荒涼とした大地が広がっている。
眼前の風景は砂漠ではない。伐採を受けた成れの果ての禿げ山でもない。岩肌を晒す台地でもない。瞳に捉える間もなく焼き払われ、灰すら残さず変わり果てた、かつての豊饒の地の姿なのだ。
犬も猫も鳥も鼠も、そして人間であっても差別や優遇はない。<炎の災厄>の発する業火により無へと帰されてゆく。いや、業火との呼称ではまだ足りないかもしれない。このファルガイア上に存在するもの全てを、完膚なきまでに消失させてしまうのであり、そこに与罰や慈悲はない。
何によっても傷を受けない<炎の災厄>、ナイトブレイザー。それが決して無敵でないと知ったのは、<希望>に呼ばれてからである。希望という、いわば無から有へと導く感情の化身、アガートラームに出会い、アナスタシアは失わぬ想いこそが対抗手段であることを知った。今傍にある剣こそが、彼を滅する唯一無二の方法なのである。
おそらくは、希望を捨て切れない唯一人の人類で、自分はあったのだ。だからこそアガートラームに認められ、その聖剣、破邪の剣を振るう者だということで、共に闘う仲間であるマリアベルとも巡り会えた。ガーディアンであり、本来神と同等の存在のルシエドも、呼び掛けに応え助力してくれる。例え相手が<絶望>を糧に力を増幅させるナイトブレイザーであっても、打ち負ける気はしなかった。大切な皆を護り抜き、自分たちも生き長らえることができると思えていたに違いないのだ。ただ一つ、叶いもせず許される筈もない想いがなければ。
アガートラームを手にして既に六日が経っている。あるいはまだ六日しか経ってはいないのか。初めて敵であり脅威であるナイトブレイザーと対峙してから、その感情が深層から離れることはない。今にも降り出しそうな星を抱いた夜空は、もはや日常と化した日々の阿鼻叫喚を疑わせる程だ。焦げ尽きた黒だけを見せている木の幹の陰、小さい岩の上に腰掛け、アナスタシアは虚空を眺めている。気配を覚え振り向いた先にルシエドの姿を認めると、右腕を動かして許へと呼び込む。魔狼の形をしたガーディアンはそうとは見えぬ人懐こさで彼女の膝の上へと顎を載せ、頭を優しく撫でられると気持ちよさそうに瞼を閉じる。
風は僅かに漂っている。届く音は時折動く空気から発せられるそれしかなく、静寂に支配される中では些細な響きも容易に捉えることができる。土を踏み締め近付く足音も同様だ。
アナスタシアはゆっくりと後ろを見遣った。
「何しとるんじゃ、こんな時間に」
気付かされた後もスピードを速めもせず緩めもせず、マリアベルは歩み寄ってくる。アナスタシアの隣に腰を下ろした。
「あなたの方こそ」
「わらわは夜が好きなのじゃ。もうそろそろ床に就かんと闘いに差し支えるぞ。寝惚け眼でやり合えるような輩ではないからのう」
少しばかり饒舌に語ってマリアベルは口を噤む。軽く息を吐き出し、空の方へと視線を上げる。散らばる星の群がりをしばし線で繋いだ後、再び隣の聖女を見る。
「それとも、やはりあやつとは闘えぬということなのか?」
アナスタシアは眼差しを向ける。そうして出会うのは、マリアベルの深紅の瞳である。ファルガイアにおける伝説の種族ノーブルレッド、彼らの持つ神秘的なそれには引き込まれるような彩りがある。押し寄せる魅了は抑えた気持ちを膨れ上がらせ、止める堰を崩さんとするのだった。
「何をいきなりそんな」
「わらわに偽りは通じぬぞ」
遮るように警告する。その瞳の朱色は誤魔化しも全て見抜いてしまうのだろう。アナスタシアは溜息を付き、ルシエドを撫でる手の動きを止める。
「参ったな、マリーちゃんには隠し事も通用しないんだもんね」
「だからその呼び名はやめいと言うに」
顔を見合わせ、二人は笑う。いかにも可笑しそうな声が夜空に響き、それが掻き消えた後には一層の静寂が重さを伴い訪れる。
不思議そうに顔を上げてルシエドはアナスタシアを見上げ、しかしすぐにまた頭を膝に預ける。
「やはり、そうなのじゃな」
マリアベルは呟く。彼女には珍しい、低く抑えた声だ。
「どうして判ったの? どうしてそう思ったの?」
「ただの勘じゃ」
「勘?」
「勘じゃからと言って甘く見てはいかんぞ、わらわはファルガイアの支配者たるノーブルレッド、その程度のことは判らねばな」
