拝啓、軍曹殿。
あなたのお姿を拝見しなくなって、一週間が過ぎようとしています。
私はブラス城、あなた様はビュッテヒュッケ城に引き裂かれ、私は書類の山に埋もれながらも、あなたのその凛々しくも愛らしいお姿を思い出しては涙に暮れております。
ああ、私の軍曹殿。
クリスは一刻も早く、あなたにお会いしたくてたまりません。そして再び、あなたと手と手を取り合い武術の鍛錬や演劇の稽古に明け暮れとうございます。
その日まで、クリスのことを忘れないで下さいまし。
どうか、どうかお願いです。愛しい、愛しい軍曹殿…。
「しょーもない恋文なんぞ書いていないで、さっさと溜まった書類を片付けてください」
クリスはペンを止めると愛しいダックの姿を思い出しては物思いに浸ったため息を吐き、そんな上司を遠巻きに眺めて、パーシヴァルは違った意味で深いため息を吐いた。
「はぁ…軍曹殿は今頃どちらの空の下におられるのか」
「人の話聞いてますか、クリス様」
シックスクランとの様々な確執を経て、一時的とはいえ共同戦線を張るようになって数週間が過ぎた。クリス率いるゼクセン騎士団もまた、その戦力の一端としてブラス城からビュッテヒュッケ城へと活動の拠点を移していたが、一国の騎士団長である彼女は、それだけにかまけているわけにもいかない。留守にしているブラス城には首都からの書類が山と溜まり、ここに至っていい加減に無視できない状態になった。
結果、パーシヴァルを筆頭に六騎士総出で、明らかに邪な理由でビュッテヒュッケを離れたくないと抵抗するクリスの首根っこを捕まえ、ブラス城に連行したのが一週間前。
そしてこの光景が一週間繰り返されている。
「先ほど伝令から帰ってきたボルスの話では、英雄殿と共にダックの村に宝くじを買いに行ったということですが」
あの村の宝くじはデザインが可愛いと評判ですからね、と心にもないことを呟くパーシヴァル。だが己の職務に忠実な彼は、淡々とした表情で情け容赦なくクリスの前に次々に書類を積み上げていく。
「宝くじか…軍曹殿にお供できるならそれも楽しいだろうな」
「それはそうでしょう」
といいますかクリス様はあのダックと一緒ならばどこだってが幸せなんでしょう…と、恍惚の表情を浮かべる上司に容赦ないツッコミを入れたい気持ちをこらえそう言うに留めた。おかげでまた言えない言葉はストレスと変わりパーシヴァルの眉間に蓄積されることとなる。
「しかしクリス様、こう嘆いてばかりで仕事を溜めては一日、また一日と軍曹殿に会える日は遠ざかるばかりです。ですから…」
ちゃっちゃと仕事をしろ…と言えないのが部下の悲しさである。
「ああ、分かっている…分かっているんだパーシヴァル。私とて自分の責任くらいちゃんと自覚している。この無慈悲に積み上げられた書類を片付けない限り、あのふかふかのおなかにも、愛らしい尻尾にも、そして涼しげな眼差しにも会えないことくらい…」
クリスはそう言うと、切なそうによよよと崩れ落ちる。今の彼女にジュリエットを演じさせたらビュッテヒュッケ劇場始まって以来のあたり役、歴史に刻まれる名舞台となっただろう。しかし悲しいかな、ここは舞台ではなくブラス城の団長書斎。観客はただの恋する乙女となってしまった上司に頭を抱えるパーシヴァル一人だけであった。
「それでも私は軍曹殿にお会いしたいのだ、今すぐに!だってもう一週間も会ってないんだぞ!!!別にレストランで一緒に食事がしたいとか月夜の湖畔で語り合いたいなんて大層なことは望んでいない!…あの方には妻も子もいる、もともと道ならぬ恋だ…だからこそお姿だけでも毎日拝見したいんだ!」
