道を覚えていないのではない。
寧ろ空で辿ることができる。ミドルアースの北、断層を馬に乗って越え、迫る森沿いに少しばかり駆ければすぐだ。そこに間違いなく目指す場所はある、しかし何故か尻込みしてしまう。いや正確には最後の一歩を踏み出せない自分がいる。
躊躇するなどらしくない思考だと知っている、しかも確固たる用件があるのだから早急に片付け、けりが付けば即座に戻ればいいだけの話だ。言い含めるまでもなく判ってはいるのだがやはり、足は上手く動かない。森続きの奥の端、荒らされない花園を目前にして立ち尽くしている。こんな自分の様子を見れば仲間たちは呆れ返り、また笑い飛ばしても来るに違いない。聞こえよがしな溜息まで、感じさせられるかもしれない。馬鹿らしいと我ながら思うのだが、鬱陶しい時間は終わる気配もないのだった。だからと言ってこのまま引き返す選択肢も、存在しないのは明らかである。
何しろ代理に立てられる相手がいないのだ。仲間たちが揃いも揃って流行り風邪に寝込んでしまっている現状では、もはや人選以前の問題である。体調を早々に治させるには栄養も勿論だが削られた生命力を元に戻さねばならない、それにはベリー類を摂らせるのが最短の近道だと、判ってはいる。ちょうど携帯袋内の在庫も少なくなりかけていたところだ、早かれ遅かれ訪れねばならなかったのではあるのだが、
「ったくよ、うんざりだぜ」
いつもの悪態を呟き、一歩を乱暴に踏み込む。一体何分の間足踏みをしていたのか、ようやく入った若葉溢れる場所に人の気配はない。鮮やかな、しかし和やかな色彩の花が開く花壇にも影は落ちておらず、覚えず拍子抜けする。安堵までもが浮かんだのだがそれが早計であることには、すぐに判った。
協力を申し出られているとは言え、大切に育てているらしい花を荒らす訳には行かないだろう。ポーションベリーやミラクルベリーの類を、勝手に引き抜いていったなどとなれば、ヴァージニア辺りにマシンガン張りの文句を浴びせ掛けられるのは目に見えている。軽く舌を鳴らし、歩き出しかけた先の小屋から小さな背丈が現れたのを認める。ややあってこちらに気付くと、恥ずかしげな笑みを示してきた。
「こんにちは、ジェットさん」
長く編んだ金髪の上、赤い帽子を乗せた少女は眼前で立ち止まり、鈴を振ったような声で言う。
「ガーデニングにいらっしゃったんですか?」
「ああ」
ジェットは顔を逸らす。ぶっきらぼうに答えたのだが、彼女にそれを気に病んだ風はなく、怪訝げに周囲を見回している。今日はお一人ですか、と尋ねられた言葉がなくとも、いつも共に行動している筈の女一人男二人を捜しているのであろうことは予測が付いた。
「あいつらは風邪だ。宿で寝てる」
「そうなのですか? 風邪なのでしたらこちらの、薬草が効くかもしれません」
ジェットの説明を聞くや否や、途端に少女は表情を固める。ちょっと待って下さいね、口にするとベリーの苗が植えられたのとは別の花壇の前に両膝を付く。しかしすぐに戻ってくると、若草色の葉を数枚示してきた。
「効くのか?」
問い質した声には、小さく頷く。
「殺菌作用のあるハーブなのです」
か弱い口調とは裏腹に言い切られた語尾は、少女の確信の顕れなのだろう。植物育成に関する技量の高さは身を以て、手渡された果実により戦闘中の危機を救われたりもして知っているからそれ以上、追及はしない。葉の束を懐へと収め、それじゃ貰ってゆく、と即座に向けかけた背中を声が呼び止める。
「気を付けて下さいね、ジェットさんも」
ジェットは踏み出しかけた足を戻す。そのまま振り返り、咄嗟の行動に驚きと怯みを隠さない少女へと視線を投げる。二、三歩歩み寄ればすなわち元の場所だ。ここへ来る最大の目的だった、ベリーの補充を果たせていないことをふと思い出す。
「風邪なんて引きゃしないぜ」
荒く吐き捨て、続ける。
「人間ならともかくな。しかも俺が風邪に罹るようじゃ」
中途の部分で科白が切れたのは、真っ直ぐな眼差しが自分へと向けられていると悟った所為である。伏し目がちな少女の、しかし真摯な瞳にジェットは唇を閉ざさざるを得なくなる。ファルガイアも完全にお終いだな、発しかけたものは永遠に喉の奥へと封じ込まれた。
少女は首を振る。哀しげに何度か首を横に振りながらも、何一つ口にはしない。とある瞬間斜め後ろ辺りへとしゃがみ込み、ややもなく再び向き直った時には小さな鉢植えを両の手のひらの上に乗せている。差し出されたそれを、ジェットは眉を寄せ見下ろす。
「何だ」
「この花を、今、育てて、いるのです」
強調する意図を持ってなのか、文節ごとに区切りつつ語り掛けてきた。この秘められた花園にある以上全ては少女の手掛けた花だろう、一目見れば判る事実など言葉にするだけ億劫だ。溜息をつきジェットは眼前の花を見遣る。赤い、しかし毒々しさのないその赤は優しい印象を備え瞳の中に映る。視界だけで捉えていた柔らかさに、別の感覚が紛れ込んできたのは無意識のうちにではある、しかしある意味で不可解なものではなかった。
花の姿が与えてくる穏和さに、心の荒れを既に宥められていたのかもしれない。鼻孔の奥、微かにくすぐる存在にジェットは僅かに瞳を細める。少なくとも嫌な感じではない。
「この花の香りか?」
覚えず独りごち、途端にもう一輪、少女の顔の上にも花が開く。いかにも嬉しげな面差しは、たどたどしい言葉よりも何倍も雄弁だ。この匂いを自分に嗅がせたかったのか、しかし何の目的にか、答えを導き出せない前に声が繋がれる。
「あなたにも、届きました。この香り」
またもや途切れ途切れに発してくる。言外に香りが理解できるのなら人間と同等、同位だとでも言いたいのだろうか、植木鉢を抱え見せてきた笑顔に、ジェットは眩暈を禁じ得ないでいる。うんざりだぜ、呟きながらも意識へと焼き付いて消えようとしない、それは花が根を張り、土に咲く情景だけではない。
今し方認識させられた芳香、そして自分へと向けられたささやかな微笑みが深層へと沈み、打ち捨てられることなく残っている。やがて鉛の枷を失い浮かび上がってきたそれは、的確に胸の上辺りを暖めてくる。不可解な感触に顔を顰め、再び膝を落とし今度はベリーの収穫を始めた、その少女の後頭部を下方へと眺める。まだ少し、眺めたままでいたいようなほのかな感情をジェットが悟る日はまだ遠い。
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