望むことは、酷なことだろうか。
強くなれ、と望むことは。
誰よりも強く、
父すらも超えて、
強くなれ、と───。
「陛下…!」
「よい。そのまま続けよ」
慌てて蹲踞する騎士たちに鷹揚に手を振ると、英雄王はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。途端にむせ返るような血の匂いと、肉の焦げるような異臭が押し寄せてくる。王に付き従う近衛兵たちは、漂う異臭と、その元となっている「もの」の惨状に、表情を強張らせた。
「…何人、やられた?」
王の低い問い掛けに、騎士の一人が痛ましげな表情で答える。城の南面の守備に就いていた者たち殆ど全てといっていい人数に、王の眉間に刻まれた皺が深くなった。
たった一人の侵入者のために、十数人の若者たちがその命を散らした。敵に、一刀なりとも浴びせることも敵わずに。
「数人、まだ息が残っておりましたが…」
それすらも、夜明けまで何人保つか。言外に感じ取った響きに、王はただ頷いただけだった。城の守備は決して薄くはない。侵入者がどう見たかは分からないが、破られたのは幾重にも張り巡らされた防御の壁の最外郭…その一部に過ぎない。その守備を担っていたのは正規の騎士団に上がる前の、若手の傭兵隊。実力的には、まだまだ未熟と言わざるをえない兵士たちだった。
だが、それだけに───。
(まだまだ、未来のある若者たちを喪った、か…)
英雄王は微かな吐息と共に、そっと身をかがめると足元に横たえられた若者の骸に手を伸ばした。周囲の者たちが固唾を飲んで見守る中、泥と血に汚れた頬を拭い、断末魔の苦痛に見開かれた目をそっと閉じさせる。一人一人、全ての骸の顔の汚れを拭い労わる王に倣い、騎士たちは静かに瞑目し祈りを捧げた。未熟ながら城を護るために死んでいった勇士の鎮魂の為に。
そうしている間にも、骸の数は増えていく。剣術が盛んなこの国に、魔法の使い手は殆ど居ない。回復魔法の使える騎士たちも、その習熟度は僧侶に及ぶべくもない。応急処置に毛の生えた程度の効果しか期待は出来なかった。
「…」
ぽつりと呟いた言葉に、傍に控えていた騎士が訝しげな表情を向ける。それに、何でもない、と苦笑を返すと英雄王は心の中で続きの言葉を噛み締めていた。
(また、背負う命が増えたな───)
(ロキ!)
(───来るなッ!)
文字通りの血を吐く叫びに気圧されて、一瞬足が停まる。血と泥と汗に塗れた友の顔は、血の気を失い蒼白ではあったが、叫びに似つかわしくないほどに穏やかだった。
(…どうやら、ここまでのようだ)
竜の額に深々と突き刺さった友の剣。そして、その一撃の為に全身に深い傷を負った友。既に死の翼は敵と友を包み込み、彼の手の届かぬ彼方へ連れ去ろうとしていた。激戦の果てに崩れだした大地は、底知れぬ穴へと落ちていく。竜の巨体も例外ではない。足掻く竜をあざ笑うようにその足場は脆くひび割れ、ゆっくりと傾ぎ、沈んでいく。鋭い錐に貫かれ、竜の身体に縫いとめられてしまった友もろともに。
(何を言ってる。今───)
助ける。そう言いたかったのか。傷だらけの身体を引きずり、崩折れそうな膝を叱咤して走り出す。傍らでは、同じように満身創痍となった仲間がとうに尽きた魔力を掻き集めて、魔法の詠唱を始めるのが聴こえた。
ぐずぐずになった地面が、足の裏で崩れていくのを感じた。妙にゆるやかに流れていく時間の中、友の藍色の瞳がまっすぐに自分を捉えるのを見た。
(馬鹿野郎! 来るな!!)
声と一緒に飛んできたものに足を直撃されて、思わず地面に倒れこむ。怒鳴り返そうと顔を上げた時、既に友の身体は彼の手の届かない奈落へと落下しつつあった。
(ロキ!!)
届かないことは分かっていた。それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
絶叫に応えるように、友が薄く笑みを浮かべた。すっかり見慣れた、そして、ずっとこれからも見るのだと信じていた微笑。不敵でいながらどこか寂しげな、誰にも真似できない独特の笑み。
(お前は、生きろ。生きて───)
轟々と崩れていく土砂が、視界から彼の姿を奪い去ろうとする。必死で際から身を乗り出す背中を、追いついた仲間が引き戻した。それでも、少しでも長く友の姿を、声を捉えようとする身体は、前へ前へと進んでいく。
(駄目! 貴方まで落ちてしまう!!)
