――――ぴしゃん。
水滴の滴る音がした。何処かで雨漏りがあるようだ。微かな音。――――だが暗闇の中全身が耳と化している少年にとっては、それすらも鮮明な響きとなって刻み込まれる。
暗闇ばかりがその場を支配していた。何も見えない。只、微かに漂う血の匂いが、少年の足元で、確かに生物の存在していることを主張していた。
彼等は不幸にも少年の稽古相手として選ばれた者達である。流石に死んではいないが、暫くの間起き上がることは不可能であろう。
少年は最早壁や床にまで染み付いた血の匂いに思わず顔を顰めた。
だが少年が顔を顰めたのは血の匂いを不快に感じたからではない。寧ろ、彼はそれを心地好いとさえ感じていた。顔を顰めたのはそんな己に対する嫌悪からに外ならない。その嫌悪感は、彼の身体に半分流れるヒトの血の為せる業であろうか……。
次第に己の息遣いのみが音量を増してきた。汗が首筋を伝う。
「少しは、腕を上げたようだな。」
闇の中から、太い声が響いた。荒々しいが、聞く者を畏怖させる、威厳に満ちた声だ。
「獣人王……っ。」
少年は声のした方向を睨み付ける。それは少なくとも子が父に対して向ける視線ではなかった。
「それでは、儂が相手してやろう。」
「――――!!」
それを待っていたかのように、少年は身構えた。緊張が全身を駆け抜ける。
瞬間、凄まじい闘気が少年を襲った。相変わらずの真正直な闘気――――彼は思わず呻いた。
通常、余りにも小細工無しの剥き出しの闘気は戦闘において下の下とされる。それだけ自らの手の内を相手に披露するも同然だからである。
だが、彼――――獣人王に関してはこの常識も順当ではない。彼の持つそれは常に真正直である。小細工は存在しない。――――否、存在する必要がないのだ。彼の持つ闘気はそれだけ他者を遥かに凌駕していた。並の人間なら、闘うより先に彼の闘気の重圧に耐え切れず、押し潰されてしまうだろう。
――――来る!!
少年は床を蹴って闘気をかわした。
「――――そこかッ!!」
同時に右足の蹴りを繰り出す。
「なっ……。」
愕然とした。彼の右足は、何の手応えも感じなかったのである。そんな、と呟いたその時。
「愚か者。残像の発する闘気と本物の闘気の区別もつかぬか。」
「――――!!」
声がしたのは彼の耳元であった。
恐怖。――――それを感じた刹那、少年の意識は肩への痛みと共に深い闇へと吸い込まれていった。
目を開けて視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井であった。
――――此処に、運ばれて来た、ってことは……。
少年は記憶の糸を手繰ろうとする。
「――――オイラ、又負けたのか……。」
口に出してみると余計に惨めな気分だった。一体何度目だろう、此処へ運ばれて来たのは。鍛え抜かれた筈の己の肉体。それすらも冷たく嗤っているように思える。
「気が付いたか、ケヴィン。」
その声、その台詞も最早少年――――ケヴィンにとっては聞き慣れたものとなっていた。
「――――スメリア……。」
柔らかな光を背に浴びて、彼は立っていた。後ろでさらりと纏めた長い髪。しなやかな細い指。何処か儚い、その美しい容姿は一瞬女性かと見紛う程である。
だがケヴィンは知っていた。彼、スメリアがれっきとした男性であるという事を。彼が、父・獣人王の旧友であるという事を。そして、彼の助力無くしてはこのビーストキングダムの建国は成し得なかったであろう、という噂も……。
そう、このスメリアも獣人なのである。その柔和な物腰からは誰一人として想像し得ないであろう。しかし、獣人特有の大きく尖った耳と、褐色の肌が、彼が正しく獣人である事を証明していた。
「何度目かな?お前が此処へ運ばれて来たのは。」
ケヴィンの心中を見透かしたかのような台詞だった。
「何時になったら勝てるのだろうな、お前は。」
「――――!」
