凍える夜だった。
北の方から張り出してきた厚い雲は氷雨を地上へともたらし、その氷雨も気が付いた頃には雪へと様相を変えていた。白い綿が降り頻る情景は諸国を彷徨い旅していればそう取り立てるようなものでもないのだが、この辺りから出た経験のない者にとってはかなり珍しくなるらしい。ただでさえ一年で数日しか雪などには遭わない上、あたかも霧のように視界を埋め尽くすものともなれば尚更だ。
音もなく密やかに降りてくる雪は屋上の石の上に薄い層を重ねる。踏めば何の手応えもなく消えてしまうだろう、少なくとも明日の朝、温かい太陽の光を浴びればあらかた溶けてしまうに違いない。それでも深い闇の中、止まず落ちてゆく白い群れを、全身で受けている少年がいる。こちらの気配に気付くと、仰向けに横たえていたその体を起こした。まるで悪戯を見つかった子供の表情だ。
「レイラさん」
名前を呼んだ後は、叱られた子供のようになった。
「体を壊すぞ」
特に険しく作ったのでもない口調でレイラは声を発する。発しながら、ユエリーのことだから自虐を意図しての行動かとも考えたのだが続いた科白からするに、真実とはずれていたらしい。
「冷たさを、感じたかったんです」
レイラは眉間を狭める。
「皆暖かいから、その暖かさに、慣れてしまうから」
僅かに眼差しを伏せ、ユエリーは噛み締めるようにして言う。誰かに告げようとする風ではない、しかしただ独りごちるといったものとも違う。
「本当の冷たさに遭った時凍えてしまわないように、覚えておかなくちゃならないと思って」
繋がれる単語を、レイラは黙って聞くばかりだ。冷たさとはつまり、いつか今の仲間たちに煙たがられ、疎まれて独りになることを指すのだろう。必要以上に自らを卑下し、能力すら遙かに越えた苦しみという罰を得ようとする彼らしい思考では確かにある。瞳を心持ち細めたところで脳裏へと飛来したのは、以前旅先で耳にした記憶のある風説だった。何処とも知れない、近くなのか遠くにあるのかも判然としないその異国では、雪が魂の砕けた欠片として捉えられているのだという。
果てた後天空で裁きを受け、最後の救いを求め舞い降りた地上に積もり、浄化されるのを待っているのであり、その天へは決して届き得ない腕故に雪は儚いのだと。ゆっくりと歩み寄り、ユエリーの傍らへと片膝を落とす。手を差し伸べ、怯えるように僅かに震えたその頭、そして服に柔らかく被った雪を払ってやった。
「あの、すみません」
済まなさそうにユエリーが声を掛けてくるが、それには反応を見せずに綿帽子を全て地へと落としてしまう。
「つくづく好かれる体質らしいな」
「え?」
怪訝げな面差しを見遣り、軽く唇の端を緩めた。いや、と肯定を口にする。
「意味はないだろう」
「慣れさせることに、ですか?」
「君の言う冷たさは、懼れているよりずっと苦しい」
言い放ってやれば視界の中央、ユエリーはまなじりを強張らせる。しかし俯きはせず、それどころか真摯さすら伝わってくるような瞳でレイラを凝視している。二の句を催促されている感じを覚えながら、レイラはまた髪に降り掛かった雪を指で絡め取る。
「それに」
一旦結んだ唇を、ややを置きほどく。
「君は生きるだけで充分だ」
「僕がリーダーだからですか? 皆を犠牲にしても生きるべきだってことですか?」
深層の奥、琴線に触れたのか唐突にユエリーは言い募る。
「君は生きねばならない」
静かに、しかし明瞭な口調でレイラは告げる。
「骸を浴びても歩き続ける、それが君の選んだ修羅の道だ」
ユエリーは瞳を瞠る。上げられた瞼の動きに応じ、反った睫毛に雪が一つ留まる。微かに伝わっていった体温で水へと変わり、鼻筋へとこぼれ落ちた。
「それは、貴方も」
遠慮がちに口にされ、その言葉は途中で喉の奥へと飲み込まれた。レイラは頷く代わりに小さく笑みを漏らし、腰を上げる。追うかのようにユエリーもまた立ち上がり、上衣の裾を何度か引っ張ることで背中の雪を落としているらしい。視線が合うと照れ臭げな様子を見せたが、さほども経たないうちに表情は正される。
かと言って深刻な顔でもない。腕を掲げ、その指でレイラの肩に触れる。小さく動かせば一つまみ程の雪が近い宙を舞い、白く変わった床に落ちた先で不恰好な山を作った。
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