最後の一人が見えなくなった時、スメリアは人狼化を解いた。
「スメリアっ!!」
駆け寄ろうとして、ケヴィンはぎくりとした。その場に釘付けになってしまう。
其処にいるのは、ケヴィンの良く知っている、スメリアであった。だが、顔色が無い。死人のように透き通ったその頬は、小さく震えてすらいる。
「ス、スメリア…………?」
そこで、やっと彼はケヴィンと視線を合わせた。そして何時もの儚げな微笑みを浮かべて言った。
「だから、言っただろう……。肉体労働は、苦手、だと……。」
その瞬間、スメリアは頽れた。
「スメリア………ッ!!」
だがケヴィンが駆け寄るより早く、太く逞しい腕がスメリアの身体を支えていた。
「………!?」
ケヴィンははっとしてその人物を見詰めた。
「これは、これは………。」
苦しげな息の下から、スメリアは言った。
「見て、おられたか………王も、人が悪い…………。」
無言で、彼は――――獣人王は、友人を見下ろした。
「何で、だ…………?」
不意の父親の出現に、その息子は拳をわなわなと震わせた。
「何で、助けてくれなかったッ!?見ていたのなら、何で――――」
「――――よすんだ、ケヴィン。」
スメリアがやんわりと押し止める。
「!?何で、何でだよっ!!」
「王が、姿を現せば、どうなる………?王は、王として、彼等を、公に裁かねばならなくなる………。」
「…………!!」
「今の、王国にとって………、それは、得策ではない。」
「――――そういう事だ。」
獣人王が、低く呟いた。
「ケヴィン、お前は少し頭を冷やせ。先に城へ戻っておれ。」
「――――でもっ…………!!」
「戻れと言っておるのが分からんのかッ!!!」
あくまで視線はスメリアに注がれたまま、獣人王はケヴィンを一喝する。
「………。」
ケヴィンはぎり、と奥歯を噛み締めると、身を翻して森の中へ走り去った。カールが小さく啼いて後を追った。
――――結構、父親してるじゃないか…………。
それを見て、スメリアはふふ、と笑った。
漸く、森に静けさが戻って来たようだった。
その静けさを確かめるように、二人は――――暫く無言だった。
先に口を開いたのは、スメリアの方だった。
「………何か、言いたいことがあるなら、言ったらどうだ。」
獣人王はそれには答えずに、スメリアを支える腕に力を込めた。やがてその重い口が、ゆっくりと動く。
「――――お前は、莫迦だ。」
「――――これは、手厳しい。」
「――――はぐらかすな……。」
獣人王はぐい、と顔を近付けた。
「――――そんなに、好いていたのなら、何故――――。」
――――何故、自分のものにしなかった。
最早言い逃れが出来ぬ程、その瞳が鋭く問い詰めていた。
スメリアも瞳で答えてみせる。
――――それを言わせるつもりか。
――――何……………?
――――分かりきった事だ。何故なら彼女が愛していたのは――――。
――――む、む…………。
獣人王は目を伏せると、何かに耐えるように瞼をじっと閉じた。そして、スメリアを支えつつ腰をゆっくりと上げた。
「――――だから、お前は莫迦だというんだ。」
その耳元で、獣人王はぽつりと呟いた………。
ある時、珍しく息子の部屋を訪れた獣人王が言葉少なに告げた。
「スメリアが、月を見たいそうだ。」
スメリアは、あの日から目に見えて弱っていった。車椅子無しでは移動も儘ならない程である。だが、そうなってから一層、彼には一種の清々しい美しさが加わったような気がする、とケヴィンは感じている。
こんな事は考えなくないが――――全てを語り終えた語り部のような、安堵感と寂寞感が今、目の前にいるこの男の内には確かに同居しているのである。
「手が、届きそうだな。」
ケヴィンとスメリアは、屋上で月を見上げていた。――――否、正確に言えばそうしているのはスメリア一人であった。少年は、見ている。眩しそうに月を見上げる、その澄んだ金色の眼を。
「喜び、哀しみ、怒り、憎しみ………あの月は、獣人達の全てを見続けてきた。」
「…………。」
「あの月だけが、全ての答えを知っているのかもしれぬな。」
「――――ゴメン。」
ケヴィンはいたたまれずに頭を垂れた。
「こんなコトになったのは、皆オイラの所為だ。だから――――」
「――――ケヴィン。」
スメリアは優しく肩に手を置いた。
「自分を責めるのは、簡単な事だ。大事なのはその先だ。」
