「夜明け ―ティアストーン side:B―





 「ただいま……。」
 朗らかではあるが何処か気の抜けた、疲れているのだかいないのだか分からないような何時ものあっけらかんとした声を響かせて、この家の気まぐれな主は帰って来た。弟子兼留守居役である森人の双子はその声に意外そうな顔を上げた。
 「お帰りなさい……。」
 双子の姉の方、ポニーテールの少女が訝しげな顔をしつつも何時もの返事を返し、今日は早かったんですね、などと言いながらぱたぱたと駆け寄る。家の主たる青年は屈み込んでそんな少女の目の高さに身長を合わせ、おやおや、と苦笑した。
 「早くちゃ悪いのかい?……随分だね、コロナ。」
 「そ、そんな事はありませんけど……。」
 「だって涼月、昨日ジオに行く、って出てったばっかじゃん。」
 困ったように頬を赤らめる姉のコロナに代わり、彼女の弟のバドが悪びれた風もなくそう言った。バドったら!――――年上の、しかも師匠ともあろう人物への生意気な物言いに忽ちコロナの叱咤が飛ぶ。
 「呼び捨てじゃなくて、ちゃんと『師匠』なり『マスター』なりって呼んだらどうなの!?涼月さんに失礼でしょう!!」
 「良いじゃんかよ〜。俺と涼月の仲なんだしさ!」
 「どういう仲なのよ!!」
 「まあまあ。僕は別にどうでも構わないから。」
 睨み合う双子の可愛らしい旋毛にぽんと両手を乗せて、仲裁に入る彼等の師匠。これまで幾度となく繰り返されて来た光景である。
 涼月。この家の主たる青年の名前である。彼は気まぐれだ。――――否、その評し方は適当ではないかもしれない。気まぐれというよりは、風の如く自由気ままに生きている。ある時は東へ、ある時は西へ。一旦出掛けると、その日の内の夕刻に帰って来る事もあれば、何週間も帰って来ない事もある。かと思うと終日書斎にこもって出て来ない事もある。ついこの間などは、一ヶ月程何の音沙汰もないと思ったら、獣人の女性に付き添われながら満身創痍でふらりと現れて、いやあ、奈落に落ちちゃってさ、と来たものだ。流石にこの時ばかりは
 ――――何考えてんですか!!待ってる方の身にもなって下さいッ!!!
とコロナは思い切り怒鳴ってやった。周囲に怒気を撒き散らす、その凄まじい剣幕にバドすらも近寄れなかった程である。だが次の瞬間、御免ね、という言葉と共に彼がどさりと腕の中へ倒れ込んで来たので不覚にもいとも簡単にその怒りは吹き飛んでしまった。蒼白になってコロナは叫んだものである。
 ――――涼月さん!?……マスター、マスター!!!
 ひたすら肩を揺する。白銀の毛を纏う獣人の女性――――後で聞いた事だが、名はシエラ、という――――彼女が、大丈夫、寝ているだけだ、と教えてくれなければ何時までも狂ったように肩を揺すり続けていたに違いない。その通り、実に憎らしい程安らかな寝息を立てて、彼は少女の腕の中で眠っていた。まるで娘のように整った綺麗な顔立ちで死んだように眠るその姿は何故か一体の人形のように見えて、コロナは知らず彼を支える手にきゅっと力を込めていた。
 ――――安心したのだろう。彼を休ませてやってくれ……。
 シエラはそう言って双子に微笑んだ。キレイなひとだ、とコロナは思った。……そう思ったら何故かちくりと胸が痛んだ。ともかく、一体何があったのか。後でこのシエラに聞いた話によると、奈落よりの復活を目論む紅き堕帝――――ティアマットという名の竜と死闘を演じて来た、という事らしい。詳しい事は未だに知らない。詳細は貴方達の師匠に聞けば良かろう?――――シエラはそう言ったが、聞く事は躊躇われた。怖かったのかもしれない。彼を「英雄」」だと認識してしまう事が。「遠くの人」だと意識してしまう事が。
 ――――世の中に英雄と呼ばれる人は沢山いるけど、バドとコロナのお父さんは一人だけだろう?
 今は亡き彼女の父親が口癖のように言っていた台詞である。そんな沢山いる中の英雄の一人にされたのでは堪ったものではない。確かにこの青年の為した事は後世英雄譚として語り継がれるのかもしれない。だがコロナは思う。英雄なんて大層なモノじゃない。このひとは単なるどうしようもないお人好しだ、と。そうでなければ莫迦だ、と。それが人物評では決してなく、己の単なる願望だという事も充分承知している。それを誰が責める事が出来ようか。少女にとってこの青年は、最早身寄りのない自分達を拍子抜けする程すんなりと受け入れてくれた、恩人であり、師匠であり――――そして、掛け替えのない家族なのだから。
 「……それじゃあ、今日は一緒にお夕飯、食べられるんですか?」
 僅かな期待を込めておずおずと尋ねる。青年はいや、と頭を振った。
 「武器を取替えに来ただけなんだ。またすぐ出ないといけない。」
 苦笑しながら、それでも心底申し訳なさそうに彼はそう言った。バドがちぇっ、と舌打ちをする。行くって、何処へ――――そう尋ねようとした時、コロナは漸く涼月の後ろにもう一つの人影があるのを知った。
 胸で鈍い光を放ちつつ収まる球体。……珠魅の核。一目でそれと分かる。身じろぎする度にさらさらと揺れる草原色をした砂のマント。彼の名の如くに瑠璃色をした涼しげな眼がふと細められて双子を一瞬見詰めた。最早彼等にとっても馴染みとなりつつある珠魅の剣士――――瑠璃は遠慮がちに友人に声をかけた。
 「――――涼月。」
 「うん、分かってるよ。」
 瑠璃の台詞をやんわりと手で制し、にこ、と笑う。そしてやおら双子に向き直って言った。
 「御免。あんまりのんびりしてる時間もないんだ。裏小屋に行ってるからね。――――あ、そうそう。」
 そこで涼月は何を思ったかせかせかと右の手袋を外し、コロナに手渡した。
 「コロナ。悪いんだけど、繕っておいてくれないかな。指先のトコが解れてきてるんだ。終わったら小屋まで持って来て。」
 「――――ハ、ハイ。」
 有り難う、と少女の頭を軽く撫でて、彼は出て行った。珠魅の剣士もちらと少女を見遣ったが、すぐに友人の後を追って行った。さらさらとマントの擦れる音が遠去かる。コロナは手袋を抱いて大きく溜息を吐いた。