こうなると音に聞こえた「銀の乙女」もただの乙女、しかもかなりたちの悪い恋する乙女。それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、それにしても分からないのは、眉目秀麗にて文武両道、地位も名誉も財産もある…絶望的なまでに音痴なことと不器用なことが玉に瑕だが、それでも同性なら誰もが羨み、異性なら誰もが憧れるであろうクリス・ライトフェローともあろう者が恋に恋している相手、それがなぜあのダックなのか…?いや、ダックの世界ではたいそうな二枚目である彼をそのように言うのは失礼か。パーシヴァルは心の中でこっそりとそう詫びたものの、やはり『なぜクリス様は軍曹殿を…』と疑問符の乱舞は止まらない。
深すぎる乙女心を解するには、自分はまだまだ若輩者なのかもしれないな、と、またぼんやりとしているクリスを横目に今日何度目かのため息を吐いた。しかしこのままでいいはずがない。どんな手を使ってでも、何としてでも彼女に仕事をさせねばならない。
一体どうすれば…。
「よう、英雄さんにアヒルさん、粒が大きくて甘いブドウがとれたんだ、食べてかないか?」
そう言って見回りがてら歩いていたヒューゴと軍曹を呼び止めたのは、湖畔に広がる農場の管理を任されているバーツだった。その外見から誤解されがちだが、畑仕事をこよなく愛する軍の中でも五本の指に入る『いいひと』である。今もその整った顔に純朴な笑顔を浮かべ、カゴいっぱいに収穫されたブドウをヒューゴ達に手渡している。
「わぁ、ありがとうバーツさん」
「俺はアヒルじゃないんだが…せっかくの好意だ、ありがたくいただこう」
「遠慮せずに食ってくれ。こいつはワイン用のブドウだけど、このままでも十分いけるぜ」
味もよく身体にもいいと定評のあるバーツ印の野菜や果物はヒューゴも軍曹も大好物であった。それを断るなんて罰当たりなことをするはずがない。二人とも口々に美味い美味いと言いながら、手渡された房から粒をもぎとっていく。
「どうだい、今回のブドウの味は?」
「うん、俺ここに来るまでブドウなんて食べたことなかったけど、今回のもすっごく美味しい。バーツさんがつくってるものだから美味しいのかもしれないけど」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか、そういう顔して食ってもらえるのが、俺にとってもこいつらにとってもいちばん嬉しいことだからな…」
バーツはそう言って、ふっと視線を上げて空を仰いだ。
「…どうした?」
「あ、いや…そういやあのねーさんにも収穫したら食わせてやるよって約束してたなって思い出して。あんただったらワインになってからの方がいいんじゃないかって言ったんだけど、このまんまの方が好きなんだって言ってたな」
「へぇ…誰? リリィかな」
「いや、あのお嬢さんじゃなくてその友達の方、騎士団長のねーさんだよ」
「じゃあクリスさん? 確かに意外だね…あ、でもそういえばあの人、最近見てないな」
「そうなんだよなぁ、折角だから一番美味い時期のやつを食ってほしかったのに…アヒルさんは知らないか?」
「だから俺はアヒルじゃ…」
「クリスならブラス城でお仕事中だ…ヒューゴもあんたも聞いてるはずだろ?」
アヒルじゃなくてダッククラン…そう訂正しようとした言葉に被さるように、背後から妙に軽い声が聞こえてきた。振り返ってヒューゴは僅かに顔をしかめる。
「ナッシュ…さん」
「気配を殺して近づくとはずいぶんと悪趣味だな、ハルモニアの諜報員殿」
二人の声には明らかに棘が含まれていた。仲間に対する態度としたはいささか不穏なものだと言わざるをえないが、それはある意味仕方のないことかもしれない。今でこそ彼の国の神官であるササライが独断でとはいえ連合軍に手を貸しているが、元々この地に混乱と騒乱の種を蒔いたもの彼の国の者である。看過するにはあまりに酷いその経緯を思えば、仲間とはいえおいそれと親しくできるものではない。まだ歳若いヒューゴならばなおさらである。しかしナッシュは自身に向けられるそんな訝しげな視線を気にすることもなく、いつものように飄々とした…何を考えているのか分かりかねる表情で二人を見下ろす。
