彼は悩んでいた。
ファルガイア全土を手中に収めようというテロリストとの死闘も、ようやく佳境かというところまで辿り着いている。後は一気に追い詰め、野望を挫いてしまうだけだ。攻勢に出られるようになったとは言え決して気は抜けない、隙を突いて逆襲され、形勢が不安定になることも充分に考えられるのだ。ここまでの労と数え切れない程の傷を無に帰してしまうような真似はできない、判ってはいるのだが一度浮かんだものを消し去るのもまた至難の業である。
しかもそれと知らぬうちにいつしか、深層の更に奥へと刻み込まれてしまっているのだ。幾ら頭の中から追い払ったつもりでいても、ふと脳裏へと甦る。いわばオートマティック的なフィードバック現象であり、自分の力ではどうにも抑えることが叶わない。今日も任務の合間、ヴァレリアシャトーのエレベーターに揺られていたその刹那、意識外で浮かぶと思考を支配してしまった。溜息をつきつつ、専用に与えられた個室への廊下を歩いていたところで、正面から距離を詰めてくる赤い影を認める。声を掛けずともアシュレーの存在には気付いた筈だが、カノン、と名を呼ぶに至りようやく眼差しを明確に投げてきた。お互いに爪先を向け合う形で足を止める。
「何だ」
「いや、その」
心持ち低い、ふざけ籠絡したところのない声色にアシュレーは僅かに怯む。女版ブラッドとしても過言ではない生真面目な彼女には冗談など到底通じないのだろう、下手な軽口など叩こうものなら烈火の如く怒り出すやも知れない。ここは黙っておいた方がいいと思いはするのだが、聞き出すまたとないチャンスであることも確かだろう。
「聞きたいことがあるんだけど」
「あたしに?」
結局誘惑に負け、口火を切ったアシュレーの言葉に、露骨にカノンは眉を顰める。
「カノンって、オデッサに雇われてたんだろ?」
「ああ」
「なら一時期同僚、っていうのもアレだけど、同じところにいたんだよな、あのトカゲ二匹と。その間顔を合わせたりは」
しなかったのか、と続く筈だった科白は、鼻が触れ合うかの先にカノンの顔が現れたことにより中断される。褪せたダークグリーンの髪は頭の動きのままに大きく揺れ、弾みで瞳近くに迫ったそれに、アシュレーは反射的に瞬いた。
「あんな不快な奴らにあたしは会ってない!」
乱暴な手付きで胸倉を掴み、カノンは声を荒げる。どう大きく贔屓目にしたところで、むきになっているとしか思えない。おそらくはオデッサ内で顔を合わせたことはあるのだろう、それは疑いようもないとしても、今まで、例えば自分を祓わんと向かってきていた時ですらこれ程の逆上ぶりはなかったように思える。
とすれば考えを巡らせるまでもなく結論には容易に行き着くのだが、流石にそれを目さえ血走らせている様子の彼女に言うのは自殺行為とするべきだろう。今度はアシュレーも何も発さず、カノンを宥める行為に就く。
「判ったから、カノン、落ち着いてくれよ」
「あんなのと仲間なんて言われて、平静でいられる奴がいるか!」
「だから、判ったって。僕の誤解だった、彼らとは別の任務だったから関わりなかったんだよな」
半ば説明口調になりながらも言葉を並べ、それを聞いたカノンは納得したらしい。ゆっくりと手を離すと顔に薄く、しかしシニカルではない笑みを浮かべる。やっと解放され、アシュレーは皺の寄ったシャツを軽く襟元を引っ張り直したが、どうやら力は加減されていたらしく苦しさのようなものは生じていない。
小さく息をついたアシュレーに、カノンは踵を向ける。一歩を踏み出したところで、背中越しに声を発した。
「そんな戯れ言を吐く余裕はないだろう」
「余裕?」
アシュレーは覚えず反芻する。
「幾ら鈍感なあんたでも、狙われていることに位気付いているんだろう?」
カノンの表情は見えない、しかし口調は何処か笑いを含んだようでもある。まあせいぜい貞操を奪われないようにな、言い置いた科白はアシュレーを唖然とさせるには充分だ。振り向くこともなく立ち去る姿を眺めつつ、脳裏に浮かぶのは「百眼の柩」で出会ったばかりのあの二人組である。じきに恰幅のいい茶色い方は消え、残ったのは緑のトカゲのみだ。
事あるごとの執心とも言うべき絡みようを思い起こし、アシュレーは嘆きの息をこぼす。トカとゲー、彼らとの間でカノンは忘れ去りたい経験をさせられたのだろう、或いはあまりの屈辱に記憶から抹消してしまったのか、抱いたばかりの考えを感じることは既にできない。また十中八九至るだろう再会を思いながら、虚ろな瞳を宙へと向けると勘弁してくれよ、と呟き、もう一度深々と溜息を吐き出した。
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