勢いよく、水しぶきがあがった。
きゃあっと悲鳴をあげたリーザが、スカートをひるがえし笑いながら逃げていく。わざと足を大きく蹴り上げて、エルクがまた水しぶきを飛ばした。すでに彼はシャツから何から全部脱ぎ捨てて、ズボン一枚になっていた。
「エルクったら! びしょぬれになっちゃう!」
息をきらして波打ち際をリーザが逃げ回り、それをエルクが追いかける。まわりをぐるぐる駆け回るパンディットがうれしそうに吠え、それが二人の笑い声にかさなって、夕暮れ近い砂浜に響いた。
「若いものは元気じゃのう」
ほっほっと笑ったゴーゲンに、徳利で酒をぐい飲みしていたトッシュが、け、と吐き捨てるような音をたてた。
「戦い済んで日が暮れて、こちとらぐったり疲れてるってのによ。この上楽しく水遊び三昧できるってんだから、お子さまの体力って奴は底無しだぜ」
「年なんか、関係ないと思うけどなあ」
村人からもらったパンをむしゃむしゃと食べながら、ポコが口をはさんだ。パンと言ってもこのあたりの島で作られるものは、イモやトウキビをつぶして粉にしたあと、水で十分に練り上げて、釜で平たく焼いたもののことをいうのだ。いつも食べるものとは違っていても、それは香ばしくてかすかに甘みがあり、ぱりぱりとした歯ごたえがあった。ポコはもうそれを何枚もたいらげているのだ。
「ここんとこ、ずっと戦い続きだったもんね。おまけに最後の二日間は、ほとんど飲まず食わず寝ずで走りまわってたし。僕だってもう、走り回る元気なんか残ってないよ」
「……それだけ食べる元気が残っていれば十分だと思うけど」
ためいきまじりにシャンテが言い、水辺ではしゃぐ少年と少女に目を移し苦笑した。
「十四と十五か。いいわよね。あたしもあれくらいの年の頃は、あんな風に走れたのかしら」
「よせやい、そういう言い方は」
苦い顔で、トッシュが文句を言った。
「なんか俺まで、えらく年をとっちまったような気がするじゃねえか」
ちぇっと舌打ちして、また徳利を傾ける。中に入っているのは村人に分けてもらった、この島特産のトウキビから作る酒だ。濃い茶色をしていて、ねっとりとしてコクがあるそれは、かなりアルコール度の高い酒であるらしく、日に焼けたトッシュの目元はすでにぼんやりと赤らんでいる。
「どうだい。お前もいくか?」
腕組みをしたままかたわらに立っているシュウに、トッシュは徳利を掲げて見せた。無口な男は、ちらりと視線を向けたが、黙ったまま首を振った。
「愛想がねえな、相変わらず」
つまらなそうに口をひんまげたトッシュが、皆から少し離れたところに座っているアークを見つけ、一瞬、気掛かりそうに目を細めた。彼らのリーダーを務める少年は、いまだ武装も解かず、無意識のように片手で砂をもてあそびながら、ぼんやりとした顔で夕方の海を見つめている。
ポコやゴーゲンと目配せした赤毛の剣士は、ことさらに明るい調子で声をかけた。
「よし、そんじゃアーク、お前はどうだ?」
アークが、え、とおぼつかなげに顔を向けた。いっとき、何を言われたか理解できなかったらしい。
「俺は――――いや、俺もいい」
首をふって、ぎこちなく笑顔を作る。トッシュはことさらに、子供のように口をとがらせて見せた。
「なんでえ、付き合いが悪いじゃねえか。酒と言えば一升でも飲み干せるお前が遠慮するなんざ、らしくねえぜ」
「……後でもらうよ」
かすれた声で、答えた。へ、とトッシュが鼻を鳴らす。
「酒を残すなんてえ罰当たりな真似を、この俺さまがするとでも思ってんのかよ。見損なうんじゃねえや。後で欲しいなんて言っても、わけてやんねえからな、覚えとけよ」
ぶつぶつと文句をつきつつ、また徳利をあおる。かすかに微笑したアークは、鎧をきしませながら立ち上がった。
「――――少し、歩いてくる」
妙に平板な声で、そう言った。
「しばらくしたら戻るから、皆は俺を待たずに、先に休んでいてくれ」
おう、とトッシュが、徳利をふりあげて答える。笑みを返してアークは、昼間の熱のまだ残る砂浜を、ひっそりと歩きはじめた。
空を行く海鳥の声と、波の音。
白い砂浜を、アークはうつむいたまま歩き続けた。打ち寄せる波が、彼の後を追うように点々と残された足跡を、静かに洗っては消していく。湿り気の多い潮風が髪をなぶり、連日の戦いで少しそげた頬を、朱色の夕陽が照らしていた。
足を止め、アークは海を見た。
金色に輝く雲を従えて、太陽がゆっくりと沈んでいく。
足元に静かに打ち寄せ、再び海に帰っていく波。鉛色の海面に浮かぶ、金と朱色の豪奢な光の道。
この道はどこに続いているのだろうと、そんな埒もないことが頭に浮かんだ。
空虚な気持ちのまま、アークは夕陽を凝視した。
たぶん人は、この光景を美しいと感じるのだろう。
だが、彼の心には、何の感慨も浮かんでこなかった。輝くものがそこにある、ただ、それだけだ。