 何なのだろう、この不安は。何故なのだろう、この胸騒ぎは。――――最後の糸をプチンと噛み切り、手袋の指を所在なく曲げたり伸ばしたりしながら、コロナはその小さな頭で懸命に思いを巡らせていた。どうしてなんだろう。涼月さんは何時もと変わらないのに。何時もみたいに優しいのに。……何時も「みたい」に?それは違う。何時もみたいに優しいんじゃなくて――――
 「何時も『より』優しいんだよな。」
 「――――えッ!?」
 姉の思考の続きを先回りしたかのような弟の呟きに、コロナはびくりと振り返り、まじまじと見詰めた。時々こうして彼等はお互いの思考を読み取る事がある。否、「読み取る」というよりは寧ろ「感じ取る」と言った方が正確であろう。それは彼等が双子だからであろうか。双子が元々備え持つという精神感応力に、彼等の持つ稀有な魔力が更に拍車をかけているのかもしれない。尤もそれは未知数の域を出ぬものではあるが。
 「な、何よいきなり………。」
 「何だよ。コロナだってそう思うんだろ?」
 そうそう、知ってるか?――――少年は得意げにえへんと胸を反らした。
 「男が女に何時もより優しくする時ってのはさ、嘘吐いてる時なんだってさ。」
 「……バド………アンタまた何か変な本読んだわね………。」
 「とっと、薮蛇だったか。」
 ぺろっと舌を出す弟を、少女は呆れ顔で見た。この弟は元気溌剌とした外見に似合わず意外と勉強家であり、読書を非常に好む。師匠のいない時を狙っては彼の書斎に入り浸り、コロナの手伝いもしないで書を読み漁っている。書斎には古い物語から歴史書に至るまで実に多くの種類の書が溢れている。中には「禁断の書」などという如何にも怪しげなものまであり、掃除中に偶然それを手に取ってしまった時、コロナは余りの不気味さに即座に本棚へ戻して手まで洗ってしまったものだ。――――そういう訳で古今東西様々な書が揃う師匠の書斎は、この少年にとってはまさに極楽の如き「遊び場」なのであった。
 それはともかく、だな。――――あたかも重大な秘め事でも打ち明けるかのようにバドは声を落とし、真剣な表情でコロナにずいと詰め寄った。ちっちっと人差し指を揺らす。
 「あれは絶対何か隠してるぜ。気を付けろよコロナ。」
 「き、気を付けろって――――。」
 どうすれば良いのよ。唇を尖らせ、ぼそっと呟いて俯く。
 「私は涼月さんのこと――――。」
 信じてるから。
 喉まで出かかったその言葉は何故かそのまま張り付いた。怪訝な表情で見返すバドから逃げるように、そそくさと歩き出す。
 「………手袋、届けて来なきゃ。」
 早くも繕い終えてしまったそれにふと目を落とす。……もっと解れていれば良かったのに。思わずそんな事を考えてしまう自分が堪らなく後ろめたくて、少女は眉根を寄せた。