ケヴィンはぷいと顔を背けた。負けず嫌いな少年には癇に障る台詞だったらしい。そのまま毛布を押し退けて起き上がろうとする。その刹那、左肩に痛みが走った。思わず肩を抑えてうずくまるケヴィンを、スメリアは柔らかく押し止めた。
「ああ、まだ起きてはいけない。今、ヒールライトをかけてやる……。」
スメリアはベッドに椅子を引き寄せて座ると、ケヴィンの抑えている左肩にそっと両手を置いた。そのまま静かに瞳を閉じる。――――やがて、スメリアの手がぽうっと白い光を帯びてきた。
――――キレイだ。
ケヴィンは素直にそう思う。この光を見る度に、何処か優しい気分にさせられる。
「魔法」。――――スメリアはそれを使うことの出来る只一人の獣人であった。魔法を使うには、強靭な精神力と、当然ながらそれ相応の魔力というものが必要不可欠である。だが哀しいかな、獣人は魔力の低い種族であった。それ故、このスメリアのように魔法を自在に使いこなす者は貴重な存在であった。彼は珍しく、獣人にあるまじき傑出した魔力を備えてこの世に生まれ出た。何十年に一人はこういった「変り種」が生まれることもある。
そういった理由で、スメリアはその能力を生かして今日もケヴィンの傷付いた身体に魔法治療を施しているのである。――――「回復」魔法を操る能力を。
痛みが徐々に退いていく。スメリアの手が離れた。
「…あり、がとう。」
「いいんだよ、私がそうしたいからやっているのだ。」
ぎこちない礼の言葉に、にっと笑ってスメリアは応じた。普段は歳の割に大人びているケヴィンだが、こういう時は歳相応の少年らしい素顔を垣間見せる。
――――それも母親がおらぬ故のことか……。
微笑ましいと思う一方で、このケヴィンという少年の哀しい境遇をスメリアは再認識せずにはいられなかった。
そんなことを思っていると、すっかり痛みの退いた肩を摩りながらケヴィンが声をかけた。
「スメリア、オイラ、一度聞きたいと思ってたんだけど……。」
「――――?」
「スメリアは、攻撃魔法使えるか?」
「多少…は、使えるだろうがね。だが使ったことはない。これからも――――な。」
スメリアは困ったようにケヴィンを見て苦笑した。
「封印してあるのだよ、あれは回復魔法以上に精神力を喰うからな。」
――――尤も、理由はそれだけではないがな。
そう付け足した。ケヴィンに聞こえることのない心の声で。
「そう……か。」
少年は少なからずがっかりした様子だ。
「何故、そんな事を聞く?」
「いや、ええと…オイラ、魔法が使えれば少しは獣人王とまともにやり合えるかなって。」
ケヴィンはそう言って罰の悪そうに頭を掻いた。スメリアはやれやれ、と肩を竦める。
「大方そんな事だろうとは思ったがね。――――いいかいケヴィン。私に言わせれば、魔法を使っての間接攻撃など下の下だ。獣人に魔法戦など似合わん。己の肉体を駆使しての闘いこそ、我々獣人に相応しい。」
「…でも、オイラ……。」
「…そうだな、お前は確かに人間との混血児だ。だが――――」
厳しい口調がふと優しくなる。
「だが、お前は獣人王の息子だ。獣人王の息子として…ビーストキングダムの後継者として……獣人の、誇りを忘れてはいけない。」
「…………。」
ケヴィンは言葉を失って黙り込んだ。
――――戸惑っているのだ、この子は。
スメリアはそう思う。
無理もなかった。このビーストキングダムの獣人の多くは人間を憎んでいる。何時か自分達を迫害した人間達に復讐する為に――――只その為に、彼等は日々己の技を磨いている。だが。
将来彼等が仰ぐ事となる王国の後継者――――獣人王の一人息子・ケヴィンに人間の血が流れている事は周知の事実である。「ヒト」の血を引いた後継者。獣人達はどんな思いでこの少年を見詰めているのだろうか。受け入れられるのだろうか、自分は。自分の居場所は果たして何処にあるのだろうか――――。
――――受け入れられる方法は、只一つ。
分かっているのだ。ケヴィンの想いも、そして友の想いも。