「なんだあっちのお城にいたのか…じゃあ見ないはずだよな。ところでにーさんもブドウ食ってくかい?」
俄かに張り詰めた空気の中で、一人マイペースなバーツ。そんな彼にナッシュは微笑とも苦笑ともとれる笑みを見せる。
「ああ、ブドウは大好物だからぜひとも…と言いたいとこなんだが、ちょいとそこの軍曹さんに話があってな」
ナッシュはそう言って軍曹に向き直る。
「というわけで付き合ってくれ」
「…一体何を企んでいる?」
「大したことじゃないさ、けど断ればあんたにも俺にも明日は無い、ただそれだけのことだ」
とてもさらりと流せない単語が散りばめられた台詞を、彼は満面の笑みで言ってのける。その笑顔に軍曹がとてつもなく嫌な予感を覚えたのは言うまでもない。
「あんた、女房と子供がいるんだろ? 俺にだって帰りを待つカミさんがいる…なぁ、最後に会ったのはいつだ? お互いこれっきりなんてイヤだよな。だから組もうぜ、な?」
話は数時間前に遡る。
『いいですか、ハルモニア諜報員の名にかけて絶対に、何が何でもあのダックを探してここまで引っ張ってきてください。もし約束が果たされなかった場合はあなたはスパイ容疑で評議会の査問送り、そして軍曹殿には…ローストダックにでもなってもらいましょうか』
地を這うような声でそう呟いたパーシヴァルの目は本気だった。そこにいたのは城下の娘たちの間で『クールで素敵なお方』ともてはやされている疾風の騎士などではなく、目的のためなら手段を選ばない男であった。
『いやいや、俺がいつそんな約束した?』
それでもナッシュは冗談めかして今ここにある危機を脱しようとする。元々ほんの軽い気持ちで囚われのお姫様の真っ最中であるクリスのご機嫌伺いにやってきたのだが、いつもの隠し扉を開けた途端待ち構えていたパーシヴァルに捕まってしまった。彼曰く、そろそろ来る頃だと思ってましたのでここで待たせてもらいました…だそうだ。そしてそのまま食堂に連行され、無理難題を押し付けられている真っ最中だった。
『そうですか、なら約束ではなく脅迫にします。今から四時間以内にジョー軍曹殿とさっき言ったものを一揃え用意していただきます。で、出来なかったら査問会送り…』
『結局あんたの言うとおりにしないと俺に明日はないわけだ』
ナッシュはそう言ってがっくりと肩を落とす。苦手なデスクワークで疲れているであろうクリスにケーキでも差し入れするかと思っただけなのに…とんでもないことになってしまった。
ビュッテヒュッケ城とブラス城の間に広がる大草原をほてほて歩きながら、ナッシュは涙ながらに己と軍曹の置かれた状況を切々と語り、隣を歩く軍曹にその時手渡されたメモを見せた。
「なになに…作戦名<恋の翼>用意するものダック一匹、虫一匹、適当な贈り物(何でもよし)…って何だこれは!?」
「…とあんたも思うだろ? 俺もさっぱり分からん。命が惜しいから一揃え用意するにはしたんだが」
苦笑いするナッシュの右手には先ほどバーツのところで貰ってきたブドウの入った袋、そしてすぐ左隣にはギチギチと鳴き声を上げ、羽音を響かせている巨大な虫がいた。虫使いフランツを拝み倒して拝借してきたルビである。
「贈り物のブドウに虫、それに俺か…まったく話が見えないな」
かなり腑に落ちないが、この男の口ぶりから協力しなければ本当に美味しいローストダックにされかねないことだけは確かなようだ。かのパーシヴァルが本気になるということは、どんな無謀なことでも実行されるということを意味しているのだから。