 「………ふむ。」
 瑠璃のオブシダンソードと剣を合わせて、涼月は満足げに頷いた。
 「良い音だ。やっぱこれが一番しっくりくるね。」
 「………あのなあ。」
 愛剣を腰へ収めてしまってから、見るからに使い込まれた己の大剣を心底愛しそうに撫で回す友人を見遣って瑠璃は溜息を吐いた。
 「だからと言って振り向きざまにエモノを振り回す事はないだろうが。」
 「あはは。御免御免。だって手加減されちゃ本当の手応えが掴めないからね。」
 手加減だと?珠魅の剣士は苦笑する。この男相手に手加減など出来る人間がいるのだろうか。……いるとしたら会ってみたいものだ。悔しい話だが手加減などしようものならこちらが危ないというのに。
 「大体俺が受け止められなかったらどうするつもりだったんだ、アンタ。」
 「え、君なら出来ると思ってたし。……そうでなくても寸止めするつもりだったから心配しなくて良いよ。」
 悪びれた風もなくにこりと笑う。瑠璃は思わず、見せ付けてくれるな、と苦笑しつつ呟いた。ん?と涼月が無邪気に首を傾げる。……そんな彼だから何時だって拍子抜けするのだ。分かっていないのだろう。彼が瑠璃に剣を向けた瞬間に感じた気合と殺気は間違いなく本物だった。だからこそ自分も咄嗟に剣を抜いてそれを受け止める事が出来たのだが。改めて分かるような気がした。この男の、大きさが。深さが。認めるのはシャクだが、俺もまだまだ修行が足りない――――。
 「……どうしたの?瑠璃。黙っちゃって。」
 訝しげに覗き込んで来る友人に、瑠璃ははっとして手を振った。
 「いや、何でもない。……そういえば遅いな、コロナは。」
 「ん……そうだね。」
 何故か一瞬その瞳を遠くへ泳がせて、涼月は考え込むように黙る。そんな彼を見ていると、敢えてもう表に出すまいと決めた筈の思いがふつふつとしつこく湧き上がってくる。これで良かったのだろうか、と。――――瑠璃?突然涼月がこちらを向いた。小さく笑って目を細める。男性にしては長い睫毛の間から覗く淡い翠が穏やかに彼を見詰めていた。
 「また詰まんない事考えてるんじゃないだろうね?」
 「……………。」
 何処までも勘の鋭いヤツめ。こんな時は呪いたくなる。その繊細すぎる観察眼を。
 「………俺達は、アンタを巻き込みすぎた。それは済まないと思っている。」
 それは紛う事なき事実。今更何を言ってる、と罵られようとも。
 「………それは前にも聞いたよ、瑠璃。」
 涼月はぽんと友人の肩を叩いた。
 「君はあの時言った。『関係を断つなら今しかない。良く考えろ』と。そして考える時間をくれた。御丁寧にも――――ね。」
 肩に置かれた手に……指先に、ぎゅっと力がこもる。些か苦しそうに面を上げた瑠璃に、涼月はふわりと微笑む。
 「その結果、僕は此処にこうしている。………それだけの事さ。難しい事なんか何もない。何もないんだ。」
 「――――涼月………。」
 「――――ねえ、瑠璃。」
 真っ直ぐに。些かの躊躇いもなく真っ直ぐに友人を見て、彼は言った。淡く笑みをその唇に宿し。問い掛けた。既に彼自身、答えは見つけているに違いないのに。
 友達を助けたいと思うのって、そんなにいけない事なのかな。
 「――――!」
 弾かれたように彼を見る。お前というヤツは。ぐっと唇を噛み締める。何故か脳裏を過ったのはあの言い伝え。己の種族に伝わる余りに酷な言い伝え。
 ――――珠魅の為に涙する者、全て石と化す――――
 何故だ。何故今。……何故よりによって今そんな言葉が過る。これは予感なのか。なら余計に行かせる訳にいかないではないか、この男を。……それなのに、俺は頼りたいと思っている。それを心地好いとさえ感じている。その眼が優しかったから。その手が温かかったから。
 勝手にしろ。そう顔を逸らして告げるのが精一杯だった。涼月は得たり、とばかりににこりと笑った。――――うん。好きにさせてもらうよ。そう言って。
 「そういう訳だけど――――。」
 「――――?」
 突然声の音量を大きくした涼月を、瑠璃は訝しげに見た。やれやれ、と肩を竦めて更に彼は言ったのだった。
 「何時まで立ち聞きしてるつもりなのかな?コロナ。」
 「………立ち聞き?」
 彼の視線を思わず辿って行くと、キイ、という音がして扉が少し開いた。外の光が細い線となって射し込む。おずおずとやがてそこから覗く藤色の髪。赤いリボン。逆光の中、手袋を抱えた森人の少女がもじもじと其処に立っていた。