「…強くなれ、ケヴィン。獣人王よりも、ずっと――――ずっと強く………。」
今は、そう言うしかない。そう――――今は。
「じゃあ…もう一つ、聞いてもいいか?」
「今日は質問が多いな。」
「スメリアと、獣人王、どっちが強いんだ?」
「――――?」
これはスメリアにとって思ってもみなかった質問であった。
何故、そんな事を。訝しがるスメリアに、ケヴィンは更に言った。
「オイラ、他の獣人達が言ってるの、聞いた……スメリアは、獣人王と互角――――いや、それ以上に闘える只一人の獣人だって………。」
――――そういう訳か。
スメリアは溜息を吐いた。
「それはそれは、光栄な噂だな。私と獣人王が互角、か。」
そう言ってさも可笑しそうにケヴィンに視線を向ける。
「過大評価もいいところだ。生憎、私の身体は肉体労働向きではないのでね。」
「――――それじゃあ……。」
「私など、獣人王の足元にも及ばぬよ。」
――――ウソだ。
ケヴィンは直感的に思った。
火の無い所に煙は立たぬ、と言う。獣人王と互角、という噂が誇張であるとしても、少なくとも自分よりはきっと強い筈――――ケヴィンはそう考えていた。
「けどスメリア、オイラよりはきっと強い。強い奴が後継者として相応しいんなら、スメリアの方がその資格、ある。ヒトの血が混ざったオイラなんかより――――」
その先は言えなかった。
ケヴィンのすぐ目の前に、スメリアの鋭い眼光があった。スメリアの右手は、ケヴィンの口を押さえている。先を言う事は許されなかった。その険しい表情が、許さなかった。
「此処にいるのが私だけだからよかったが………。」
そう言いつつ手をそっと外す。口の周りがふいにひやりとする。
「――――ケヴィン。他の獣人達の前で、さっきのような台詞は言ってはいけない。――――いいか、絶対に、だ。」
口調は静かなものだった。だがこれ程迄に厳しい表情をしたスメリアを、ケヴィンは知らなかった。
――――怒らせた……。
ケヴィンは俯く。
「ならば今度は私が問う。お前はこのビーストキングダムが建てられた本当の意味を考えたことがあるか。」
「ホントウの…意味……?」
何故そんな事を聞かれなければならないのか。皆目見当が付かなかった。
恐る恐る言葉を紡ぎ出す。
「人間に…復讐する為……?」
スメリアは大きく頭を振った。
「それが分からないというのなら。」
金色の眼がじっと見据える。射貫かれたように、ケヴィンはその場に竦む。
「お前は、まだまだ子供だという事だ。」
「――――!!」
その言葉が少年の封印を解いた。弾かれたようにベッドから飛び降り、そのまま振り返りもせずに部屋を飛び出していった。
「負けず嫌いなところは、父親譲りか……。」
誰にでもなく、呟く。
――――全く、短気で困ったものだ。
そんな事を考えながら、開いたままの扉を閉めようとした時、扉の影から感じ慣れた気配がした。
「立ち聞きとは、趣味が悪いな。」
それが誰であるのか、スメリアには既に分かっていた。
やがて扉の影から現れたのはスメリアの親友にしてビーストキングダムを統べる人物――――獣人王、その人であった。
「――――どうやら彼奴は、まだまだ鍛え方が足りんようだな。」
「殺さん程度に鍛えることだ。今日のは特に酷かったぞ。」
シーツを直しながら釘を刺すスメリアに、獣人王はふんと笑ってみせた。
「傷が酷いという事は、奴の腕が昨日より上がったという事だ。それだけこの儂に力を出させたのだからな。」
「――――不器用極まりない愛情表現だな。」
スメリアは吐息を漏らして親友に向き直った。
「…お前達親子は、もっと素直になった方が良いのではないか?お互いに。」
「儂は十分素直なつもりだ。それに――――」
獣人王は意味ありげに笑った。
「いい歳をして何時までも独り者のお前には、言われたくない台詞だな。」
問題を摩り替えられたスメリアは、何故か自嘲的な笑いを返す。
「――――相手を不幸にすると分かっていて、所帯を持つ事は出来ぬよ。」
