ビーストキングダム――――ここは獣人王が治める王国。月に愛された最後の楽園。
そのビーストキングダムの一角、このシンプルな部屋にはベッドとテーブルと椅子が二脚。晦冥が辺りに漂い、微風が星の匂いを運ぶ。木々の囁きが重厚な城を包み込み、窓辺には暗闇を照らす柔らかな月光が覗いていた。
月影に照らされて、輪郭が浮かび上がる部屋のベッドには寄り添う二つの影。穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
「ん…ん……っ」
突然、ベッドの上で何かがもぞもぞと動き出す。それは母なる海の瞳に、春の日射しの髪を持つ少女。傍らには冴え渡る月の瞳に、明けの明星の髪を持つ少年が眠っている。
薄手のネグリジェに身を包んだ少女が少年の腕の中で小さく欠伸をした。少女はゆっくりと辺りを見渡し、何故、少年が横に寝ているのか首を傾げた。
少女は暫く不思議そうにしていたが、何を思い出したのやら、頬を紅く染めると不機嫌そうな顔で動き出そうとした。しかし、少年の身体が少女の動きを抑制している。宝物のように少年の胸元に抱き寄せられ、身動きが取れない。少年の右手にふわりと包み込まれて、少年の左手はしっかりと少女の腰にかけられていた。その手を退かそうとするが、体の小さい少女には日々鍛えている少年を動かすのは重労働だった。
何とか腕から逃れると呼吸を整え、無防備に傍で身体を横たえる少年を全力をもってベッドから追い出した。ベッドから落とされた少年は額を抑えて頭を振った。痛みを感じる腰をさすりながら寝ぼけ眼で辺りを見回す。
「ケヴィンのバカ!」
少女はベッドに俯せ、枕に顔を押しつけて頬を膨らませていた。
「シャルロットはお人形じゃないんでちよ!!ケヴィンのバカ……!」
何かはわからないが、シャルロットと名乗る少女の気を害したんだろう。ケヴィンと呼ばれた少年は、少女にわからないように息をついた。
シャルロットの癇癪はいつものことだ。
ベッドの脇に立ったケヴィンは苦笑すると腰を屈め、少女のフワフワとした金髪に顔を埋めた。
「オイラ、バカ?」
「大バカでち!」
シャルロットが間髪入れずに怒鳴る。
「どうしてバカ?」
微笑む少年を睨みつける。良い言葉が浮かばない。シャルロットは言葉に詰まった。
「う…!バカはバカでち!!」
「それじゃあオイラわからない。バカだから」
嫌味で言ってるのではないか訝しんでしまう。いつもはすんなりと引き下がるのに。今日のケヴィンは意地悪だ。ベッドから突き落としたのが悪かったのだろうか…。
シャルロットは頭を強く振った。そんなことはない。全てはケヴィンが悪いのだ。ちらっと見上げれば、少年はさっきと変わらぬ表情でシャルロットの答えを待っている。気まずい沈黙。先にこの空気に耐え切れなくなったのは少女だった。
「…シャルロットはお休み中だったんでちよ?なのに、アンタしゃんは……」
シャルロットはそこで口を噤む。一つの映像がシャルロットの脳裏に浮かんだ。
昨夜、人の気配を感じてシャルロットは目覚めた。寝ぼけ眼で目を擦り、辺りを見渡そうとした。
『だ…誰?!』
突然、抱き締められた。
『…オイラ』
啄むようなキスを降り注がれて。
『何するんでちか!さっさっと放せでち!』
だが、身体にまとわりついた腕の力は増すばかり。
『やだ』
少年の鼓動が聞こえてくる程に抱き竦められ、この華奢な身体を包み込む彼の体温が少女の思考回路を麻痺させる。どんな疑問詞も浮かばない。何も考えられない。心地よい束縛。そのまま抵抗もできずに彼の腕の中で眠っていた。それが昨日の出来事。
逞しい彼の腕の中に自ら身を寄せるように眠っていたとは、とてもそれを乙女の口から言えない。抱き締められたまま、その気持ちよさに眠ってしまい無防備にも寝顔を曝した、などと口にした途端、恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