 青年が近付いて来て少女の前へ屈み込む。叱られる。そう思って少女はぎゅっと眼を瞑った。そもそも、最初から立ち聞きするつもりなどなかったのだ。只、扉を開けようとした時、何やら深刻そうな話をしているのが耳に入った。だから思わず聞いてしまったのだ。開けるタイミングが掴めなかった。……だが理由はどうあれ、はしたない真似をしてしまった事に変わりはない。
 「――――手袋、終わったの?」
 「――――エ?」
 普段と余りに変わらぬ穏やかな声に、少女は素っ頓狂な声を上げて青年を見上げた。にこにこと彼は笑っていた。どうやら叱ってやろうという気などはさらさら存在せぬらしい。幾分かほっとして、少女は答える。
 「………あ、ハ、ハイ………。」
 繕い終えた手袋を差し出す。有り難う。そう言って涼月が受け取ろうとして――――ふっと眉を顰める。
 「コロナ?」
 「えっ………。」
 「………離してくれると嬉しいんだけど。」
 くいくいと手袋を引っ張る。そこで漸く彼女は気付いた。自分が手袋をぎゅうっと握り締め続けている為に、二人は綱引きの状態に陥っているのだった。
 「え、あ、ご、ごごっ御免なさいッ!!!」
 ぱっと手を離す。苦笑して青年は手袋を受け取り、右手に嵌めた。感触を確かめるように掌を開いたり閉じたりしつつ、彼は言った。
 「ねえ、コロナ。……聞いてたのなら、分かるね?」
 そう言って少女の髪をくしゃっと撫でた。その声は柔らかかった。その瞳は優しかった。何時ものように。……だが噛んで言い含めるような真剣な響きが其処にはあった。
 「大した事じゃないんだ。……友達を助けに行くだけなんだ。嫌だから。失うのは嫌だから。……分かるね?君は頭の良い子だから。」
 ええ、分かります。温かい掌を頭上に感じながら、彼女は心の中でそう呟いた。分かります。分かりすぎる程に。でも、もう少し自分が莫迦なら良かった。そう思います。
 ……私も嫌です。貴方を失うのは。
 ふいに目の周囲が熱くなった。私は困らせていますか、貴方を。御免なさい、御免なさい――――只俯くしかなかった。唇がふるふると震えた。
 「ああ、コロナ、コロナ――――。」
 流石に少し慌てて涼月はコロナを抱き締めてやった。あやすように背中をとんとんと叩く。
 「困ったなあ。君に泣かれちゃあ気持ち良く出発出来ないよ。」
 「な、泣いてなんかないです………。」
 「子供はそういう嘘を吐く必要はないんだよ。……全く妙な所でオトナだね。」
 少女のポニーテールを愛しげに指で梳きながら、ううむ、と青年は思案に暮れた。やがてその指がぴたりと止まる。あ、そうだ!――――いきなりそう叫んで彼は身体を離し、びっくりしてこちらを見ているコロナの眼をさも嬉しそうに、悪戯っぽく覗き込んだ。
 「今度出掛けようか、バドも連れて三人で。三人で出掛けた事、余りなかっただろ?」
 「出掛ける……?」
 「うん、そう。ガトにでも行こうか。大カンクン鳥の巣、見たいって言ってたじゃないか、二人共。洞窟に多少魔物は出るけど、三人いればきっと大丈夫だから!」
 「ちょ、一寸待って下さい――――。」
 うきうきと捲し立てる師匠を、弟子たる少女は思わず窘める。本当は嬉しいのに。何故素直に告げる事が出来ないのか。嬉しい、と。自分でも腹立たしくなる。
 「そんな、三人共出掛けちゃったら家の事どうするんですか。トレントさんや、ペットちゃん達のお世話もあるんですよ!?」
 「大丈夫大丈夫。サボテン君で防犯対策は充分だし、トレントも話せばきっと分かってくれる。それで不安だったらドゥエル辺りに頼めば良いさ。彼なら快く引き受けてくれるよ、うん。決めた、そうしよう!」
 一人で決めてしまったようだった。妙案だ、とばかりに腕を組んでうんうんと頷く。こういう時は無垢な少年の如き表情になる。自分以上に幼く見える。コロナは思わず微笑した。そんな貴方だから、私は心配せずにはいられないというのに。大人のようで子供。子供のようで大人。
 ――――不思議なひとだ。
 改めてそう思う。
 「――――約束、してくれるんですか。」
 瞳を上げて上目遣いに見詰める。正直、答えを聞くのは怖かった。だがそのひとは力強く肩を抱いて深く頷いたのだった。
 「大丈夫。守れない約束はしない。」
 「――――ほ……。」
 「――――本当だな?」
 後方より別の声が投げられた。その人物はコロナの言おうとした事を引き取って代わりに尋ねた。彼は腰に手を当て、じろりと青年を睨み上げる。
 「本当だな!?涼月。約束破ってコロナ泣かしたら承知しないからな!!」
 「――――バド………。」
 「コロナも何時までもメソメソしてんじゃねぇよ!!気持ち良く送り出してやるのが俺達の役目だろ!?」
 ずかずかと階段を下りて来て拳で姉の頭を軽くコツンと小突く。小さな騎士の登場に涼月はにこりと微笑を返した。
 「………ああ、約束するよ。特に女の子を泣かすのは本意じゃないんでね。」
 「………忘れるなよ、その台詞。」
 忘れない。そう言って、唇を一文字に引き結んでこちらを睨め付けているバドの頭をわしゃわしゃと撫でた。そして黙って事の成り行きを見守っていた友人を振り返る。
 「――――さて、んじゃそろそろ行こうか、瑠璃。」
 「――――良いのか?」
 些か遠慮がちに尋ね返した彼に対し、涼月は苦笑してみせる。
 「早く終わらせて、君の大事な大事な姫に元気な顔見せてやりたいだろ?」
 「……………こんな時に、茶化すな。」
 途端にむすっと口をへの字に曲げ、僅かに朱に染まった頬を見られまいと顔を背ける友人を見て、青年はくすくすと忍び笑いをしつつ頭を掻いた。
 「別に茶化してるつもりはないんだけどなあ。………ま、いっか。」
 「フン。先に出てろ。俺は後からすぐ行く。」
 「そうかい?じゃ、お先に。」
 大剣を腰に差し、帽子を被り直して最後に手袋をきゅっと引っ張る。これまでに何度も見て来た一連の動作を、双子は真面目な面持ちで静かに見守った。何故か荘厳な空気が其処には流れていた。
 「……行って来ます。頼むよ。」
 ――――!
 双子ははっと息を呑んだ。
 頼むよ。
 彼は確かにそう言ったのだ。彼等に。
 「行って……らっしゃい。」
 コロナがそう言ったのを確認し、涼月は微笑んだ。瑠璃に軽く手を上げて出て行く。瑠璃も後を追ってすたすたと扉へ向かい、……そして、立ち止まった。
 「アイツにしか出来ない事があるように、お前達にしか出来ない事もある。……甘えてばかりでは駄目だ。」
 或いはその言葉は己自身に言い聞かせたものであったのかもしれない。 
 「………私達にしか、出来ない事……。」
 少女は俯き、振り返りもせずに吐き出された彼の言葉を反芻する。
 「………連れて帰る。必ずな。」
 後ろを向いていた為に、表情は見えなかった。だが――――さらり、と砂のマントが優しく揺れた。
 信じてやれ。半ばぶっきらぼうに呟いたその台詞が耳に届き、思わず顔を上げた時は、彼の姿は既に其処になかった。