「だいたいの状況は把握した、あんたも絶望的についてないというか…色々大変なんだな」
憐れみと同情のたっぷり篭った目で軍曹はナッシュを見上げる。その様子は先ほどの言動とはうってかわって、とても友好的だ。強制的にとはいえ運命共同体となってしまった者同士、いがみあっても仕方ないということか。
「…ついてないのは今にはじまったことじゃないけどな。それに結果的に綺麗なお嬢さんのためになるんだったらそう悪い仕事でもないさ…ただなぁ」
そこまで言ってナッシュはじいっと軍曹を見下ろす。その視線はひよこのアップリケのついたヘルメットからおいしそう…もとい立派なおなかを通りすぎ、若いダックの娘さんの間で評判の尾羽たなびくふりふりのお尻までたどり着いた。彼は軍曹をくまなく凝視し、ため息と共に呟いた。
「よっ、この色男…もとい色ダック。おじさんも一度でいいからあんたみたいに若くて綺麗なお嬢さんに熱烈に想いを寄せてもらいたいもんだ」
確かにクリスのことをそれなりに気に入っているナッシュとしては、先ほど言ったとおりこの役回りをそんなに悪いものだとは思っていない…しかし解せないのはその相手が彼であるということだ。いや、そう言っては彼に失礼か。若いダックの娘さん達にとって彼は憧れの王子様…つまりダックの王子様、プリンス・オブ・ダックと呼んでもいいほどの人気者なのだから。しかしそれがダック界だけに留まらず、人の娘さんまで虜にしてしまうとは…。
「茶化すな、俺だってどうしてこうなったのか教えて欲しいぐらいだ」
ナッシュが見る限り、軍曹は本気でそう言っているようだった。
「だいたいクリス殿とはつい先日まで敵味方だったんだぞ」
「そうは言っても…そのへんは恋の魔力というやつだ。敵だろうが味方だろうが、落ちるときゃ落ちる…そんなもんだろう?」
「そういうものなのか…女心とは不可思議極まる」
「…」
「どうした、何か言いたそうだな」
「あんた、そんなこと言ってるからカミさんに逃げられ…」
「逃げられてはいない!別居中なだけだ!!!」
グラスランドの青空の下、ナッシュと軍曹が友愛に満ち溢れたやりとりを繰り広げた数刻後、ブラス城の窓辺でクリスはどこから持ってきたのか花びらをぷちぷちと散らしていた。
「明日こそ軍曹殿に会える…会えない…会える…会えない…」
そんな彼女の姿は微笑ましい恋する乙女といった感じだが、よくよく見れば花びらをむしる指もそれをじっと凝視する眼差しも真剣そのもの。部屋には戦場の如き緊張感が漂い、息をするのもままならない…ような気になる。はっきり言ってとても怖い。
「…会える……会えない…ああっ、やっぱり明日も軍曹殿にお会いすることができないのか! こんなにもあの方を思っているのに…どうして私達を引き離そうとするのだ…!!天よ、神よ、どうしてなのですか!!!」
「仕事をしないでこんなことばっかりしているからでしょうが」
天と神に代わって二人の仲を二人を引き離している張本人はいつものように泣き崩れる上司を横目に容赦ない一言を浴びせる。全く、毎日毎日やれ花占いだの恋文だのにうつつを抜かしている時間を本来の職務に当てれば三日とかからずに彼女の望みは叶うだろうに。いつもは理性的で聡明なクリスが未だそれに気づかないのはやはり恋の魔法のなせる業なのだろうか…。
付き従う者としては、そんな迷惑極まりない魔法…いや、魔法というより呪いはさっさと解いてしまいたい。しかしそう簡単に解けないからこそ呪いは呪いというのだ。本当に厄介な代物である。パーシヴァルは鉛のように重いため息を落とし、文字通り山のような書類に支配された机に背を向けたままの騎士団長殿に目を向ける。