「――――さき…………?」
「そうだ。それに、お前が自分を責める必要は何処にもない。」
「――――何で…………?」
「何時だったか、お前は言ったな。『何故攻撃魔法を使わないのか』、と…………。」
そんな事があったような気もする。もう随分過去の出来事のように思われた。
「あの時私は言ったな。『あれは回復魔法以上に精神を喰うから』と。だが本当は、相手の肉体を、鼓動を――――全てを、この身に直接感じる事が出来るから――――。」
「……………!!」
スメリアは、自嘲的な笑みを浮かべる。
「――――尤も、私も単に血を好んでいるだけの事なのかもな……………。」
――――そんな、こと…………。
「だが、お前は違う。」
スメリアはきっぱりと言った。
「――――ケヴィン、お前は優しい子だ。あのひとによく似ている。ヒトであった、あのひとに――――」
「……………!!」
「――――いい、女だった。」
ふと遠くを見るような目をして、スメリアは呟いた。
「お前は、獣人と人間の架け橋になるのだ。」
「――――!?」
「獣人、人間、エルフ………。そんな種族の檻に囚われて、醜く争いを続ける………。そのような不自由極まりない世の中は、やがて滅びる。お前達が、新しい時代を創るのだ…………!」
「そ、そんなこと、オイラに――――」
「出来る!!!」
震える両手が、ケヴィンの肩を掴んだ。それは信じ難い程に、強い力だった。一体、この病人の何処に、このような力が残っていたというのか――――。やがて、その手がそっとケヴィンの頬に触れ、優しく撫でた。
「――――愛しているよ、ケヴィン。私だけではない。皆がお前を愛してくれる。お前を愛してくれるひと達が、必ず現れる。」
「――――あ、い……………?」
初めて耳にする言葉だった。その言葉を聞いた時、何故か少年の頬を、涙が伝って落ちた。
ずっと、この言葉を聞きたかった。そんな気がしていた。
「………その言葉の意味を本当に理解した時、お前はもっと強くなれる。」
「……………。」
――――うん、うん………。只、頷く。スメリアはそれを見てほのぼのと笑った。
「――――なあ、ケヴィン。人は、もっと自由になれる………。」
一陣の風が吹いた。白銀の髪が水面のように揺れる。
――――そうは思わないか?
そんな顔をしてみせてから、彼は再び月を仰いだ。
二日後、スメリアは静かに世を去った。
その死に顔は、彼の生前そのままに穏やかで、その整った唇には笑みさえ浮かんでいたという。
ケヴィンはむしゃくしゃしていた。どうしようもなかった。何もかも、気に入らなかった。言いたい事を言うだけ言ってしまってさっさと逝ってしまったスメリアも、親友の死に際して涙一つ見せようとしない獣人王も、こうなる事を引き起こしてしまった自分自身の弱さも。
――――皆、壊れてしまえばいい!
激情のままに、気が付くとケヴィンは獣人王に勝負を挑んでいた。獣人王は、黙ってそれを受け入れた。
「お前は、気に病む事はない。」
「……………。」
「奴は永く生きられぬ身体だった。」
「……………黙れ。」
「奴が、望んでした事だ。」
「黙れ黙れ黙れッ!!!」
小さな狼が、今牙を剥こうとしている。その相手は、余りにも強大だ。
「――――気に、いらない、んだよ……………。」
「――――?」
「いつも、いつも――――」
きっ、と顔を上げた。ぶるぶると震えるその拳は、既にかたく、かたく握り締められている。
「何で、アンタはいつもそんなに冷静でいられるんだよッ――――!!!」
拳を振り上げて、狂ったように獣人王目掛けて走り出す。獣人王は、ゆったりと身構える。
「うおおおおおおおおッ!!!」
それは、真っ直ぐに獣人王の胸の中心へと吸い込まれていく――――。
――――ズン……………。
重々しい音が、その場に響き渡った。
ケヴィンの拳は、正確に父の胸にめり込んでいた。――――そう、余りにも正確に。
「……………?」
ケヴィンは怯えたようにそれを凝視した。身体が震える。先程のような武者震いではない。明らかに、身体全体が恐怖している――――。
「………どうした……………。」
「………ア…………ああ……………。」
その時、ケヴィンは漸く気付いた。自分の攻撃が当たる事など、全く考えてなかった自分自身に。
――――何故、よけない………?