「……………。」
「幸い、独りなら…誰も悲しませる事はない………。」
それが目の前の親友に向かって言った言葉なのか。自分に言い聞かせた言葉なのか。
スメリア自身にも分からないまま、そんな呟きが彼の口から流れ出ていた。
「――――そうとも限らん。」
「――――?」
獣人王の言葉に、顔を上げる。
「ケヴィンは、お前には何でも話せるようだ。…身体をいとえよ。」
最後の一言が重くのしかかった。
スメリアは微かに笑って、今立ち去ろうとしている獣人王の背中を見詰めた。
「…それは、親友としての言葉か?それとも――――」
からかうような声を背に、獣人王は無言で扉へと向かった。
歩みを止め、ノブに手をかける。
やがて、振り返る事無く彼は静かに呟いた。
「何時までも独りなのは……それだけではあるまい。」
「…………。」
部屋を出る前に、今一度振り返った獣人王の目に映ったスメリアの姿。それは、何時もに増して儚げだった。
自分の言葉を否定するでもなく、肯定するでもなく…只、彼は――――立っていた。静かに微笑みを浮かべて……。
――――バタン。
扉が閉じられた。
一人、スメリアが残された。
「お見通し――――か。」
静けさは苦痛だった。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んで来た。
夜の、匂い。
瞳を閉じて大きく息を吸い込む。夜風が彼の柔らかな髪を撫でていく。
そのままゆっくり吐き出すと、改めて獣人王の最後の言葉が胸に蘇った。
――――何時までも独りなのは……それだけではあるまい。
「時に厄介だな、友というものは。」
空を見上げると何時もの如く金色の月が彼を見下ろしていた。
――――月よ……私を嗤うがいい。
スメリアは、そのまま暫く風を感じていた。
彼の「こころ」を癒すように、それは――――とても、優しかった。
時を同じくして、月夜の森を駆け抜けて行く一つの影があった。
スメリアの部屋を飛び出したケヴィンである。
太陽が昇ることなく、その名の示す如く月明かりの支配する森――――それが、『月夜の森』である。
嘗て獣人は人間に迫害され、この地に逃れて来た。――――永遠の闇に閉ざされた、この地へ。
何故太陽が昇らぬのか。それは、月夜の森の中にひっそりと建つ『月読みの塔』に関係があるといわれていたが、勿論ケヴィンもその理由を知る筈もなかった。彼がその真相を知るのは、これより三年も後の事である。
人間に追われた獣人達の恨みに満ちた心の如く、森は暗く、鬱蒼としている。
だが、ケヴィンはこの森が好きだった。
夜の空気は心地好い冷たさで彼の身体を包んでくれたし、夜風が運んで来る草木の匂いも好きだった。
そして何より、心身ともに安らげる場所が其処にはあった。
ケヴィンは今、その場所へと向かっていた。
――――オイラ、闘うの、キライ……。それなのに。
風を切って走りながら、様々な思いが去来する。
何故、混血児として生まれたのか。
何故、純粋な獣人として、生まれて来なかったのか。
いっそ、それならば、こんなに悩まずともよかったかもしれないのに。
闘うこと、強くなることに純粋に生き甲斐を感じることが出来たかもしれないのに。――――そう、他の獣人達のように。
――――お前は、まだまだ子供だという事だ。
スメリアの言葉が、激しく心を抉った。
悔しかった。
霧が明けた。
それはいつものように、優しくケヴィンを出迎えてくれた。
黄金の女神像。
月光を全身に浴びて佇む、神秘的な微笑みを湛えた女神像。
マナの女神を象ったといわれるその像の足元――――それが、ケヴィンのお気に入りの場所であった。
やがて自分が本物のマナの女神に見えることになろうとは、外見とは裏腹に頼りない、この少年はこの時まだ知る由もない。
――――女神様、オイラ、どうしたらいい?………。
ケヴィンがそっと女神像に触れた時であった。
――――?