ああ、今日もまたこのまま日が暮れるんだろうか…。
否、そんなことをさせてなるものか。今日こそ彼女に仕事をしてもらわなくては。
そのためにあの二人…もとい一人と一匹に動いてもらっているのだから。
そういえば約束の時間まであと少しだな、もし戻ってこなかったり逃げ出したりした時は覚悟してもらおうか。ゼクセン騎士団誉れ高き六騎士の名にかけてローストダックになっていただこう…いつになく危険に満ちた想像に心を遊ばせながらパーシヴァルは窓越しに夕日を仰ぐ。いつもと変わらぬ静かな夕暮れ…ではなく、彼の耳には小刻みに震える羽音が届いた。
パーシヴァルにとって、それは待ち人の来訪を告げる呼び声であった。恋の呪いの特効薬がネギをしょって…もとい彼にとって溢れんばかりの希望を持ってやってきたのだ。
幼い頃、軍曹には夢があった。
まだ何か叶うもので何が叶わぬのか…その区別もつかない頃に思い描いた夢。
軍曹は空を飛びたかった。自分には空を羽ばたく鳥と同じように羽も尻尾もある。だからいつか、自分も空を飛べるはずだと信じていた。
それが「叶わない」に分類される夢だと知ったのはずいぶん後になってからだった。羽があっても、立派な尻尾を持っていても、自分達は鳥ではなくダッククランだから飛ぶことはできないと知った。悲しかったが、その頃には仕方ないと諦められるほど軍曹は大人になっていた。
今となっては懐かしい思い出だ。
だがしかし、今さらになってあの頃の夢が叶うとは…本当に人生は分からない。今、軍曹は自分の羽でないとはいえ大きな虫の背にまたがり、片手にブドウの包みを抱え…大空ではないが空中には浮いている。目の前の開け放たれた窓辺には銀糸のような髪を乱し、少々大げさに泣き伏しているうら若き乙女が一人…彼とその下で事の成り行きを見守っている男の運命を握る人物である。
ブラス城に到着してすぐ、ナッシュに連れられるまま軍曹は騎士団長書斎の真下…つまりクリスの部屋の真下まで連れてこられ、
「それじゃ頑張ってくれよ、ロミオ様」
というわけのわからない激励と共にルビに乗せられたかと思うと、ルビはあっという間に三階の窓辺まで飛び上がった。
そこに待ち構えていたのは先ほども見た年甲斐もなく泣き伏す騎士団長と意味深な笑みを浮かべるその部下であった。全く状況の分からぬ軍曹はただただ唖然とするばかり、だがそれもしばしの間の話。突然クリスの背後に立っていた彼女の部下…パーシヴァルはおもむろに羽ペンを滑らせ、紙に何かを書いて軍曹に突きつけた。
「な…なにを…ない…ておら…れるのか…く…クリス殿?」
…と、パーシヴァルがこちらに向けている紙に書いてある。下に<囁くように、ロマンチックに>という演技指導も入っているが、囁いてはルビの羽音にかき消されて届かない。なのでしぜんと大声になる。これではロマンチックなど望むべくもない。
「そ…そのお声はもしや…」
ルビが巻き起こす、机の上の書類を吹き飛ばす勢いの風の中、クリスはようやく自分を取り巻く異常事態に顔を上げる。その瞬間目と目があったのは一日たりとて忘れられなかった声の主、愛しのダック…ではなくルビの顔面だった。
「…! 軍曹殿、しばらくお会いせぬうちにずいぶんと骨格が大きくなられて…しかしこれはこれで包容力があって私は素敵だと…」
「クリス殿、その勘違いはあんまりでは…」
「えっ…あっ、えっ?ぐ…軍曹殿! 本当の軍曹殿なのですか!!! いつの間に!? それ以前にどうやってここまで…」
それは見ての通り虫に乗って…そう答えようとしたところでまたしてもパーシヴァルの演技指導が入った。
「こ…恋の翼で…とんでまいりまし…たぁ!?」
どこが恋の翼だ?
どのあたりが恋の翼だ!?
これはどこからどう見ても虫の翼だろう!!!