その問いは、もう喉の奥に張り付いてしまっている。
「……………。」
沈黙の後、獣人王は自分の胸に垂直に突き立つケヴィンの腕を、ゆっくりと引き剥がした。
「………これで、気は済んだか。」
「――――!!」
よろり、とケヴィンは後退った。初めて見る「父親」の表情が、其処にあった。
「そんな、カオで、見るな……………。」
涙が出そうだった。いや、見せる訳にはいかなかった。この男の前で、涙を見せるなど――――。
「――――くっ……………!!」
ケヴィンは逃げた。薄闇の中へ、彼は脱兎の如く走り出していた。
「……………。」
見送る獣人王の耳に、小さく鼻を鳴らすような声が聞こえた。
「………カール、か。」
小さな影が、微かに身じろぎする。
「………行ってやれ。今の彼奴を慰めてやれるのは、もうお前しかおらぬのだからな。」
――――きゅうん……………。
今度ははっきりと啼いた。カールは、獣人王の声に答えるかのようにケヴィンの後を追って行った。
獣人王は、息子が消えていった闇を、見詰め続けている。
暫くして、彼はそっと胸を摩った。大きな、赤黒い痣が広がっている。
「………バカ力めが。」
血の味が、していた。
ケヴィンが文句も言わずに、黙々と稽古をするようになったのは、この頃からだったという――――。
月がよく見える、『月夜の森』のはずれの小高い丘に、ひっそりと佇む墓標がある。
先頭を行く少年は、其処でふと足を止める。
いや、少年とは最早言えないかもしれない。少なくとも、その外見は。
ケヴィンは、十五歳になっていた。だが、大柄で逞しいその身体は、十八、九の青年にも見える。しかしよく見れば、その顔には未だ何処となく少年のあどけなさが見え隠れしているのが分かるだろう。
「――――ケヴィン、それは…………?」
後ろを歩いていた少女が、遠慮がちに声をかけた。
すぐにアマゾネスだと分かるその特有の戦闘服から、すらりとした白い手足が伸びている。意志の強そうな口許、そして、湖のように深く澄んだ、蒼い眼。美しく長い金髪を束ねる緑のリボンが、全体的に大人びた雰囲気の中で、ほんのりと少女らしさを漂わせている。
この少女とケヴィンはひとつしか違わないのだが、奇妙な事に、時に、ケヴィンはこの少女に、未だ見ぬ母親の面影を見る事がある。生きていたとしたら、きっと、こんな風に優しく、自分を見詰めてくれるのではないだろうか。そう思わせるような慈母の如き微笑みを、この可憐な少女は持っていた。
「………おはか………。」
あ、と少女が口を手で抑える。ケヴィンはそれを見て小さく笑った。
「墓、だって?」
ひょいともう一人の少年が後ろから顔を覗かせた。彼も、少年と呼ぶには不似合な程大人びた表情の持ち主である。
出会った時、彼は盗賊だと名乗った。一見優男風だが、その名乗りに違わぬ素早い身のこなしと、常に冷静な判断力で、魔物達を翻弄してきた。砂漠で育った者特有の小麦色の肌と、無駄のない筋肉。涼やかな目元。そして、元々が美少年なだけに、垂らしてしまうとまるで少女のように見せてしまう、柔らかな長い紫紺の髪を持っていた。ケヴィンが以前思わず、キレイだな、と言うと、彼は照れ臭そうに笑った。
彼は盗賊にしては、屈託がなかった。よく喋り、よく笑う。だが、ケヴィンは知っている。その人懐っこい笑みの下に彼が時折覗かせる、幾重の層にも包まれた刃を。それは、研ぎ澄まされた抜き身を目にも止まらぬ速さで一閃させるのに似ていた。それを偶然垣間見てしまった時、不思議にも、ケヴィンはふと安堵感にも似た感覚を覚えたのだった。――――それは、闇の世界で生きてきた者同士の、所謂共感めいたものだったのかもしれない。
「………どういう、人なんだ?」
聞かれて、ケヴィンは苦笑した。
「よく、分からない………。」
「……………。」
父親であり、母親であり、友人であり、師であり、――――恋人のようでもあった。
「でも、大好きなひとだったんだ。二人にも、会わせたかった。」
ほのぼのと笑うと、ケヴィンは墓標の前に片膝をついた。そっと土埃を払ってやる。
少年が、そっと少女に目配せする。
――――暫く、一人にしておいてやろう。
――――ええ、そうね。
少女も軽く頷いてみせる。
今、ケヴィンはこの二人と、旅をしている。「仲間」達があれ程嫌っていた、人間だ。
一緒に旅をする事になったのは成り行きだったとはいえ、全く不安がないでもなかった。だが、その不安は、初めて彼が二人の前で人狼化した時、掻き消すようになくなった。人狼化したケヴィンを見た時、盗賊の少年は、流石に少し驚いたようだったが、口笛を鳴らして笑って言ったものだった。
「イカしてるぜ?ケヴィン。」
アマゾネスの少女は、
「夜は、暖かそうでいいですね。」
と言った。ケヴィンがきょとんとしていると、やがて少女は顔を赤くした。それでケヴィンは、彼女が慣れない冗談を言ったのだという事に気付いた。盗賊の少年は、腹を抱えて笑っていた。
――――あの時、オイラ、拍子抜けした………。
ふとその時の事を思い出して、淡い笑みを浮かべる。
――――お前を愛してくれるひと達が、必ず現れる。
スメリアの言葉が自然と思い出された。
――――そう、かな。本当に……………。
今では、ケヴィンにとって、二人は掛け替えのない戦友である。――――今なら分かるような気がする。確かに、時代は変わろうとしている――――いや、自分達が変えようとしているのかもしれない。
空に浮かぶあの月だけは、あの時と変わらない。
あの日のように月を仰ぐと、青白いその光に包まれて、スメリアが微笑したような気がした。
彼は穏やかに問い掛けている。
――――なあ、ケヴィン。人は、もっと自由になれる………。――――そうは思わないか?
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