その日がいかにして「特別」な一日となったのか
その理由を知る者はすでになく
それを探求することに、人々は意味を求めない
それでも、「その日」は変らずここに存在する
その日を待つ誰かのために
その日を思う誰かのために
その日に願う誰かのために
その日に祈る誰かのために
時は、ここに生きる全ての者に訪れる
荒れた大地に立つ者へ
乾いた風に向かう者へ
この空の下に生きる、全ての者のもとへ
荒野のメリークリスマス
〜ブラッド&カノン〜
あの頃、誰もがこの日を待っていた。
血の臭いが消えることのない、死の影が絶えることのない日々。
凍てついた空気が支配する荒野の戦場に、それでもこの日は存在した。
ある者は家族を思い。
ある者は恋人を思い。
そしてある者はいつか来る平和な日を思った。
明日をも知れない戦いの中で、この日が忘れられることはなかった。寒さにふるえ銃を持ち、かじかむ指で引き金を引きながら、それでもこの日は希望であった。
「珍しいな」
タウンメリアの宿の一室。明かりの落とされた部屋の中には気だるげに横たわる男と、言葉少なに寄り添う女の姿があった。
一見すると、このままどんな展開も思うがままという感じがするが、彼らを取り巻く空気には色気の欠片すら感じられない。むしろ女の方は、めったに見られない男の醜態をどこか楽しげに観察している節すらある。
ブラッドはこの上なくだるそうに額に手を当て、カノンはその脇、ベッドの中ほどに軽く腰掛け足を組み、まるで珍獣でも見るかのような目で男を見下ろす。
「ザルが潰れるとは…下手な見世物なんぞよりよっぽど面白い」
くっくっと喉を鳴らし、いつもはめったに見られない泥酔した飲み仲間の姿を堪能する。
「悪趣味め」
顔をしかめて低く呟くが、今はそれ以上口にする気にならない。
「言ってろ、自業自得だ」
カノンはうっすらとした笑みを浮かべ、備え付けられている椅子を近くまで引っぱり、それをテーブル代わりにして酒瓶とグラスを置く。どうやら酒に飲まれたブラッドを目の前にして、彼女自身はまだ飲むつもりらしい。
「無様な姿を晒したくなければこうなる前に止めればよかったんだ。事実、いつもはそうしているだろう。それ以前に、誰も彼もが浮かれて騒ぐ聖なる夜に一番縁遠い奴を、飲みに誘ったお前が悪い」
淡々と言葉を並べながら、カノンは手馴れた手つきでコルク栓を空け中身を注いだ。
ここで普通の感覚と常識を持つ女だったら、いたわりの言葉の一つでもかけて誠心誠意介抱するものなのだろうが。生憎自分のしたことは、足元もおぼつかない状態になったブラッドを酒場の二階に引っぱりあげてベッドに放り投げたことと、いつも通りの憎まれ口<を叩くことだけだ。元々、望まれてもそれ以上のことをするつもりはない。
だいたい何だって、自ら望んでこんな殺伐とした聖夜をすごそうというのか。
相変わらず気分悪そうに倒れこんでいるブラッドにちらりと視線をやって、釈然としないものを感じながらも、再び何事もなかったかのようにグラスを空ける。
意外な…というのは少々失礼な表現かもしれないが、無口で無愛想、かつ泣かない子も泣き出すようないかにもな面構えでありながら、この男はもてる。しかも仲間内に限らず、年頃の娘や犬にまで慕われているというのだからもてるどころじゃない、大人気だ。
当然この日も、いくつかの誘いを受けていたことはカノンも知っている。
特にセボック村のメリルは本当にブラッドに来てほしいと思っていた、カノンにも感じられるほどに。それにこいつも久しぶりに旧友に会いに行くだろうと思っていた。
なのにブラッドはそれを「緊急時に遠出はできない」と断り、いつものように愛想のない飲み仲間と酒をあおり、その結果酔い潰れてぶっ倒れている。
「…馬鹿だろ、お前」
聞こえないように、ぽつりと呟く。
確かにこの時期に遠出できないのは確かだ。事実リルカもティムも故郷には帰らず、今はアシュレーの実家のパン屋で彼の家族共々大いに騒いでいるはずだ。
だが、あのお人よしレベルの高いリーダーのこと、言えば例えわずかな時間であっても彼らの元を訪ねることを黙認してくれるだろう。そもそも移動などテレポートジェムを使えば一瞬ではないか。
