ふぅ、と少年はため息をついて、机の上の本をパタンと閉じた。
金色の髪がさらりと揺れて、戻る。
古代語で頭の中がぎちぎちだった。
これ以上は何も詰め込められない、そう思い、少年は息抜きのために立ち上がった。
そして、いつもの場所へと向かう。
日の差さない、建物の北側へと回り込んだ時、そこに人影を見つけて少年は立ち止まった。
少年の秘密の場所に、場違いのようにかわいらしい少女がもたれかかっていたのだ。
葡萄色の長い髪が、彼女の動きにつれて、その白い腕からさらさらとすべり落ちていく。
ほうけたように佇んでいる少年に気づいたのか、少女は弾むように向き直り、彼の名を呼んだ。
少年は、気の抜けた返事をしながら少女の元へと歩み寄った。
「ね、あんたもさぼり?」
目を輝かせて話しかけてくる少女を、うとましさ半分、いとおしさ半分に見やりながら、少年は答える。
「…息抜きだ」
「ふぅーん…ものは言いようね。あんたって真面目すぎて時々つまんないわ」
そう言い、少女はくるんと背を向けた。
けれど、立ち去るでもなく、そのままうろうろと歩き回っている。
少年は、独りになりたいと思ったが、少女の相手をしないわけにもいかないとわかっていた。
この気まぐれな王女様は、相手をしてもらえなければこのまま少年にからみ続けるだろう。
けれど、かけるべき適当な言葉を思いつけず、少年は建物の壁にもたれかかった。
空を見上げると、雲が風に吹かれてちぎれ飛んでいた。
少女は、そんな少年の態度に少々腹を立てたが、それでも彼が自分のそばにいてくれるのを見て、機嫌を直すことにした。
「ねぇ、空を飛んでみたいと思わない?」
少女の質問は、いつも唐突で突飛だった。
少年も、それに慣れているため、たいして驚きもせずに、淡々と返事をする。
「さぁな、考えたことはないが…面白いだろうね。飛べたら」
「夢がないのね、あんたは。男ならロマンがなくっちゃ!」
男だからどうこうというのは関係ない、そう思ったが、言い返すとやっかいなことになるので、少年は、そうだな、と相づちを打った。
「…そういう魔法も、あるだろうさ。まあ、可能性は無限だね」
そう言ってしまってから、少年は眉をしかめたが、あえてそれ以上は何も言わなかった。
少女も、一瞬、少年の言葉に柳眉をさか立てるが、彼の言葉が自虐であることをすぐに理解して、それ以上は何も言わなかった。
そう、可能性はある。可能性だけは。
けれど、いつ発芽するともしれない魔法の才能は、実は永遠に花開かないのではないかと、たびたび心をしおれさせる。
魔法が使えない少年と少女は、何も言わなくともその辛さやいらだちをお互いに理解していた。
わかっているからこそ、あえてそのことには触れないのが、いつしか二人の間の不文律になっていた。
少女も、黙って空をふり仰いだ。
その時ふいに、風がぶわりとふくれ上がり、二人の髪や衣裳を乱暴にかき上げていった。
「やだ、もう!」
少女は顔にばさりとかかってきた髪を無造作に払った。
そのしかめ面は意外に弱々しげで、少年の目を引いた。
いつもの、喜怒哀楽のはっきりした彼女ではないのは、先ほどの自分の失言のせいかもしれない。
そう思った少年の胸に、ちくりとなにかがうずいた。
風の仕業に気を取られ、髪が乱れている彼女は、ひどく無防備に見えた。
王女の威厳も、少年への気安い仲間意識も、全てを忘れたつかの間の空白。
そこに立っていたのは、淋しげに佇む迷い子のような、ただの少女だった。
少年は、たまらなくなって少女を抱き寄せた。
親鳥が雛を包むように、なにものからも守るように。
不安の中に佇むこの弱々しげな存在を、包み込んでやりたい。少年は、心底からそう思った。
「ち、ちょっと!?」
少女は突然の少年の抱擁に慌てふためいたが、ただ抱きしめているだけの少年の態度に、落ち着きを取り戻した。
(あったかい…)
ふと、自分が母からも抱擁を受けたことがないのを思い出して、少女の鼻の奥が、つんと痛んだ。
(お母様は、私をこんなふうに抱きしめてくれたのかしら? 魔法が使えたら…)
じわりとにじみ出した涙は、止まらなかった。
ひくっひくっと嗚咽をもらし始めた少女を、少年はいっそう強く抱きしめた。
たとえ、傷のなめ合いでもかまわない。
この魔法国で魔法を使えない辛さは、当人にしかわからない。
だから、寄り添い合うのだ。お互いのぬくもりを分け合って寒さをしのぐように。
魔力──焦がれて、焦がれて、けれど手に入らないその力と運命に対して、時には少しの愚痴と涙をこぼして、また一日を生きてゆく。
そして、その活力を得るために、二人は寄り添っているのだ。
けっして言葉にはしない、それが二人の約束。
風が、一つになった二人の外側を吹き抜けていった。
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