 暫くの間、双子は物も言わずに扉を見詰めていた。
 頼むよ、と師匠は言った。お前達にしか出来ない事もある、と珠魅の剣士は言った。一体何が、何が自分達に出来るというのだろう。瑠璃や、あのシエラに比べて、余りに自分達は非力だ。出来る事など。
 「――――待つ事くらい、しか………。」
 ぼそりとコロナが零した時、バドがはっとして彼女を見た。
 「それだ、コロナ!!」
 「――――え?」
 驚いて目を丸くする姉に構わず、バドは彼女の両手を取ってがしっと握り締めた。それだよ、コロナ。もう一度力強く彼はそう言った。
 「瑠璃の兄ちゃんも言ってたじゃんか。信じてやれって。待つ事しか出来ないんじゃない。待つ事が出来るんだ、俺達は。何も出来ないよりは良いさ。涼月の留守を守る事が出来るのは俺達しかいないんだからな!」
 「――――信じて、待つ………。」
 バドは深く頷いてみせた。
 「涼月が帰って来た時、何時もと変わらず『お帰り』って出迎えてやる事だって、大切な事だろう?………俺達は知っている筈だ、コロナ。」
 知っている。家で待つ者が突然いなくなった寂しさを。虚しさを。冷たさを。この世界に姉弟、二人きり取り残された。それは余りに唐突な別れだった。……コロナはこっくりと頷いた。二度と味わいたくない。あんな思いは。味わわせたくもない。あのひとには。
 そう、私達は家族だから。
 二人はそれを確かめるように微笑み合った。