なのに、どうしてこいつはこんなところで酔いつぶれている。
まったくもって分からない。カノンは呆れたようにため息をついて、ぐいと杯を上げる。
はからずも一緒に過ごすことになった時間を、カノンはまんざら悪くもないと思っている。
少なくとも今までのように、意味もなく浮かれた空気がうざったくて宿の部屋に篭って一人寝酒をあおったり、凶祓いで魔物と付き合いながらこの夜を明かすよりはいいと思う。
だがどう考えても、自分と過ごすことを第一の目的に誘ったのではないことが分かるから、少し面白くない。自惚れるには、自分は少々幻想に溺れる能力に欠けており、現実を見る能力に長けすぎている。
「いい飲みっぷりだ」
「まだ起きてたのか、酔っ払い」
のろのろと上体を起こしながらそう言うブラッドを一瞥し、ぶっきらぼうに答える。
「…覚えてからそれなりに経ったからな、慣れもするさ」
「いつからだ」
ブラッドは片膝を立て、そこに身体を預けるようにもたれかかってカノンを見る。
「15…いや16の時だったか」
カノンはそこで言葉を切って、この話を止めるべきか続けるべきか一瞬迷った。
「初めて仕事で取り返しのつかないミスをした時、自棄になって手を出した」
空になったグラスを弄びながら、まるで他人を語るかのように淡々と言う。
「いろいろと思うところがあって、やりきれなくってね…それでもあの歳で酒に逃げる事を思いついたあたり、どうかと思うが」
手の中のグラスに視線を落としたまま、カノンは引きつったような笑みを浮かべる。
「そう、か」
ブラッドは短く相槌を打つだけだったが、カノンにはそれだけでよかった。それ以上のことは言ってほしくなかった。
「美味かったか」
「死ぬほど不味かった。カッコつけて大瓶を買い込んだのはいいが、二、三口飲んですぐ捨てた。美味いと思えるようになったのはずいぶん後のことだ」
その時の味まで甦ったかのように顔をしかめるカノンを見て、ブラッドは愉快そうな笑みをこぼす。
「笑うな」
「さっき潰れた俺を見て笑っていたのはどこの誰だ」
これでチャラだ、と言ってプロテクターが外された手を伸ばしてくる。
「学習能力のない奴だな、まだ無様に倒れて嘲笑われたいのか」
「酔い覚ましに一杯だけだ、迷惑はかけん」
酔い覚ましにまた酒を入れてどうする、と言外に思ったが、それでも勝手にしろ、という言葉と共にグラスに半分ほど注いで手渡してやる。
「そういうお前はどうなんだ、よもや女にだけ昔を語らせてそれっきり…なんて事は言わないよな」
カノンはニヤリといつもの不敵な笑みを見せて詰め寄った。結果的に昔の話になっただけで、ブラッドが強要した訳ではないのだが。
「だから悪趣味だぞ、そういうのは」
そう言いながらも受け取ったグラスを一気に空にして一息つくと、やれやれといった表情を浮かべて口を開く。
「お前が覚えた歳よりは遅い、それに本格的にたしなむようになった頃にはもう戦場にいたからな」
戦場、という言葉にカノンはわずかに表情を険しくする。ブラッドの方はそんなカノンの変調に気づいていないのか、それとも気づいていて素知らぬふりをしているのか変らない口調で話を続ける。話せといった本人が突然止めろとも言えないので、こちらも素知らぬ振りをして聞き続けるしかない。
恐る恐る、いつもと様子が違う男の目を覗き込む。琥珀色の両眼は、どこか遠くを見るように、空ろに揺れていた。
「厳しい状況の方が多かったから、あまり贅沢なことも言ってられなかった。おかげで安酒ばかりが舌に馴染んで今でも離れない」
ヘッドギアを付けていない額に髪が落ちる。カノンはブラッドと視線を合わせるのがいたたまれなくなり、顔を背けてうつむき、何を思うでもないが腕を組んで向こうを向いた。
話せと促したのは自分だったが、こんなに饒舌に、ひどく自嘲ぎみに昔を語る男の姿は痛々しかった。そしてこの男の何がそうさせているのか皆目分からないのが、カノンには口惜しかった。
「いろんな時に、仲間達と飲み交わした。戦闘に勝った時、仲間の死を悼む時…そしてあの時のこの日も、そうしていたな」