ケヴィンが顔を覗き込んだ。金色の瞳がシャルロットの全てを暴き出しそうで怖くて目を逸らした。
「シャルロットに…?」
ケヴィンが先を促すように言葉を繰り返した。
「その先はアンタしゃんがよく知ってまち!シャルロットに訊かないでくだしゃい!!」
自分の身体を抱き締めて吐き捨てるように言葉を放つ。
「知らない」
シャルロットは目を見開いた。意地悪どころではない。
「ケヴィンしゃん!」見上げた先にあったのは澄んだ瞳。
「教えて」
シャルロットは頭を抱えた。コレはケヴィンの皮を被った悪魔に違いない。
「……セクハラ男」
「…何?」
シャルロットは殴りたくなる衝動を抑えた。
「レディに何を言わせるつもりでちかっ!いい加減にしないと…」
「そんなにオイラ…キライ?」
今までとは違う、低くなった声に反応してシャルロットが体を起こした。泣き出しそうな顔をしてケヴィンが見つめていた。
「オイラに触られるの、イヤか?」
心の中の怒っていたシャルロットはいつの間にか消えていた。
「好きでもないオイラと…オイラと結婚する羽目になって、イヤ…?」
唇を強く噛みしめて、ケヴィンは顔を俯せた。認めたくない。けれどそれは真実で。
聖剣の勇者の一人であり、頓に頭角を見せ始めた獣人達の新興国家ビーストキングダムの皇太子であるケヴィン。そのケヴィンへ聖都ウェンデルから和睦の証にシャルロットを献上してきた。彼女も聖剣の勇者の一人であり、ウェンデル最高位の“光の司祭”の孫娘である。お似合いの二人だと、周りがどんどん進めていった。二人の意思なぞ関係なく。
二つの国を挙げての婚礼は盛大に行われた。獣人と人間、大勢の国民に祝福され、幸せな二人に見えたであろう。人間と獣人が共に生きる時代へ導く、輝かしいものとして人々は認識しただろう。
しかしそれはまやかしだとケヴィンは知っている。この婚礼はウェンデルとビーストキングダムの強い結びつきを各国に知らしめる為だけにあった。それはウェンデルの薄汚い陰謀に彩られた茶番劇。
もう二度とウェンデルを攻められないように。未来の獣人王にウェンデルの血が入るように。ビーストキングダムをウェンデルの血で縛り、飼い犬にしようとするその思惑が目に見えてわかる。彼らは身を守る為に、少女を生け贄として捧げたのだ。
久しぶりに会った同い年の少女は抜け殻のようだった。ケヴィンが知らない男のことを嬉しそうに語り、笑っていた少女はいない。仕方がない。信じていた者達に裏切られたのだから。無表情でケヴィンを見上げる少女はもう笑ってくれないのかもしれないと思った。
あれから大分経った。
笑ってくれるようになったが、しかし、シャルロットの涙で枕が濡れる日もあった。
好きな人を想ってだろうか…?
友と思っていた男を愛さなければならなくなったからだろうか…?
現在、彼女の側にいるのは彼女の最愛の人ではない。獣のように貪るしかできない哀れな男。
相手を押さえ込むしかできない。縛りつけて。逃げられないように。誰の手にも渡らないように彼女を閉じ込めるしかできない。これ以外の愛し方なんて知らない。欲しいものを手に入れる方法なんて誰も教えてはくれなかった。ここで生きるには力があれば良かったから。
こんな男の許に誰が来ようと思うだろうか。縋ることしかできない自分よりも、支えてくれる、違う男の傍で彼女は幸せになる筈だった。
心から願うものはいつも遠い。振り向いてはもらえないと諦めていた人。
常に言い聞かせていた。友達でもいいじゃないか、と。だからその彼女と結ばれることに純粋に喜んだ。やっと、友としてではなく、男として受け入れられる。例え愛されていなくても。
シャルロットが、この政略結婚をどう思っているのか考えたくもなかった。
「好きな人と結婚できなくて、オイラのモノにならなきゃいけなくて…イヤか?」
もしも、獣人王の嫡子でなければ、王位継承者でなければ、ただの男だったなら。地位も名誉も何もなく、それでも彼女は傍らにいてくれただろうか…?