 ひゅうひゅうと風が鳴る。風が打ち付ける度にミシミシと家全体が軋み、嫌な音を立てる。些か雲行きが怪しい。夕食の後片付けを終えたコロナは、不安そうに屋根裏にある自室から窓の外を見ていた。
 ――――昼間はあんなに晴れていたのに。嫌なお天気。
 そんな事を思って溜息を吐いていると、バタン、と勢い良く扉を開けてバドが帰って来た。
 「いやー、参った参った。戸締りは完璧だろうな、コロナ?」
 雨具を脱いで流れる汗を煩そうに拭う。お帰り、バド。コロナはタオルを差し出しつつそう言って出迎えた。
 「ペット牧場の方、どうだった?」
 「んー、何かやっぱ感じるのかなぁ。スゴイ騒ぎになってるよ。一応しっかり鍵はかけといたから大丈夫だろうけど。」
 タオルで汗を拭き、うーんと伸びをして少年はベッドに仰向けに倒れ込む。少女はその隣りにちょこんと腰掛けた。
 「………風が、生暖かい。」
 「……………!」
 天井を睨み付けて。少年はぼそりと言った。
 嵐が来る。
 彼には珍しく、その頬は蒼白気味だった。



 そして嵐はやって来た。バドの予言通りに。突風がごうごうと舞う中を、バケツを引っ繰り返したような雨がひたすら降り注ぐ。草を。木を。土を。容赦なく、無慈悲なまでに全てを打ち付ける。……彼等の心をも。バドは動かない。そんな雨をじっと見詰めて、否――――親の敵のように睨み付けて、窓際に座り込んでいる。――――バド………。コロナはそんな弟に声を掛けた。
 「――――もう、寝ようよ………。」
 「……………。」
 「こんな時間だし…………。」
 「……………。」
 「………風邪、引くよ………。」
 「……………。」
 「………バド……………。」
 「………俺、聞いたことあるんだ。」
 「――――え……………。」
 雨を、嵐を凝視したまま、漸く少年は口を開いた。何を。促す姉に、唇をきゅっと引き結ぶ。言っても良いものかどうか、逡巡しているようであった。やがて意を決したか、ゆっくりとコロナに顔を向ける。少女は眼を見張る。弟は今にも泣き出しそうな顔に見えた。彼はゆっくり、ゆっくり言葉を紡ぎ出す。――――珠魅に関する、言い伝えさ。
 「………言い伝え………?瑠璃さん達………の?」
 どくん。心臓が跳ね上がる。何を言おうとしてるの?どうしてそんな顔してるの?バド。………怖いよ。
 バドはこくんと頷き……呟いた。飽くまで、言い伝えなんだけどさ。そう前置きして。