はじめて海を見たときは、こんなではなかった――――と思う。あれは、スメリア王の命を受けてミルマーナに旅だったときのこと。シルバーノアの舷窓から、ポコとククルと三人で、波頭きらめく海を見た。青と白のコントラストがこんなにもきれいなものだとは、あの日まで思いもしなかった。
だが、今は……。
水平線近くにかかる雲の合間から、夕陽が挑戦的に光を放つ。水面は藍色から黒へと、空は茜色から紫色へと変わりつつあり、それが多くの人にとって、心揺さぶられる光景なのだということは理解できた。
だが、俺は、夕日があまり好きじゃない。だから、きれいだとは思えない。
ことに、海に落ちる夕日をアークは嫌っていた。それはアークにあの日のこと、聖櫃が奪われてトウヴィルが結界に包まれた日のことを思い出させるのだ。旅の果てに、ようやくたどりついた洞窟の奥――――ひっそりと静まり返った空間に置かれていた、聖櫃。
洞窟を出たところで捕らえられ……。
地割れがおき、ククルの姿が亀裂の向こうに遠ざかるのを見た。
耳の奥で執拗に響いた、天からの声。
戦いに向けて旅立てと、その声は言った。
故郷、帰るべき家、思い描いていた未来。なにもかもを無くした自分に、この世の存亡を賭けて戦えと。
……ほかに道はなかった。座して滅びを待つわけにはいかないのだ。母はアンデルのもとで捕らわれの身となり、ククルは、トウヴィルの神殿で闇の復活を阻止するための孤独な闘いを続けている。自分だけが、逃げ出すわけにはいかない。
だから、誓った。
トウヴィルの岸壁で、沈みゆく太陽を見つめながら、戦わねば――――と。
夕陽はいつも、つかの間の美しさしか与えてくれない。それが消えた後は、闇が来るのだ。容赦の無い暗闇が。悲鳴も、嘆きも、すべてのものを飲み込んでしまう無慈悲な夜が――――。
だから夕陽は、好きになれない。
風がふいに強くなった。
ひとつ息をつき、アークは元来た方をふりかえった。すでに、皆の姿はどこにも見えない。宿営地に戻ったのか、それとも、知らぬ間に視界から消えるほど長い距離を歩いていたのかもしれない。
海へと目を転ずれば、夕日は最後の光を放ち、今にも波の向こうに沈もうとしていた。アークは苦い笑みをうかべた。我にもあらず、愚痴めいたことを考えて時間をとってしまったようだ。
戻ろうか、と足を踏み出したとき、がしゃ、と金属のこすれる音がして、アークは思わず自分の体を見た。あちこちに傷のある、古びた銀色の鎧。そういえば、まだ着替えすらしていなかった。ため息をつき、アークは唇をかんだ。どうやら疲れて、気持ちが沈みやすくなっているらしい。
だが、それも、無理はなかった。どれほど力を尽くしても、世界を覆いつくそうとする闇はじわじわと暗さを増していく。彼らの戦いは、単なる応急手当にすぎず、敵は常にアークたちよりも一歩先を進んでいた。
だから、弱音を吐くのは禁物だと思いながらも、ときにはふと恐れが心に浮かび上がってくる。
闇を止める手立ては、もう残っていないのではないか――――という思いが。
アークは、空を仰いだ。
群青色に透き通る天の頂に、小さな星が、ひとつ、またひとつとまたたいている。虚空の果てから届けられた光が、迫りくる闇に抗うように、しんしんと輝きを放ちつづけているのだ。
息をつき、彼は拳をにぎりしめた。思ったよりもずっと強い力が、手の中にあふれてくる。
――――大丈夫だ。
そっと、自分の胸にささやいた。
大丈夫、まだ、歩いていける。
今は少し疲れているけれど、でも、一晩寝ればまた力がよみがえってくるだろう。人にはもともと、生き続けるための力を備えているのだ。それは、神から授かった力とは関係のない、生命そのものが持つ耐久力だった。ククルも、いつも言っている。傷を癒し、ふたたび立ち上がるための力は、つねに己が身のうちにあるのだと。
たとえククルが聖母の力をもってアークの身と心を癒してくれようと、他者が与えてくれる力は、手助け以上のものにはならない。最後には、自分の力で立ち上がらねばならないのだ。生まれたばかりの子馬が、華奢な脚でよろけながらも立とうとするように。
きびすを返して、彼は元来た方へと歩きだした。そろそろ戻って、するべきことをしなければ。そして明日一日が過ぎれば、また戦いに戻っていく……。
ぼんやりとした視線を、彼は砂浜に落とした。ふと、砂の上に、光るものがあるのに気づいた。なかば芒洋とした思考のまま、彼はそれに近づき、拾い上げた。
楕円形の、貝殻だった。
外側はごつごつとして岩のかけらのようだが、内側は鮮やかな虹色に輝き、アークの手の中できらきらと光を放っている。しばらく彼は手の中で貝殻を弄び、夕陽の名残が貝の内側がほのかに映えるのを見つめた。
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