女性を喜ばす言葉も、彼女を幸せにする方法も、何も知らない。戦う事しかできない躯。好かれる所なんて何もない。あまりにも惨めで唇を噛みしめる。
シャルロットは深呼吸すると爪痕がつく程に手を握り締めた少年の頭を自分の左胸に押しつけた。
「シャルロット、何…!?」
急に頭を抱えられて、ケヴィンは慌てふためいた。
「大人しくしろでち。シャルロットちゃんはアンタしゃんと違って、か弱い乙女でち。暴れるなでち」
シャルロットの心音が聞こえてくる。
「赤ちゃんは心臓の音を聞くと落ち着くそうでちよ」
見上げるとシャルロットが微笑んでいた。ケヴィンはシャルロットの背中におずおずと手を回す。
「シャルロットはそう言う意味でケヴィンを責めている訳ではないでちよ。シャルロットは同意を得てから…と言ってるんでち」
シャルロットへの束縛を少し強くしてケヴィンは呟いた。
「…オイラのこと、イヤじゃないのか?」
シャルロットは一緒に旅をしていた昔のように微笑んだ。蒼く澄んだ瞳が眩しくてケヴィンは目を細めた。
「嫌いなら指一本触れさせないに決まってるでちよ。やっぱりアンタしゃんはおバカさんでちねぇ」
シャルロットに嫌われていない、その真実がケヴィンの胸を躍らせる。だが、気になる事があった。受け入れてくれていたのならば。それでは何故シャルロットは泣いていたのだろう。
「じゃあ、何故泣く?」
シャルロットは知っていたのかと目を伏せた。
「気づいていたならもっと早く訊けでち。アンタしゃんは鋭いようで鈍いでち」
ケヴィンは目を瞬かせるとシャルロットの頬にそっと触れる。彼女の温もりがこの手を伝わりケヴィンへと流れていくのを感じた。
「オイラ、鈍くない。温かい、柔らかい、ちゃんと感じてる」
確かに感覚は鈍くはないだろう…彼は人間よりも鋭い獣人なのだから。
意味を取り違えている少年に呆気に取られながら彼の耳元へ囁いた。
「…アンタしゃんの愛人希望者に嫌がらせ受けてたんでちよ。もちっとマシな世話係が欲しいでちね」
現在、ビーストキングダムでは各国から送られてきた娘達が働いている。出自は様々であるが、やって来た目的はほぼ変わらない。
マナが弱体化した今、魔法国家アルテナは国としての機能をほとんど果たさなくなった。
ウェンデルについても同じである。あそこを支えているのは信仰心のみ。信仰心を侮れはしないが。
ローラントは一度滅びた為に自国の守りを固めるので精一杯。
ナバールは砂漠の緑化作業の為、世界各国へ援助を求めている位で、軍備強化に予算を割けられるはずがない。砂漠の民と協力して砂を動かないように固定し、灌漑設備を整え、ナバールの戦闘員も全て植林や井戸掘りなどに充てられている。今のナバールは義賊を辞め、非営利組織として活動している。戦う力はないに等しい。
各国が復興に喘ぐ中、今やビーストキングダムを押さえられるものは騎士団を持つフォルセナのみ。フォルセナにしてもアルテナから二度襲撃された傷が癒えていない。どこからも攻められていないビーストキングダムの方が有利なのは目に見えていた。
更に付け加えると、ウェンデル侵攻は人間達の獣人に対する認識を変えるのに十分だった。獣人を下等な生き物と侮っていた人間達に、見下されていた者達がとうとう牙を剥いた。ジャドからアストリア、ウェンデルへと向かう獣人達の、見事な手際。ウェンデルを攻め滅ぼすまでには至らなかったが、それでも人々を変えるのに十分だった。
決して人間に劣らない、恐ろしい獣人。
その上、聖剣の勇者の一行に獣人達の未来の王がいたとなれば、人間達は獣人を認めざるを得なかった。世界に一目置かれ出したビーストキングダムに取り入ろうとする輩が出てきてもおかしくはない。
娘達は、だからこそ、このビーストキングダムにやってくる。もし、ケヴィンの目に留まり、強国ビーストキングダムの王位継承者をその身に宿す事ができれば、その一族は安泰である。例え世継ぎを産めずとも寵愛を賜る事ができればそれなりの待遇を約束される。だから本人の意志があるなしに関わらず、ビーストキングダムの加護を得る為に、宮仕えと称して娘を差し出してくる。シャルロットの身の回りの世話をするのもそんな娘の中の一人だった。
シャルロットが難なく正妃の座についたが為に行われる陰湿な苛め。ケヴィンが側室を持たない為に彼女達の行為は尚更に陰険さが増した。そんな女の戦いを知ってか知らずか、ケヴィンは呆れたように少女を見た。
「なら早くオイラに言えばよかったのに」
「そうすると負けた気がしてイヤだったんでちよ!」
シャルロットの愛らしい頬が膨らんだ。
「でも、結局言ってる」
少女が小さな唸りを上げると更に頬が丸くなった。
「ウルサイでちね!アンタしゃんが訊くから教えてあげたんじゃないでちか!もういいでち。アンタしゃんの相手なんてしてあげましぇん!」
そっぽ向いた少女の背中を抱き締めた。
「それは困る。もうそろそろ赤ん坊、欲しい。シャルロットはいらないのか?」