彼の嗅覚が、およそその場にそぐわぬ臭いを捕えたのだ。
その正体を知り、彼は愕然とした。
――――そうだ…これは、血の臭い………。
「誰か、いるのか?」
そう言いながら、答えは無いだろうと思った。
血の臭いが教えてくれた。ケヴィンにとって不快感しか感じられない、これは――――「ヒト」のものではないという事を。
耳を澄ますと、微かに荒い息遣いの音がした。女神像の背後だ。
「――――!!」
其処にあったのは、無惨な光景であった。
「………。」
血相を変えたケヴィンに連れて来られたスメリアは、ゆっくりと首を振った。
「残念だが、ケヴィン…もはや手遅れだ。私では、どうしようもない。聖都ウェンデルの光の司祭ならば、まだ手の施しようがあっただろうが………。」
「――――そんな。」
二人の目の前には、矢で胴を射られた一匹の狼が横たわっていた。傷口からは夥しい量の血が流れ出ており、余程時間が経ったと見えて、それが地面を赤黒く染めていた。
「恐らく此処へ迷い込んだ人間が、獣人と間違えて矢を射たのだろう…よく確かめもせずに。」
最後の言葉には微かに怒りが感じられた。
獣人と人間。この二種族の間の溝はケヴィンが思っていた以上に深いらしい。
遣る瀬無さに少年は唇を噛んだ。
「ゴメン…オイラ、オイラ…何もしてやれない。」
狼はその声に応えるように、じっと瞳を向けた。
息がますます荒くなってくる。
「ケヴィン…『彼女』が何を望んでいるか分かるか?」
獣人と狼は、いわば近い種族である。それ故か、獣人は彼等との意思の疎通がある程度可能であった。
だらしなく半ば開かれた口からは涎が流れ、舌はぶるぶると痙攣している。そして――――何かを哀願するような、黒い瞳。
ケヴィンは、こくんと頷いた。優しく、『彼女』の首筋を摩る。
狼はそっと瞼を閉じた。
その瞬間。
ケヴィンは、己の手に力を込めた。
――――ぴくん……。
掌に感じた、その命の最期の証。
何時しか、少年の瞳は濡れていた。
「…葬ってやろう。」
言われなくともケヴィンはそのつもりであった。
此処には黄金の女神像がある。寂しくはないだろう……。
そう思って冷たい躯を抱き上げようとした時、その腹の下がもそもそと動いているのが目に入った。
「――――?」
スメリアが躯を抱き上げてみると、そこにいたのは小さな狼であった。
「そうか――――この子を守って……。」
ケヴィンの方を振り返ると、彼は呆然と小さな生命を見詰めていた。
やがて、そっと手を伸ばすと、ちび狼は後退り、震えながら唸り声を上げた。
「オイラ、怖くない…おいで。」
尚も手を伸ばす。と、獣は歯の無い口でケヴィンの指に噛み付いた。
「――――ほう、よかったな。噛み付く元気があるとは。」
「無理、無い…オイラ、この子の母さん、殺した。」
「――――!」
スメリアははっとケヴィンを見た。
「こいつ、それ、見てた………。」
「ケヴィン――――………!!」
ケヴィンは小さく笑うとちび狼をひょいと抱き上げた。じっと『彼』の瞳を見詰める。
「オイラのこと、憎いか?……憎いだろ?」
「――――。」
「それなら、生きて、強くなれ。それで、オイラを倒せばいい。母さんの分まで、生きろ。」
――――何と…………。
スメリアはその言葉を唖然として聞いていた。
――――皮肉だな…何と似ているのだ…この親子は……。
嫉妬。
スメリアは、ほんの少しだけ湧き上がったその感情を、苦く受け止めた。
「オイラ、こいつ育てる。」
振り返った笑顔が、やけに眩しかった。
数週間が過ぎた。
『彼』はカールと名付けられ、今ではすっかりケヴィンに懐いていた。二人は、何処へ行くのも一緒だった。稽古が終わると、スメリアの魔法治療ももどかしく、ケヴィンは待っていたカールと共に月夜の森へと駆けて行く。そんな日々が続いていた。
「あのカールとやらのお陰で最近はちっとも稽古に身が入っておらん。」