 珠魅が泣くと、空も泣くんだってさ。



 珠魅。彼等は嘗て友愛の種族と呼ばれていた。涙を流し、彼等の命そのものである涙石を生み、それを傷付いた他者に分け与え、その者を癒す。己の命を削ってまでも他者を救う。その心美しき行為には天すらも心を動かされ――――そして、涙する、という。するとこの吹き荒ぶ風は天の嘆きか。この降り頻る雨は天の涙か。
 ――――!!!
 愕然として少女は弟を見詰めた。何を、言ってるのよ。何が言いたいの、バド。そう言ったつもりだった。だが声にならなかった。脇の下を冷たい汗がつう、と流れ落ちる。少年はそんなコロナを力なく一瞥し、視線を窓の外に戻した。熱に浮かされたようにその唇が更に言い募る。本当は考えたくもない。そんな事は。しかし吐き出さなければ――――そのまま不安に押し潰されそうであった。
 「泣いているのは、瑠璃の兄ちゃんなのかな………。」
 何の為に?
 「それとも、真珠の姉ちゃんなのかな………。」
 誰の為に?
 「それとも………他の誰か――――。」
 かっ。
 刹那、眩しい白光が一瞬のみ部屋を照らし、耳を劈くような雷鳴が轟いた。地ががたがたと揺れる。
 「――――きゃ………!!!」
 思わずコロナはバドにしがみ付いた。バドがはっとしてコロナを抱き留める。雷鳴が遠退いて行くまで、二人はそのままじっと抱き合っていた。――――やがて、再び風雨の音のみが音量を増していった。コロナ?……バドは掠れたような声で囁いた。
 「………もう、大丈夫だ。」
 少年の腕の中、がたがたと震えていた少女がそろそろと顔を上げる。涙を必死に堪えていたのか、眼が真っ赤だった。
 「御免。御免。コロナ、俺――――。」
 少女はいやいやをするように頭を振った。
 「ねえ、どうしよう。どうしよう、バド。怖いよ。信じてるけど、怖いよ。」
 両の拳でどんどんと弟の胸を叩いた。
 「いなくなったら、どうしよう。涼月さんがこのまま帰って来なかったらどうしよう。好きなのに。あのひとの事、こんなに好きなのに。父さんと母さんみたいに突然いなくなっちゃったら――――。」
 「――――!」
 少年は歯噛みした。畜生、と呟いた。不安にさせた。自分の言葉が、姉を不安にさせた。双子なのに、ほんの一寸「お姉さん」なだけなのに、何時も何かにつけては年上ぶって、気丈に振舞って。でも本当は自分よりずっと、ずっと甘ったれな姉だという事を知っている筈なのに。――――暗雲の如く己の胸に立ち込める自己嫌悪と罪悪感に耐えられず、バドはコロナを押さえ付けるようにして強く抱き締めた。囁いた。その時は、俺がいる。
 「――――バ、ド?」
 「……独りになるなんて、思うな。周りに誰もいなくなったって、俺だけはコロナの傍にいる。俺は何処にも行かない。独りにしない。約束する。……だから、そんな事言うな!!」
 「バド………。」
 ぎゅうっと力を込める。ほろほろと涙が零れ落ちる。
 「……本当………?」
 バドは微かに笑った。
 「『大丈夫。守れない約束はしない』。」
 「――――!」
 コロナは声を詰まらせた。何か。何か言いたいのに。言葉が、出て来ない。そんなコロナを、バドは慰めるように言った。
 「……信じるんだ、コロナ。頼むよ、って、言ってたじゃんか。大丈夫。涼月は必ず戻って来るさ。そんな簡単にくたばるようなヤツに、この俺が弟子入りする訳ないじゃんか。もし、万が一アイツが此処でくたばったら、俺が奈落まで追っかけてってブッ飛ばしてやる!!」
 「バド………それはいくら何でも無理だよ………。」
 あはは、と涙を拭いつつ、コロナは微笑んだ。微笑んで、きゅっとバドの背に手を回す。
 「エヘヘ。………バドも、大好き。」
 「………ちぇ。『も』って、俺は涼月より下かよ。」
 「そんなコトないよ………。だって、大事な弟だもん………。」
 拗ねたように口をへの字に曲げたバドが可笑しくて、コロナはくすくすと笑った。



 双子はそのまま仔犬のように身を寄せ合って雨の音を聞いていた。こんなだったね。あの時も、父さんと母さんがいなくなった夜も、こうして二人で抱き締め合って眠ったね。温かいから。独りじゃないって、分かるから。………そんな事を、話しながら。
 嵐は、夜通し続いた。



 どのくらい経ったのだろう。何時しか雨も子守唄のように穏やかな旋律を奏で始めていた頃。うつらうつらとしていたコロナは、バドに肩を叩かれてうっすらと目を開けた。
 「………?どうしたの、バド………?」
 「………見ろ、コロナ。」
 そう低く呟いた弟は何故か緊張した面持ちで窓の外を凝視していた。コロナは気付いた。弟の顔に降り注ぐ光がほのぼのと白く清々しい事に。雨の音が、風の音が、全くしないという事に。はっとして彼女も外を見た。その刹那、声を失った。
 嵐は何時の間にか止んでいた。その代わりにあったものは――――。
 「虹………?違う、あれは――――。」
 「――――オーロラだ………。」
 虹色の淡い光が幾層にも重なり、溶け合って、カーテンのように揺れていた。ゆらり、ゆらりとスローモーションのように静かに揺れる。そよ風に擽られるように可憐に、流麗に靡く。空中にきらきらと溢れ、深深と舞い踊る綿毛の如き白い白い光の粒は、昔父さんに買ってもらった金米糖に似ている、と双子は思った。
 「――――コロナ、出るぞッ!!!」
 言うが早いかバドがベッドから飛び降りる。コロナもすぐに後を追った。何故かは分からない。だが、そうしなければならないような気がした。感じた。全て終わったのだ、と。長すぎた夜と、そして――――。