途端、シャルロットの顔が上気する。
「な、何てこと言うでちかっ!」
「子供、いらない…?」
ケヴィンが首を傾げる。
「誰がいらんと言ったでち?!いるに決まってまち!」
ケヴィンは力説する少女から体を離した。ふと、思い出したくはない事実が浮かんでくる。
「…それはヒースさんの子?」
シャルロットが怪訝な顔をしてケヴィンを見た。
「何でヒースが出てくるんでちか。シャルロットはケヴィンの妻じゃなかったでちかね?」
ケヴィンは力なくそこに立っていた。
「でも…政略結婚。オイラと愛し合ってした訳じゃない。…オイラ、シャルロットに好きって言われたことない。それにシャルロット、ヒースさん好き。オイラ、離婚したいっていつ言われるか不安…」
シャルロットはケヴィンの頬を両手で挟むようにして叩いた。顔を押さえるケヴィンに一瞥するとシャルロットはシーツを握り締めた。
皇太子妃となる為にビーストキングダムに行ったその日。
久しぶりに再会した彼女の夫になる人物は表情が硬く、シャルロットを歓迎しているようには見えなかった。
何もわからずここに来た。だがそれは、ケヴィンを信じていたからこそ。周りは知らない人ばかり。風習も違う。文化も違う。
昔のように構ってもくれない、名ばかりの夫に頼れるはずもなく、笑われないように必死で努力した。少しは望まれてここに来たのだと自分に言い聞かせ、夫は愛してくれると祈った。
義務を果たすように訪れるケヴィンは怖かった。今日の予定を告げるだけの短い会話。形式だけの夫婦。
まるで飾りの人形にされてるようで嫌だった。だから、シャルロットはここにいるのだと気にかけて欲しくて、ワガママを言い何度も困らせた。
「シャルロットの方が不安だったでちよ。愛してる、なんて甘い言葉、一度も囁かれてないでち。知らない国で頼れるのはケヴィンだけなのに、ケヴィンは何も言ってくれなかったでち。それにシャルロットだって女の子でち。デートだってしたいし、可愛いお洋服来ている時は褒めて貰いたいし、シャルロットだけを見ていて欲しいし、嘘でもいいから愛していると言われたい…」
シャルロットの耳朶に優しい響きが届いた。
「愛してる」
ケヴィンがシャルロットの髪を一房取って恭しくキスをした。
「もう遅いか…?」
シャルロットがふるふると首を振った。
「嘘でも…嬉しい……」
ケヴィンはシャルロットの身体を強引に抱き寄せた。窓から降り注ぐ月の光が、一つになった影を映し出す。
「嘘じゃない。シャルロット、愛している」
シャルロットの目から一筋の涙が零れた。
「シャルロットがお嫁さんになってどの位経ったと思ってるんでちか。もっと早くに言って欲しかったでち…」
ケヴィンはシャルロットの頬に伝う雫を指で掬った。
「ゴメン。でも、シャルロット、ヒースさん好き…違うか?」
シャルロットはケヴィンから離れるとベッドに座った。続いてケヴィンもシャルロットの横に腰掛ける。シャルロットはため息を吐いた。
今まで彼はそれを頑なに信じていたのだと初めて知った。やはりこの少年は鈍い。そんなにヒースが好きならケヴィンとの結婚が決まる前の時点で駆け落ちでも何でもしている。
彼は気づかないのだろうか。ここにいる意味を。
「アンタしゃんは憧れと恋の区別もつかんようでちね。まあ、シャルロットもヒースが結婚してから気づいたんでちけどね…」
「!ヒースさん結婚してたのか?」
意外なケヴィンの発言にシャルロットは目を大きく見開いた。
「ウェンデルから招待状が来たはずでちよ?見なかったでちか?おかしいでちねぇ。あ、だからあの時来なかったんでちね」
シャルロットは足を交互に動かしてベッドの縁に手を置き体を反らした。ケヴィンの手がシャルロットの手と重なる。
「シャルロットは今、誰が好きだ?」
ケヴィンはまっすぐにシャルロットの目を掴んで放さない。感情をあまり見せない少年の、熱くて甘い束縛。逃げようと思えば逃げられる。けれど居心地が良すぎて離れられない。
「…隣に座っている男の子でちよ」
観念したように呟くと、シャルロットはケヴィンの首筋にそっと口付けた。
「ホントか?」
ケヴィンの目が輝きを増す。初めて会った頃から変わらない瞳。きっとあの時に囚われたに違いない。
「シャルロット…」
熱い眼差しが注がれる。ケヴィンの左手がシャルロットの右頬に触れた。
ヒースは憧れだったのだと、彼が恋人の女性を紹介した時に知った。泣き叫ぶかと思っていたが意外と平気だった。もう心には別の人が住んでいたから。
白馬には乗ってないが、狼を手懐けている金髪の王子様が。
自分は傷だらけになりながら、それでも、盾となって庇ってくれたシャルロット専用の騎士が。
「これからもちゃんと守ってくだしゃい。ケヴィンはシャルロットだけのヒーローなんでちから…」
月だけが二人の誓いを聞いていた。
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