「んー、まあそうかもね」
「そなた……」
マリアベルは呆れた表情を浮かべる。
「まあそなたに言っても始まらぬか」
「何だか見捨てられてるみたい」
「何を言っておる、他人の一言二言で自らを変えるようなそなたではなかろうに」
ふと言葉が途切れた。視線をアナスタシアから外し、マリアベルはルシエドを見遣る。
「今更わらわが何を言おうと、そなたの想いを変えられはせぬのであろうな……」
意図に満ちた科白であった。容易に感じ取ることのできる諦観に、アナスタシアは表情を固めさせる。必死に隠していた感情を悟られていた事実への驚きだけではない。ある種裏切りだと責められても仕方がない自分の想いを、叩かず詰らず受け入れようとしている彼女を目の当たりにしたことの方が大きかった。
「ごめんね、マリアベル」
「謝るでない」
間髪入れずにではあったものの、その口調に含めるべき強さはない。
「謝ってはならぬ……他の者に惹かれるのは至極当然のことではないか。誰にも止めることなどできはせぬ……例えそれが全てを殺めし輩であっても。己にもどうすることもできぬのが、恋慕というものであろう?」
完全に見透かされているのだった。人々を魅入らせるこの瞳から、物理的、精神的問わず隠し通せるものはないのかも知れない、覚えず面差しに苦笑が浮かぶ。それともナイトブレイザーへの憧憬は、表へと滲み出る程になっていたのか。
憎まなければならないことは判っていた。嫌わねばならない、倒さねばならない。共に有るマリアベルやルシエド、そしてアガートラームの存在がその運命を知らしめている。<剣の聖女>と呼ばれ、英雄としての自分を認識させられる度、定められた真実なのだと言い諭した。しかし膨れ上がることしか知らない相反する想いは、晦い藪から這い出た大蛇のように胸を締め付ける。初めは圧倒的な程の力への畏怖、そしてそれを眼前にし、直接網膜へと焼き付けた刹那からは新たな意味を得た。あの体に触れたい、もっと近くで見つめたい、傍に行きたい。身を滅ぼすだけだと判っていたが、沸き上がる心に抗うことはできなかった。
いや、自分の身のみには留まらない。この現世を、生きとし生ける者全てを、ファルガイアの未来をも滅ぼす。永遠に封じ込めてしまうのだ。彼が望むその焦土の世を受け入れることは、すなわち他の大切な人々を見捨て、アナスタシア自身の命も諦めるに等しい。微塵たりとも動きはしない両天秤、どちらも失いたくないのならば取りうる行動は自然と限られてくる。
不意に訪れた一陣の風に、アナスタシアの髪を染めた蒼が揺れる。
「怒らないのね」
弱くも、張り上げるでもない声。
「人の心は縛れんからな」
「怒ってくれればいいのに」
「そなたがこれっぽっちも悩んどる風でなかったら、リリティアにコールドスリープでも掛けさせるところだがの」
軽口を叩いた後、心持ち和らいだ雰囲気の中で、マリアベルが再び口を開く。
「そなたに、あやつは倒せまい」
アナスタシアの想いを知って以来、おそらくは思慮を巡らせてきたのだろう。達観したような口調であった。
「ナイトブレイザーを倒すことは、そなたにはできまい」
「そうね……」
「もしやそなた、あやつと共にゆくつもりではあるまいな」
アナスタシアはマリアベルを見る。ここまでストレートに言い当てられると、既に笑う以外の反応は無理だ。殺すことはできない、かと言ってこのまま放置しておくのも耐え難い。とすればナイトブレイザーを事象の地平へと封印するより他に方法はない。この数日考え、ようやく辿り着いた結論であった。皆を死なせずに済み、彼の傍ら近い場所にいられることができる、一石二鳥ではないか。
自分の死と引き替えにではあるが。それでもしばらくは、何百年かの間は約束される恍惚と平穏。<剣の聖女>の心への罰と、行為への代償に思われなくもない。
返ってこない返事に、マリアベルは肯定を感じ取ったようだった。突如として立ち上がり、静寂を切り裂いて喚く。
「ならん! ならぬぞ! 幾らアナスタシアの望みと言えど、それだけは承服できん!」
ぴくり、とルシエドが僅かに体を動かす。
「これしか、方法がないのよ。判ってちょうだい」