そう叫んだ仲間へようやく視線を向けたのは、竜も友も轟音も、全てが底知れぬ大地の裂け目へと消えた後のことだった。
(…言ったんだ…)
泣いていたのか、笑っていたのか、よく憶えてはいない。自身の呟きすら、他人の声のように聴こえていた。
耳の中で、友の最後の声だけがいつまでもこだましていた。
『お前は生きろ。生きて、───いい王様になれよ…!』
(あの時初めて、私は命を背負う重さを知った…)
英雄王は小さく嘆息すると、窓辺に立った。未だ夜明けを知らぬ薄闇の中、篝火に照らされて動き回る兵士たちの姿が見える。城内全体の空気が重苦しく張り詰めているのは、十数年ぶりのことだろう。彼の即位以来、初めてといっていい。それだけに、兵士たちの間には動揺が広がっていた。
(あの戦いでも、多くの兵が犠牲になった。毎日のように…)
そう、竜帝戦役で死んだのは、友一人ではない。フォルセナのみならず、世界中で多くの死者が出た。当時王子であった彼を護る盾として死んだ者も、その中には含まれる。その数は、一人二人ではないはずだ。そのことを、彼は考えていなかった。いや、頭では分かっていたが、実感してはいなかったのだ。
命をもって護られる、───他人の命を背負って生きる、その重さ。自らが歩む「王」という道の苛烈さを。
投げ出すことは許されない。命ある限り果たさねばならぬ、王の務め。
それを友は、自らの命をもって彼の内に刻んでいったのだ。
(お前は、知っていたのだな。命を託すということを。背負う者の重き道を…)
それでも。
命の重さが変わらぬことは知っている。誰もがかけがえのない存在であったとも思う。
それでも、尚。
「お前には、死んで欲しくなかったよ…。ロキよ…」
王としてではなく。一人の友を失った男として。
呟きは重く、誰も聴く者の居ない闇に沈んでいく。
(お前は、騎士の死に様を皆に教えてしまった。お前の息子も、後輩の騎士たちも、皆がお前を目指している。王の盾として死ぬことを、最上の美徳として「黄金の騎士」を目指す。…それは、お前の望むことか…?)
今も、城内の一室で必死の看護が行われている。数少ない生存者の中に友の忘れ形見の姿を見つけた時、どれほどの自制心を必要としたことか。
(お前は私に、お前だけでなくお前の息子まで盾にしろと言うのか…?)
問い掛けながら、自身の問いのおかしさに唇を歪める。無意味な問い掛けだ。親子何代にも渡って王家に命を捧げてきた騎士は、友一人ではない。現に、今夜の襲撃で死んだ若者の中には、先の竜帝戦役で親を失った者も多かった。王の嘆きは、その全てに向けられるべきなのだ。「生きよ」という言葉も、祈りも、全ての国民に向けねばならない。個人であって、個人ではない────彼は、「王」であるのだから。
「まこと、重き役目よな…」
再び搾り出すような呟きを洩らすと、英雄王は重い溜息をついた。
詫びの言葉は、宙に浮いたままだった。夫を旅立たせる為に病を押し隠し、今、死に瀕している女へ、一体どんな許しを乞えと言うのか。父に続いて母まで失おうとしている子供たちへ、なんと声をかけよと言うのか。
半ば呆然としていた彼を現実に引き戻したのは、皮肉にも、今しも母を失おうとしている少年だった。
(王子様、父さんは立派だった?)
