誰もいなかった。
浅い眠りを中断し、視線だけを左右に動かしても命あるものを捉えることはできない。たとえ振り返ってみたところで繰り広げられる光景は変わらないだろう。周りを取り囲むのはベッドや椅子、絵画や花瓶といった静物ばかりである。どれだけ纏うが動くことはなく、幾ら害から護ろうが反応などある筈のないものたち。彼らからは、暖かさも心も感じ取ることは叶わない。
思う自分も同質の存在かもしれないのだが。だとすれば自己批判ということになるのだろうか、瑠璃は暗闇の中考える。珠魅である自分に、心があるのかどうかなど判らない。気が遠くなる程の長い時を生き、涙石によって癒されれば死ぬことはない。固い宝石の核が傷を受けない限り維持される命に、儚さなどないのだ。そんな命であれば、動かぬものとさほど変わりはないようにも思える。
少し離れた窓の向こうから、淡い月光が差し込んでいる。夜深く更け、酒場すら寝静まったドミナの街は静寂に閉ざされている。消えたランプの幻影ですら既になく、蒼白い月の輝きだけが視界を保たせている。ひとり物思うには相応しい、静かな夜だ。
「……真珠?」
起こした上半身を更に伸ばし、パートナーの姫の名を呼ぶ。隣のベッドに布団の山型はなく、気配もない。部屋の中に自分以外の存在を認めることはできず、微かな音も耳には届かない。床の上に降り立ち靴を履くと、瑠璃は痛い程の軋みにも構わずドアを開ける。否応なしに響き渡る足音を抑えることもなく、真っ直ぐに宿屋を出た。
向かうべき先が判っているわけではない。当てがあるのでもない。しかし視覚や聴覚に訴えてくるものが決して多くない今、嗅覚を尖らせるのが可能だということは本能的に知っている。漂うだに流れる風に乗り、香ってくる慣れた匂いは、特に意識する必要もなく伝わってくる。錯覚なのかそれとも真実なのか、とにかく追うより他ない。
香りは微かで、いつ消えるともしれない。確かめつつ辿る足は、緩やかな坂を上ってゆく。月と星の明かりだけを頼りに畑の間を伸びる道を歩くうち、瑠璃は教会へと至る。扉を勢いよく開け放ち、中を見回すが鼠一匹すらいない。座席の影や燭台の脚許などを探してみるものの幾分かの埃があるばかりで、生まれかけていた望みは次第に薄れてゆく。もしや残り香だったのか、考えを変えれば溜息を付く暇もなく踵を返す。教会を早足で出、不意にこめかみの後ろに違う空気を感じた。
次いで訪れた攣るような電気に引きずられ右後ろへと眼差しを向ければ、先には小さな影がある。畑の中に腰掛け、夜空を見上げ佇んでいるそれは、瑠璃が近付くと気配を感じたのか振り向き、白銀の髪を揺らした。
「あ、るりくん」
こちらの焦燥も知らぬような嬉しそうな笑顔を浮かべる。瑠璃はゆっくりと息を吐き出し、
「何やってるんだ、こんな真夜中に、こんなところで」
真珠姫の隣に座った。
「あのね、おつきさまが、きれいだったから」
「月?」
「たかい、たかいところにいけば、もっとちかくでみられるとおもって」
丘の上へと上った理由を無邪気な口調で告げる。そうしてまた月へと視線を向ける横顔は、幼さよりも透明さに溢れている。あたかも月の仄かさとさやけさに溶けてしまうかの、澄んだ煌めきに包まれているようで、それは抱きしめた先からこぼれていってしまう水面の鏡を連想させる。
瑠璃は立ち上がった。
「俺は心配したんだぞ」
わざと主語を付け、強調する。唐突な動作と口調に真珠姫は心持ち怯えを感じたらしかった。ごめんなさい、ごめんなさい、しきりに謝りながらそろそろと腰を上げる。
「いきなりいなくなるのはやめてくれ」
元来た道を瑠璃は逆に辿り始める。慌てて後を追い、弾みで足を縺れさせかけている真珠姫を視界の外に認めながら、中腹まで一気に下る。ふと足を止め振り返り、
「何処かに行く時は、俺に言ってからにしてくれ」
「うん」
一つ頷いた真珠姫は、しかし自分へと向けられたその言葉に懇願が込められていることにおそらく気付いてはいない。今も、姫を心配する騎士として探しに来てくれたのだと思っているに違いない。勿論それは全くの誤りではない。目の届かないところに行って欲しくない気持ちが全くないといえば嘘になる。しかし同じ場所にいたいという方がより本当の感情に近い。護るためではなく、淋しさを紛らわすためでもない。
宿に戻ると、歩き疲れたのか真珠姫はすぐに寝入ってしまった。無垢な寝顔を見守りながら、この平穏はいつまで続くのだろう、と思う。このままの状態で暮らしていくことを幾ら願っても、珠魅の運命はそれを許してくれないだろう。鏡に映った向こう側の真珠、パールの記憶を取り戻した時、どんなカタストロフィーが待ち受けているのか。考えれば考える程に、胸の奥へと澱り溜まる不安、しかし相反するように決意が沸き上がることには気付けない。
「お前がいるから、俺は」
ふとした呟きの後に続く言葉は限りない。強くなれる、生きてゆける、追いかけてゆける。自分の命を認められる、戦える、アレクサンドラと向き合える。しかしどれも口には出せずに、部屋の中には再び静寂の帳が降りる。知らずに唇の端に穏やかな笑みを浮かべたまま瞳を閉じ、瑠璃は真珠姫のてのひらの傍、布団の上へと顔を伏せた。
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