紡がれる男の過去を、カノンは微動だにせず聞いている。わずかに、腕を組む手が震える。それを抑えようとぎりっと唇を噛み、指に力を込める。
「あの頃、誰もがこの日を待っていた」
ブラッドの口調が変ったのを、カノンは察した。ともすると見過ごしてしまいそうな小さな変化だったが、その口調に微かに影が落ちるのを、カノンは確かに感じた。
「凍てつくような戦場の野営キャンプで、それでも皆笑ってこの夜を祝っていた。口々に同じ事を言いながら…来年のこの日は、それぞれに違う場所で迎えたいものだな、と」
それはつまり、来年のこの日には戦争が終わり、平和になったこの国のどこかで…否、この世界のどこかでそれぞれにこの夜を祝えられるようにという意味。
「…ならどうして、そうしない」
ブラッドが語り終わるのを待って、カノンは思ったことをストレートに口にした。
「願っていたのだろう、銃弾も血の臭いもない聖夜を祝うことを。実際は、全くもって平和とは言い難いが…それでもあんたが望めば、いくらだって手に入った事だろう」
メリルも、そしておそらくはアシュレー達も、本当に彼と共にこの夜を祝いたいと思っていた。そしてそれは、戦場にいたかつてのこの男の願いだった。なのにどうして、それを棒に振ってこんなところにいる…。
「まだ、引きずっているんだろうな。五年も経って…否、五年しか経っていないからか」
あの日、スレイハイム王の暴挙によって、勝利も敗北も、希望も欲望も、過去も未来も全てが真白の中に消えた。戦場の聖夜で語ったささやかな願いさえも叶えられないままに、数え切れない戦友が逝った。そして今も、彼らと願ったこの夜が、自分に与えるものは、安らぎではなく苦い記憶。この日を二度と迎えることのない、彼らの叶えられなかった無念さばかりが胸をよぎる。
あの頃、誰もがこの日を待っていた。
だが、本当に待っていたのは戦いの果てにあった、いつか訪れる穏やかなこの日。
しかし、一人それを手にしても、この夜に思うのは祝福ではなく遠い日の思い出ばかり。だから男は、自らに刃を当てるように過去を語る。そして女は、見守ってやることも優しく抱擁することもできないまま、じっと身体を強張らせて心だけを痛めている。
「だから、こんな馬鹿な真似をしたというのか」
「かも…しれんな。アシュレーやメリル…そしてあいつには悪いことをした。だが頭では分かっていても感情の方がなかなかついていってくれない」
この日を祝う笑顔を向けられるのは、まだ自分には少々辛い。ため息混じりに呟いて、ブラッドはうっすらと笑う。
「馬鹿な真似…か」
何か思いを巡らすように、カノンの言葉を繰り返すブラッド。
「違うとでも言いたいのか」
「いや、慰めや同情を口にされるよりはずっといい」
おかしな事を言う。カノンは横目で先ほどよりは幾分か和らいだ表情を見せるブラッドを見やって思った。だが、片方ではブラッドの言わんとすることも何となく分かるような気がした。
カノンは、その傷の深さを痛いほどに感じるからこそ、何も言わず黙り込む。
カノンは知っている。一人悲しみに沈むしか、癒されない傷もあるということを。
いつだって、優しさが優しさであるとは限らない。時としてそれはただの罵詈雑言より酷く心をえぐる時もある。だから、誰もが優しくなれる今夜、この男はそこから逃げるようにここにいるのだろう。
誰に言われるでもなく、おそらく自分自身でそうするしかなかったのだろう。
カノンにも、それは分かる。だが、それでも分からないことも残っている。
「なぁ…一つ聞いてもいいか」
そう言いながら手を差し出す。手に持っているものを返せということだとすぐに察して、ブラッドは黙って空になったグラスをカノンに渡す。
「どうして、あたしだったんだ」
椅子にそれを置いて、そのままどこかぼんやりとした眼差しを合わせることもなく言った。
ずっと感じていた疑問だった。男の話を聞いて、さらにわけが分からなくなった。
そんな悲しい夜に、自分を付き合わせた理由が、カノンには見えなかった。
「…お前の側でなら、泣けるかと思った」
突然、ぐっと背中に重みがかかるのを感じた。
そして、何、と思う間もなく背中から両腕で抱きすくめられ、引き寄せられる。