「どうしてじゃ! どうしてそなたが死なねばならぬのじゃ! そなた一人が何故死なねばならぬのじゃ! もしやそれが、奴に惹かれた罰だと言うのか!」
アナスタシアには答えることができない。図星を突かれた所為なのは、つい先程と同じだ。そしてまた、短い間ではあるものの、彼女の孤独に対する怯懦も判っている。誰にも頼ることのない孤高の種族だとよく口にするのだが、見知らぬ人の波に取り残されるのを酷く嫌っているのだ。
声が止んだ。やおら振り仰ぐと、心持ち視線を落としたマリアベルの姿がある。激昂はどうやら収まったらしい。深々と吐息を付き、半ば崩れるように再び叢の上に腰を下ろした。
「もう、決めたことなのだな」
低く呟く。
「わらわを一人置いて、行ってしまうのだな」
<炎の災厄>の滅びの炎により、ノーブルレッドは全て焼き払われた。眷属はことごとく死に絶え、マリアベルのみが生き残った。両親に命懸けで庇われ、救われたのだという。だからこそ、自分が一人だと認めるのは、身を切られる程に辛く切ない。広い、他に何もない世界に唯一人佇むのは慣れている。この場にいない親しい魂の存在を感じ取り、接することができるからだ。群衆の中、視線を受けず過ごす程、とてつもない孤独に晒されるのである。
既に曲げることなどできない決意とは言え、沈んだ様子を見ると胸が痛む。心臓を素手で鷲掴みにされたような息苦しさが深層に溢れる。
「どうせ、わらわも一緒に行く、と言っても、そなたは許してはくれるのだろう」
「うん……ごめんね。あなたには生きていて欲しいの」
「わらわには……か」
「私の命を懸けても、できるのはあの人を封じることだけだもん。きっと、いつかは自分で封印を解いて、目覚めてしまうわ。だから、あなたには生きていて欲しい。そして、私と同じ運命を与えられる人を助けて欲しいの」
我ながら身勝手な頼みだ。自分はここで、宿命の為に、欲望の為に消えてしまうというのに、彼女には生を押し付けようとしている。いつまでかも判らない先まで、生きて欲しいと望んでいる。何百年、いや何千年後のことなのか、そしてそれは紛れもなく、最も狂おしい孤独に満ちた日々。身を喰い尽くさんばかりになった自己憎悪に表情を歪め、しかしそのアナスタシアの目の前に展開されたのは、淋しげな微笑である。
「アナスタシアの代わりなど、おらぬ」
小さく呟いた声は、隣に座るアナスタシアにすら、辛うじて聞き取れる程のものだった。消え入りそうな言葉が、風に攫われ彼方へと持ち去られた後で、マリアベルは顔を上げる。跳ねるような仕草で腰を上げ、一人と一匹を見下ろし宣言した。
「決めたぞ、わらわは語り部となる!」
浮かんだ笑みを不遜なものに変える。腰に両手を添え、自らに含めるように大きく頷き、それに応えルシエドが体を起こし、身震いする。耳を澄ませるように動かすと、尻尾を二、三度振ってみせた。
「ナイトブレイザーとの戦いを、アナスタシアの死闘を後の世まで伝える、語り部となるのじゃ!」
「マリアベル……」
「その為にわらわはファルガイアに残る。なあに、心配することはない、わらわは年も食わぬのだから。謝ることも要らぬぞ、友人の為に事を成すのは、当然のことじゃからな」
アナスタシアは立ち上がった。何の気なしにであろう、発せられた科白の中のたった一言が、心を覆っていた靄を晴らしていくのを感じる。ナイトブレイザーを連れ事象の地平へと身を縛ることへの迷いではない。エゴを晒け出した自分を裏切り者と見なさず、まだ友達としていてくれる。その事実は胸に澱り溜まっていた最後の後ろめたさを解いてくれた。<剣の聖女>ではないアナスタシアの、友達だと言ってくれた、その言葉だけで。
マリアベルと視線を合わせ、どちらからともなく笑う。寝床へと並んで戻りながらも、表情が綻ぶのを抑え切れない。それでも音にならない声は、陳謝と感謝を叫び続ける。ごめんね、ありがとう、ごめんね。昨日までと何ら変わらない二人の背中を見ているのはルシエドのみである。もたげていた尾を下げ地へと下ろし、後ろ脚を曲げ座る。月の昇った天頂へと顔を掲げ、なされた遠吠えは夜の空気に乗り、流れて響いた。
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