揺るぎなく、まっすぐに見上げる藍色の瞳。柔らかな頬の中、それだけが凛と輝いていたのを憶えている。
(ああ。───とても、立派だった)
万感の思いを込めての言葉に、少年の顔がぱっと輝きを取り戻した。誇りと喜びが、喪う悲しみを乗り越え溢れ出す。
(僕も、大きくなったら、騎士になるよ)
父親譲りの藍色の瞳を輝かせ、胸を張って少年は言った。
(父さんみたいに強い騎士になって、王子様を守ってあげる。だから───)
そのとき、彼は少年の中に友を見ていた。不敵で寂しげな、あの独特な笑みを。
(もう、泣いちゃだめだよ)
憶えているだろうか、あの少年は。いともあっさりと、しかし厳かに言い切ったあの言葉を。
友の眠る底知れぬ穴を後にして以来、彼の顔から表情は抜け落ちてしまっていた。心でどれほど涙を流そうとも、それは面に出ることは決してなかったのだ。幼い子供のことだから、泣いている母や伯母を見てそう言ったのかもしれない。それでも、その言葉は長く彼の心から離れることがなかった。
ふがいない自分を叱咤するために、友が息子の口を借りて言いに来たのだ────そう思えてならなかったから。
その後の少年の成長は、めざましいものがあった。あれから数回彼の耳に届いた噂も、その剣技の激しさ、確かさを物語るものばかりだった。何よりそれがはっきりしたのは、先日の剣術大会だろう。王の御前という大舞台で、何の気負いもなく縦横無尽に剣を振るうその姿は、かつての友を彷彿とさせた。
むしろ、その年齢を考えれば父以上の才能の持ち主かも知れない。何よりもその剣技は、見る者の目を惹きつける。
独特の構えから繰り出される剣技は、父親の華麗にして苛烈な剣とは似ても似つかない。どこか野生の獣を思わせる、荒々しく豪胆な剣。赤銅色の髪を風になびかせ疾駆する様は、炎を纏っているようにも見えた。
鮮やかで激しい、父譲りの気性そのままに。
剣技だけならば、今すぐ騎士団に加えても遜色ない活躍が期待できるだろう。しかし、そのプライドの高さと性急さ、そして年若さなどの理由から反対する者も多かった。それも今回優勝したことで、随分静かになるだろう。
(…だが、今夜を生き延びることができなければ、それも全て無に消える)
僅かな生存者の集められた室内で、力なく横たわっていた少年の顔を思い出す。あれほどの技量の持ち主でさえ、侵入者には一矢も報いることが敵わなかった。自分の敗北が騎士たちの動揺を呼んでいるとは、さしもの少年も気付いていないに違いない。
そして、今やあの襲撃で生き残っているのは、自分一人であるということも。
「生きろ」
苦しみに歯を食いしばり、時折苦鳴を洩らす少年の傍らで、生存者の看護を続けてきた騎士が搾り出すように囁いていた。
「まだだ。まだお前たちはこれからなんだ。頑張れ…!」
必死の手当ても虚しく次々と喪われていく命に、自らの無力に打ちひしがれつつも、残り少なくなった魔力を掻き集めて回復魔法を施し続ける騎士たち。その声は、彼らの眠りに届いているだろうか。
自分と共に苦しみ戦っている、その声、その祈りは。
騎士たちと共に祈りながら、英雄王はただ、亡き友の面影の残る少年の顔を見つめていた。胸の内に、友の最期の言葉を反響させながら。
『お前は、生きろ。生きて、───』
(私もお前に言いたかった…あの時。生きろ、と…)
瞑目し、息を吐き出す。僅かに青みがかった空は、夜明けが近いことを告げていた。長い夜が、明けようとしている。
自室に戻ってきてから、何の報告も入っていない。彼が立ち去った後も、少年の容態に変化はないらしい。看護の騎士たちも、そろそろ交代させなくてはならないだろう。死者の家族へも悲報を告げ、葬ってやらねばならない。それを思うと、また心に重い石を詰め込まれるようだった。
強く在れ、そう自分に言い聞かせてやって来た。これまでも、そしてこれからも。かつて背負った友の命が、魂が、彼に立ち止まることを許さない。
そしてそれは、あの少年も同じなのだろう。その血でもって、父の魂を背負うあの少年も。
(死ぬわけにはゆかんぞ、デュランよ)
未だ死と戦い続けているであろう少年へと、声に出さずに呼びかける。
(私との約束は、未だ果たされていない。お前は、強くなるのだろう?)
あの偉大な友のように。
(いや───)
ふとよぎったのは、なんだったのか。予感、あるいはもっと漠然とした、不安だったかもしれない。
かつての友や、今夜失われた命のように───不意に崩れ去り、消えゆくことへの。
(───願うことは、酷なことだろうか)
強くなれ、と願うことは。
(英雄の名と、幾多の命を背負って喘ぎ喘ぎ歩むこの私よりも)
(仲間の盾となって散った父さえも超えて────強く)
「陛下!───英雄王様!!」
激しい足音を立てて駆け込んできた騎士が、英雄王の姿を見て顔を歪ませた。目の下に大きな隈を作ったその顔には、見覚えがある。減っていく生存者の傍らで、必死で励まし続けていたあの騎士だった。
激情に唇を震わせる騎士の、今にも泣き出しそうに引きつる呼吸に英雄王の表情が険しくなる。
しかし───
「奴が…! デュランが、目を、…目を覚ましました…ッ!!」
泣き笑いで叫ぶ騎士の顔を、暁の一条が照らし出す。一瞬息を呑んでその顔を見つめた後、英雄王はゆっくりと窓辺へ顔を向け、空を仰いだ。何かを耐えるように引き結んだ唇が微かに震え、細くて深い吐息が漏れる。
「…そうか…!」
───強くなれと。
王も父も超え、強く在れと。
どれほどの死線を潜り抜けても、愛する者たちの許へ戻れるように。
たとえその願いが、どれほど酷なことであっても。
祈らずにはいられない。
(強くなれ…デュランよ。誰よりも、強くなれ)
盾として死ぬためではなく、
愛する者と共に、歩むために。
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