真珠姫が残っていることを、あなたは不思議に思っているのではないですか?」
問い掛けの形を取ってはいるものの、それは確認、断定として鼓膜を震わす。元々真珠姫はアレクサンドルにより胸の黒真珠が傷つけられた結果、言わば命を長らえさせる為、使命を尽くさんが為の非常手段として生み出されたものだ。誕生の刹那に居合わせた瑠璃にとり、推測ではなく事実である。ならば核が完全体へと戻ることは、即ち真珠姫なるかりそめの存在はレディパールに融合されるのを意味していたのではないのか。
危惧し、覚悟していた予測は、しかし実際には起こらなかった。レディパールとして玉石の座にある一日を除き、六日のうち五日は真珠姫の外見で瑠璃の傍らにいる。封じた記憶を取り戻した後でも、あどけない表情は変わらない。裏切られた怯えが嬉しいのは間違いなく、先だって表された、瞳が強くなったというのもそこに起因しているのだろう。喜ばしいが、今への理解には達しない。
何故、真珠は消えなかったのだ?
「こうは考えられませんか、パールは真珠姫であることを望んだのだと」
言い諭すかの穏やかな声は、巡らし澄んだ脳裏に染みる。
「アレクを追わず留まっているのも、その為なのだと」
「どういうことだ?」
「ホワイトパールとブラックパールは別のものではないんです。光と影というのでもなくて、単に併せ持った二つの相というだけ。そして真珠姫の相が二人の意志として選ばれた、そういうことなのでしょう」
「……あんたは、それでいいのか?」
蛍姫は笑みを浮かべ、言外に肯定を示した。会釈を一つ残し、去る筈であった方へと歩みを再開する。気配は上層へと遠のき消えた後で、瑠璃は知らず止めていた息を吐き出す。二つの相、耳にしたばかりの言葉を胸の中で反芻した。
相反する存在ではなく、並び立つものだと蛍姫は言った。相容れ合う相が共に願ったのが、白真珠の珠魅として瑠璃の姫であることだというのか。それが真相を当てているとして、彼女が何を欲しているのか判らない。意味するところは掴めないのだったが、しかしなすべきことは知っている。
自ら姫を選び取ったというなら、対し騎士として真摯に接するだけだ。偶然であった仲間にただ固執するのではなく、明日また訪れた彼女を、全てを尽くし護らねばならないと思う。朧気な理由のまま強まる意志と眼差しに戸惑う余裕もなく、蛍姫が立ち去った先に目を向ける。意識外で胸へと手を遣り、下り歩き出した。
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