 階段を駆け下り、居間を走り抜け、玄関の扉を勢い良く開けた。
 彼等は何も言わなかった。只真っ直ぐに、この家へと続く道の向こうを見詰めていた。一瞬の変化も逃すまい、と。
 余りに静かだった。双子の荒い息遣いだけが、その場に音を与えていた。やがて。
 さらり。
 音がした。
 双子の心臓がどくんと鳴った。知っている。あの音は。つい昨日も聞いた。良く知っている。
 道の向こうに小さく「彼」が見え始めた。胸で鈍く光を放つ珠魅の核。草原の色をした砂のマント。……半歩遅れて、彼の姫が後に続く。清楚な純白のドレスを身に纏う、白真珠の姫。
 ――――瑠璃、さん?……真珠姫さん………?
 呆然と双子は彼等を見詰めた。言葉を発する事も出来ずに。彼等が近付いてくるまで一瞬たりとも目を逸らせずに。
 「……………涼月、は……………?」
 バドが漸く震えた声を絞り出す。コロナは胸が潰れるような心地でそれを聞いた。
 双子の目の前までやって来た珠魅の剣士は、その言葉にぴくりと眉を上げた。些か驚いたような表情をしていた。
 「――――瑠璃、さん………。」
 がたがたと震える身体を無理矢理押さえ付けるように、少女は自分自身を抱き締めた。涙が込み上げて来る。自分が壊れてしまうのではないか、と彼女は思った。――――ねえ、瑠璃さん。懇願するように彼を見上げる。
 瑠璃さん。私、信じて待ったよ?信じてやれって言ったの、瑠璃さんだよね?私達にしか出来ない事があるって言ったの、瑠璃さんだよね?ちゃんと守ったよ?この家、守ったよ?しっかりお留守番してたよ?私達、お利口にしてたよ?だから、だから――――。



 だから――――あのひとを、返して下さい………。



 「――――コロナ、ちゃん………?」
 俯いてひっくひっくと泣きじゃくり始めたコロナを見ておろおろと何か言葉を掛けようとする真珠姫を、瑠璃は無言で制した。そして彼は彼女の目の高さに合わせて屈み込んだ。彼等の師匠が、良くやっていたように。右手を少女の小さな細い肩に優しくそっと置いた。
 温かかった。ラピスラズリのごつごつとしたその掌は、思っていたより温かかった。思わず濡れた瞳を上げて瑠璃の顔を見た。彼は、ふわりと微笑んだ。このような時でなければ、瑠璃さんってそんな顔もするんですね、くらいの無駄口も叩いたかもしれない。それ程までに、彼の眼はとても優しい、とコロナは思った。柔和な光をその瞳に湛えて、瑠璃は静かに告げた。
 「――――早とちりするな。良く見ろ。」
 ――――え………?
 早とちり。そう言ったんですか?瑠璃さん。
 目を丸くするコロナに、瑠璃はゆっくりと頷く。ほら、と背をとんと押してやった。
 「……………!」
 バドとコロナは、再び視線を道の向こうへ戻す。霧の如くぼやけて見える光の中――――やがて彼等の視界に、小さな人影が微かに映った。それは次第にはっきりとした輪郭を伴い、静々と近付いて来る。その時双子は息を呑んだ。
 ふさふさと揺れる、羽飾りが見えた。
 目の覚めるような、赤い色の帽子が見えた。
 稲穂の色にそっくりな、黄金色の巻毛が見えた。
 ……あの、柔らかな微笑みが見えた。



 バドが駆け出した。狂ったように駆け出していた。何事か喚きながら、勢い良く彼の人の胸へと飛び込んで行く。そんなバドの髪をくしゃっと撫でてから、彼は面を上げる。少女と目が合った。
 少女は――――動けなかった。



 どうしたの。
 ――――言って下さい。
 心配をかけたね。
 ――――何時もみたいに。
 遅くなって御免。
 ――――気にしてない。
 もう少しで、約束守れなくなる所だった。
 ――――そんなの、平気。



 「ただいま……。」
 そう。その、微笑みと――――。



 ――――この家の気まぐれな主は帰って来た。
 朗らかではあるが何処か気の抜けた、疲れているのだかいないのだか分からないような、何時ものあっけらかんとした声を響かせて。
 その時、少女は駆け出した。彼の腕の中へと。真っ直ぐに駆けた。
 きらりきらりと光の粒が舞う。虹色の煌めきがベールのように皆を包む。
 皆笑っていた。真珠姫も。瑠璃も。バドも。涼月も。……コロナも。
 貴方は確かに英雄なのかもしれない。
 私達なんかには勿体ない、遠い人なのかもしれない。
 でも、貴方が何時もの貴方でいてくれる限り、安心するから。
 分かるから。貴方は、貴方なのだと。傍にいても良いのだと。
 何時もの貴方がいてくれれば、何時もの私でいられるから。
 ……だから、貴方が何時もの貴方であるのなら。
 私も何時も通りの台詞を貴方に返してあげましょう。



 ――――お帰りなさい。私の、マスター。





FIN.


あとがき読みます?



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