眉間に深い皺を刻ませて、獣人王は友に愚痴を言った。
「だが、明るい表情をするようになった……。」
微笑みつつケヴィンを弁護するスメリアの脳裏には数週間前の彼のそれが思い出されていた。
時折その瞳に浮かぶ暗い光――――歳の割に大人びていると言われるのは、その所為なのかもしれない。
「何時だったか…ケヴィンは言ったよ。自分とカールは同じだと……。」
「――――?」
「カールは本当は狼だが一見は犬…自分は獣人だがヒトの血が流れている…そして、二人共母親がいない、と――――な。」
「……ふん、くだらん。」
獣人王は更に眉根を寄せた。だが、その言葉や表情とは裏腹に、瞳は何処か遠くを見詰めているようでもあった。
「そのような腑抜けな事を言っておるから、実にくだらん事態になりつつあるのだ。――――スメリア、気付いておるか?」
「――――無論。」
スメリアは低く呟いた。
「最近一部の獣人共の間に不穏な動きがある。後継者があれでは納得出来んらしい。」
「――――守ってみせるさ。」
スメリアの瞳がふっと鋭い光を帯びた。獣人王はその瞳をじっと見詰め返す。
「お前の寿命…縮む事になろうと、か?」
「王は表立って動くことは出来ますまい……それに。」
おどけるように言って会釈をした後、スメリアはぽつりと言った。
「私の命は、その為にあるのだから。」
獣人王とスメリアのやりとりなど、ケヴィンは知る由も無かった。
父の思惑、スメリアの思惑、他の「仲間」達の思惑――――そんなものは、今幸せの中にいるこの少年にとって、全く無縁のものであった。……正確には、彼自身がそう思っていたにすぎないが。
ケヴィンにとっては、カールと過ごす時間が全てであった。カールと森で戯れている、その時間だけが、自分を自分自身でいさせてくれる。そんな気すらしていた。
だが、周囲は彼を放っておいてはくれなかったようである。
ある日、事件は起きたのだ。
その日も、何時も通り、ケヴィンはカールと共に月夜の森を駆けていた。
だが、「何時も」とは違った。誰もいない筈のこの森に、何故か多くの気配を感じるのだ。カールもそれを感じ取っているらしく、時折様子を窺うように唸り声を上げた。
――――十人……いや、二十人はいるか……?
やがて女神像の所まで来ると、ケヴィンは足を止めた。カールが見上げる。
「――――いつまで、隠れてる?オイラ、逃げたりしない。」
――――シン……………
不気味なまでに森は沈黙した。やっぱり気のせいだったのか?そう思った瞬間、カールが低く唸った。
――――!!
周囲の茂みから、彼等は次々と姿を現した。
「彼等」――――それは、ビーストキングダムの住人達であった。ケヴィンの知っている顔もいれば、知らない顔もいる。
「オイラに、何か――――」
用か、と言いかけて、ケヴィンはじろりと一同を睨み付けた。彼等がケヴィンと友好を深めに来た訳ではないという事は一目瞭然だったからである。そう――――彼等は、既に人狼化していたのだ。
「人狼化」――――それは彼等獣人に生まれつき備わった特殊能力の一つである。
何故、獣人が「月夜の森」一帯を根城としたのか。それはこの特殊能力を抜きにして語る事は出来ない。獣人は、闘いの際、それが夜であると人狼化してしまう。人狼化によって、昼間以上の戦闘能力が引き出せるのだ。付け加えるならば、この能力には月の満ち欠けが大きく影響を与えている。つまり、月が満月に近くなる程、彼等は強くなる。故に、満月の夜、獣人とやり合う事はその者にとって、「自殺行為」に値するのだ。「月夜の森」一帯を根城としたのは、その「夜の恩恵」に与る為に外ならない。
リーダー格と見える男――――いや、最早人間の姿をしていないのだが――――が、進み出た。
「ケヴィン、悪いとは思ったが尾けさせてもらった。城ではない所で、ゆっくり話がしたかったのでな。」
――――話、だと?