「酔っ払いの悪ふざけか…それとも命を賭けての冗談か」
いつもなら「何をするッ!!」と激昂して払いのけるところを何とか抑えて、努めて平静な口調で切り返す。内心それどころではないのは、言うまでもないが。
「冗談でこんな女々しいことが言えるものか」
切れ切れに耳元で囁かれる言葉と共に、ブラッドはカノンの肩に顔を埋める。あらゆるものを粉砕してきた腕が、まるで硝子細工を抱くかのようにそっとカノンの身体に絡みつく。振り切ろうと思えば簡単にできる、しかしカノンは悲しげに瞼を閉じるだけで、大人しく男の腕に囚われている。
「それとも、「英雄」が泣くなど可笑しなことか」
揶揄するような響きに、カノンは小さく頭を振った。
「…泣けぬ「英雄」に、痛む事を知らぬ者に、国も世界も救えまい」
カノンの言葉に、背中越しにそうか、と小さく呟く声がした。カノンは自分を抱く腕にそっと手を重ねる。
「本当にそうできればいいのだが…」
祝うことはできなくとも、忘れることはできなくとも、せめて涙の一つも零せれば、何か変ることもあるだろう。それでも自身の何かがそれを許さない。心許せる女を目の前にしても、言葉は紡げど涙は落ちない。
「いつか、叶う時も来る…」
カノンはそんな男の葛藤を背中越しに感じ、そっと頭をもたれさせて囁いた。
「これから何度も、この日はやってくるのだから」
かけた言葉には何の根拠はなかったが、全くの気休めでもない。
良いにしろ悪いにしろ、感傷や感情は風化していくものだ。憎しみも、悲しみも、いつまでも鮮やかな色のまま抱えていられるものではない。カノンはそう思っている。
その胸に収めている過去が懐かしむべき想い出となるならば、この男が聖夜に思うのは悲しみだけではなくなるだろう。いつになっても、いつか、きっと…。
ただ、それを自分が願うというのは、いささか気恥ずかしい気もするが。
「そうだろうか」
言葉と共に肩にかかる息の感触を感じながら、カノンは静かに微笑する。
「ああ、きっとな」
それを約束するものは何もなかった。だがそれ以上の言葉を、今のブラッドが求めていないことが何となく分かったから、代わりに曖昧な相槌だけを打って、男に少しだけ身体を預けた。肩にもたれかかったままのブラッドの顔を伺うことはできなかったが、さっきより、少しは晴れているといいと、カノンは思った。
「そうか…」
ブラッドはそう繰り返して、カノンを抱く腕にわずかに力をこめる。いつもの姿からは考えられないほど寛大であるのをいいことに、自分が甘えているのは良く分かっていた。それでも、今はここに流れる安らぎに、もう少しだけ浸っていたかった。
「頼みがある」
「叶えられる範囲でなら相談に応じよう。一応、今宵はめでたい聖夜だからな」
茶化すようなカノンの口調に、ブラッドはわずかに表情を崩して言った。
「このままでいてくれ…あと少しだけでいい」
いつか訪れる癒しより、今は腕の中にあるぬくもりに触れていたかった。
血も肉も失くした冷たい身体と、いつだったか自らの義体[からだ]をそう言っていたことが思い出されるが、今ここにいる女はまぎれもなく熱を持ち、その鼓動が伝わってくる。
「…本当に、今夜はお互いらしくない」
少し困ったように苦笑いを見せながら、こんな弱音を晒す相手に、他の誰でもなく自分を選んでくれたことを、どこかで嬉しく思っている自分がいる。だから思わず苦笑いがこぼれるのだ。果たして甘えているのはブラッドなのか自分なのか。
ずっと煩わしいことと思っていた、誰かにもたれかかられることが。それでも今のカノンには不思議と心地よく感じられる。それは今夜が誰もが優しくなれる夜だからなのか、それとも相手がこの男だからなのか。
いいだろう、今夜だけは。
カノンは自らにそう問いかける。
誰もが優しくなれる夜ならば、自分も少しくらいそうなったってかまわないはずだ。
だから今だけは自分に許してやろう、理由も意味もなくこの男の側に寄り添うことを。
何を語るでも、何を伝えるでもなく、その腕に身を任せることを。
今だけは、このままで…。
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