…と、胸の内で騒ぐだけなら自由である。ただこれをちょっとでも口にしたら即オーブン行きになることは間違いない。
こちらを凝視する彼の目が重低音でそう囁いている。
「恋の翼だなんて…そんないけませんわ軍曹殿、あなたには奥様もお子さんもいらっしゃるのですから…でも、そのお心だけでクリスはこれ以上なく幸せです。しかし軍曹殿は詩人なのですね。武芸だけでなく芸術までたしなんでおられるとは…」
「いやこれはだなクリス殿…その通りです」
『おしゃべりダックはどんな味?』
こちらに向かってひらひらと揺れるメッセージに、軍曹は言葉を飲み込んだ。そして同時に、今はあやつりダックに徹するのが一番安全であるということを悟った。
「く…くりす…どの…の…ことを思うと…よる…も…ねむれ…ず…ひとめ…おあいしたい…きも…ちを…おさえ…きれ…ず…ここま…で…きて…し…まいま…した」
しかしどうでもいいがこの男、よくもまぁこのような台詞を次から次へと考え付くものだ。いっそ騎士など辞めて専属の劇作家にでもなった方がいいのではないか?ふかふかの羽毛も凍るような気障な台詞を言わされ続けている軍曹はふとそう思い顔をしかめる。武器を取れば向かうところ敵なしの軍曹だが、それでよく嫁さんを捕まえたものだと周囲から言われるほどこの手のことは苦手であった。当然吐き出される台詞も甘いささやきには遠く及ばない。だがクリスにはそんなことは問題にならないようだ。
「それほど…それほどまでに私のことを? ああ軍曹殿、クリスは感激でこのまま息絶えてしまいそうです」
彼女は、愛しのダックが自分の目の前にいるという事実にすっかり舞い上がってしまっている。今の彼女にはしどろもどろになっている困り顔の軍曹の顔など見えていない。夢にまで見たふかふかのおなかとふさふさの尻尾。それで頭が一杯なのだから。
「クリス殿…俺はこれ以上…あなたと離れていることに耐えられない…」
「ええ、それは私も同じ気持ちです」
「しかし、俺にも…彼の城を守るという…使命が…ある。やはりこのようにあなたに会いに…くることは…むずかしい。だから一刻も早く、帰ってきてください。俺のために」
軍曹は指示通り『俺のために』という部分を強調して言った。どうやらパーシヴァルはこれを究極の殺し文句と考えていたようだ。事実、この言葉を言った途端クリスの目が先ほどの倍輝きを増し、先ほどの三倍うっとりと呆けている。
その様子を背後から観察していたパーシヴァルの目がきらりと光る、どうやら彼は今がトドメを刺す時だと判断したようだ。
「私にはこれくらいしかできません…が、どうぞこれを」
『プレゼント攻撃、開始』
という言葉通り、軍曹は片手に抱えていたブドウの入った紙袋を手渡した。
「これは…軍曹殿から私に? ああっ、まさかあなたから贈り物がもらえる日がくるとは…今の私にはこのブドウの一粒一粒がアメジストのように輝いて見えます…ありがとうございます、軍曹殿」
「よろこんでもらえた…なら、俺も嬉しく思う」
「…」
「どうしたのだ、クリス殿」
「軍曹殿、クリスは今日から心を入れ替えます。あなたの思いに報いるため、一刻も早くあなたの元へ参るため、頑張ります」
その瞬間、クリスの後ろでパーシヴァルが密かにガッツポーズをしたのを、軍曹は確かに目撃した。
「あの、ですから…ひとつだけお願いがあるのですが」
「…?」
「軍曹殿!!!」
「…はっ!? 何ですかクリス殿!!!」
「後生です、一回だけ、一回だけでいいのでそのおなかをふかふかさせて下さい!!!」
その時の軍曹殿の顔ときたら、それはそれは見ものでしたよ。後にパーシヴァルは楽しそうにそう語った。
束の間の逢瀬、そしてそのおなかをふかふかさせてもらった効果は絶大であった。
その後クリスは文字通り不眠不休で書類の山と格闘し、僅か三日で自由を勝ち取る。
そのあからさますぎる変化に、今までずっと手を焼かされていたパーシヴァルは「次からはもっと早くやる気になって下さい」と苦い顔をしていたという。
そしてクリスがビュッテヒュッケ城に帰還するより一足早く、ジョー軍曹の元へはこんな書き出しの手紙が届いた。
『拝啓、軍曹殿
この度はご協力誠にありがとうございました。
そして今後とも何かありましたら助力のほど、よろしくお願いします。
手始めに長く城を空けていたため、今度はこちらでの職務が滞っております。
つきましては早速クリス様への心温まる励ましをお願いしたく…』
差出人はパーシヴァル・フロイライン。
受け取った軍曹は相手に悪いと思いつつも大きなため息を吐いた。
まだまだ、平穏な日々は遠そうだ。
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