嘘が下手な連中だ。話し合いにこのような大勢で、しかも揃って人狼化してくる必要がある訳がないだろう。
見え透いた嘘と、自分の大切な時間を邪魔された事で、ケヴィンの心は微かに苛立った。
「お前達、気に入らない。コソコソ、寄ってたかって、どうするつもりだ。」
「――――ほう?」
男がにやりと嗤う。
「コソコソしているのは、お前の方ではないのか?」
「――――何……?」
「稽古もろくにせず、そこのちび狼と遊んでばかり……しかも、お前は。」
一旦言葉を切り、視線を静かにケヴィンの方へ向ける。そして、ゆっくりと次の言葉を紡いだ。
「我々の憎き、ニンゲンの血を引いている、ときている。」
「――――!!」
その声は、ぞっとする程恨みに満ちていた。
ビーストキングダムの後継者たる子供は、人間の血を引いている。
それは獣人達にとって、公然の秘密であった。誰も表立っては、その事を口にしなかった。――――口にする事も、憚られた。故に、ケヴィンと他の獣人達との間には、常に一種の緊張が漂っていた。誰もその「禁句」に触れない事によって成り立っていた均衡が、今、この瞬間――――確かに、崩れ落ちるのを彼等は感じた筈である。
ケヴィンは予感していた。何時か、その時が来る事を。
王国を継ぎたい訳ではない。未だ見ぬ人間というモノに対して、親愛の情がある訳でもない。かと言って、獣人である事に誇りを感じている訳でもない。――――そうだ、何てことはない筈だ――――そう思っていた。
だが、獣人達にはっきりと拒絶されたこの瞬間、自分の立っている場所がぐらりと傾いたように感じたのは、一体何故なのか。何故、戸惑う――――?自分にも、分からない。
「いくら王の御子息とはいえ、我々は分からなくなってきた。お前が、本当に後継者として相応しいのかどうか――――。」
彼等はじり、と間合いを詰めてくる。
「オマエの力、確かめさせてもらう。」
その言葉と共に人狼達がざあっとケヴィンを取り囲んだ。
――――どいつもこいつも。
稽古の時は、多くても五、六人が限度だ。こんなに大勢を一度に相手した事はない。多勢に無勢――――ちらとそんな言葉が頭を過る。その時、不思議とケヴィンの口許に笑みが滲んでいた。いいさ、それでも。此処で終わるなら、それもいい。
「……いいさ、来いよ。」
ゆっくりと身構えた時。
「――――待て。」
凛とした声がその場に響いた。
「…………!?」
よく知っている声だ。何故、彼がこんな所にいるのか。
「彼」はケヴィンの背後にあった木の陰から浮かび出るように姿を現した。
「スメリア………?」
「スメリア殿っ――――!?」
「スメリア、何で此処に――――。」
スメリアはそれには答えずに歩いていくと、「住人」達の前で静かに立ち止まった。
其処には、何時も彼が漂わせている儚さは微塵も感じられなかった。
やがて、スメリアが口を開いた。
「――――此処は、私に免じて退いてくれぬか。」
「何ですと――――。」
彼等は呆然とした。
「未来の獣人王に、もしもの事があっては私の友人に申し訳が立たぬのでな。」
「なっ…何を大袈裟な。我々はただ――――。」
「只の力試しなら、何時もの稽古場で良かろう。わざわざこのような人気のない所を選んだという事は――――。」
その時、スメリアの瞳がぎらりと瞬いた。
――――あわよくば、不幸な事故という事にして――――。
何が起きたとしても不思議ではない。この漆黒の森の中では。
――――誤魔化せると思っているのか。
――――ぐ………っ。
有無を言わせぬ眼光に射竦められて、たじろぐ。暫くして、一人が言葉を放った。
「…分かりませんな。」
「………。」
「何故、ケヴィンに其処までこだわるのですかッ!!」
「あの子でなくてはならぬのだ。新しい王国の後継者は、混血児である、あの子でなくてはならぬのだ。」
「…答えになっていませんな、スメリア殿。」
辺りに、殺気が漂いはじめていた。今、彼等は確実に苛立ってきている。
「――――退かぬと申すか。」
「――――退けぬッ!!これ以上の邪魔立ては、スメリア殿とて容赦は――――。」
「――――ほう。見くびられたものだな、私も。」
スメリアは、冷ややかな笑いを浮かべた。
「ケヴィン、見ておけ。このような闘い方もある。」
初めて振り返ってそれだけ言うと、ふわりと上着を肩から滑らせた。
「いいだろう。お前達が妙な考えを二度と起こさぬよう、私が灸を据えてやる。――――来いッ!!」
「――――!!」
気合と共に、彼は人狼と化した。
――――ぎんいろの、狼………。
今、ケヴィンの眼に映っているのは月の光を受けて白銀に輝く、美しく、そして気高い人狼であった。静かな闘気を身に纏い、狼は闘いに赴こうとしている。
「――――かかれッ!!」
人狼達が、途端に雪崩のようにスメリアに襲い掛かる。
「――――何故、分からぬ。」
その時ケヴィンは、哀しげな呟きを聞いた。
「新しい時代の『かぜ』を――――。」
――――かぜ………?
その問いに答えるべき人は、既に荒々しい闘気の渦に呑み込まれようとしている。
闘いは、呆気なく終わった。
彼等がスメリアに飛び掛ってから、どれくらいの時が流れたというのだろう。ものの数分も経たない内に、決着はついてしまったのだ。――――彼等の人数は、既に半数以下になっている………。
ケヴィンは今、確信していた。獣人王とスメリア、この二人が闘ったとしたら――――どちらが勝っても、おかしくはない。
――――このような闘い方もある。
そう言ったスメリアの闘いは、獣人王のそれとは全く対照的であった。
相手が向かってきた時、獣人王はそれ以上の闘気を以って、正面からぶつかっていく。ところがスメリアはそうではない。彼は、あくまで受動的に、さらりと受け流していく。その自然な動きは、流水のように滑らかである。
この時の戦いぶりもまさにその通りであった。他の者が見れば、彼等がスメリアに触れる前に勝手に吹き飛んでいったように見えたことだろう。だがケヴィンには分かった。流されて、コントロールを失った彼等は、自らの勢いが大きかった分、あらぬ方向へ吹き飛ばされてしまったのだ。
「――――まだ、続けるか………?」
些かの息の乱れも無く、スメリアはゆったりと見渡した。
「今なら、王の御耳に入れずにおいてやる。早く戻って、負傷した者の手当てをしてやると良い。」
「…情けを、かけるおつもりか。」
リーダー格の男がよろり、と立ち上がった。
「不穏分子は、消しておいた方がよいのではないですか。」
「…我々は、仲間だ。」
「……!!」
「ケヴィンの事は大丈夫だ。あの子は、強くなる。」
「どうして、そう言い切れるのですかっ!?」
激昂する男に対して、スメリアはあくまで穏やかだった。
「必ず、強くなるからだ。私が命を懸けて、保証する。」
「…………。」
男は、ぽかんと銀狼を見つめた。スメリアも、身じろぎもせず佇んでいる。
「――――ふ…………。」
やがて男が根負けしたようににやりと笑った。
「全く、スメリア殿とは、話になりませんな……。」
そして、部下達に命令すると、負傷者達を連れて、その場を去って行ったのだった………。
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