「Persona」





 その日、母が死んだ。
 少女はその小さな手で只握り締めているしかなかった。次第に温もりを失ってゆく、母の手を。
 ――――誰か、誰か助けて。
 悲痛な叫び。首を振る大人達。少女は己の無力を噛み締めた。
 今際の際に母が囁いた言葉を、少女は生涯忘れる事はなかった。母は、言った。
 ――――リース………この子を、お願いね。
 確かに、母はそう言ったのだ。今にも命の灯火が消えようとしている瞬間、母の脳裏を最も占めていたもの。それは、視力を失っている夫の事でも、おそらく自分の血を最も色濃く受け継いでいるであろう幼い娘の事でもなく、ましてやローラントという国の行く末でもなかった。
 今この世に生を受けたばかりの赤ん坊。あたかも母の命を受け継ぐかのように生まれた赤ん坊。少女の弟であり、後々は父王の後を継いで玉座に座るべき男の子――――エリオット、と名付けられる事となるその赤子は、冷たくなった母の傍らで、火がついたように、ただただ泣き叫んでいた。
 ――――王子様はきっと、王妃様のお生まれ代わりでございますよ。
 誰かが涙を拭きつつそう言った刹那、少女の身を駆け抜けたものは喜悦か、憤怒か、憐憫か、それとも――――。
 その日――――風を身に纏い、愛らしい頬を濡らして少女は泣いた。声を限りに泣き叫んだ。
 王家の姫君として何不自由なく育ち、父母の愛情を受け、時には甘える事も覚え、精一杯それを独占してきた昨日までの自分。あたかもそれを、涙と共に流し出してしまうかのように。さながらそれは――――少女の日々との、訣別。
 この時、少女は――――彼女は、決意したのだ。大人になる事を。母親になる事を。
 ――――許さない、から。
 紅く濡れた眼は遥かに虚空を睨み付ける。
 ――――貴方は母様の命を吸ったのだから。勝手にどうにかなったら許さないから。だから――――
 だから、私はあの子を守る。この先何があろうとも。
 しかし、彼女はまだ気付いていない。未だ、自分が幼い「少女」であるという事実に。



 一枚の葉から零れ落ちた雨の名残が頬に落ちて、少女はうっすらと目を開けた。湖の如く深く、蒼く澄んだ眼が虚ろに周囲を見渡す。普段は聡明な光を宿すその瞳が、今は不安に怯える只の少女のそれと変わりない。
 ――――生きて、いる……………。
 のろのろと上半身を起こし、前髪をかきあげて、少女は暫し記憶を遡ってみる。まず、自分は誰なのか?――――私の名は、リース。ローラントの………王女。
 どうやら頭は打ってないらしい。リースは、僅かに安堵を覚えた。次に、何故自分は倒れていたのか?――――その理由を思い出した時、彼女の胸は情けなさで満たされていた。
 魔物との戦闘中に、足を踏み外して崖から落ちたのだ。足場の悪い場所での戦闘は慣れていた筈なのだが、運の悪い事に、連日の雨で足元が想像以上にぬかるんでいた。ローラントの誇りあるアマゾネス軍・軍団長という地位に就いていながら、このような初歩的なミスを犯すとは――――旅の道連れが二人も出来た事で気が弛んでいたのか。口惜しさに歯噛みする。
 状況を理解した所で、リースは立ち上がろうとした。何時までもこうして呆けている訳にもいかない。その瞬間。
 「――――痛ッ!!」
 右足にずくん、と痛みが走った。そのままうずくまってしまう。がくがくする足を抑えて、リースはその痛みに呻いた。どうやら落下の拍子に足を挫いてしまったようだ。
 ――――こんな時に………。
 舌打ちしたい気分になってくる。リースは素早く辺りを見渡した。すると、不幸中の幸いとでも言うべきか、彼女愛用の槍も近くに投げ出されているのが目に入った。何とかそれを拾うと、杖代わりにして彼女は漸くふらりと立ち上がった。
 ――――早く二人と合流しないと………きっと今頃………。
 其処でリースははっとして、次の瞬間その可憐な顔立ちには似合わぬ自嘲的な笑みを浮かべた。
 ――――「心配している」?………ふふ、何を都合のいい事考えているの?私は。
 今まで誰が私の心配をしてくれた?母も、父も、その死の直前には何と言っていた?
 ――――リース………この子を、お願いね。
 ――――リース、エリオットを………頼んだよ。
 そうだ。私は何時だって頼りにされてきた。そして期待に応えてきた。私はあの子の母親になったのだから。「姫様は聡明な方」だから。「姫様はしっかり者」だから。心配される必要も、なかったのだから。
 何時しか、雨が再び降り始めていた。心をも蝕むかの如く、それは静かに少女の肢体を濡らす。
 このままだと完全に体力が奪われてしまう。――――リースはふらりと一歩を踏み出した。



 程無くして小さな洞穴を発見したリースは、どさりと腰をおろした。此処ならば、少なくとも雨風は凌げる――――そう思って吐息を吐いた刹那、彼女の聴覚が無数の羽音を捉えた。僅かに漂ってくる異臭。明らかに魔物の持つそれである。このような状況でも正常に反応してくれる我が身の感覚に、思わず苦笑を禁じ得ない。
 果して現れたのは小規模なバットムの群れだった。キィ、キィ、と耳障りな音を発しながら、ジグザグに飛び回り、牙を剥く。血と汗の臭いに釣られてやって来たのか。
 ――――見くびられたものね………私も。
 だが彼等の判断は正しいのかもしれない。何時もならこのような低級の魔物は彼女の敵ではない。しかし、今はまるで状況が違う。足が動かないのでは、戦いも侭ならない。リースは咄嗟に身に付けていた道具袋を探り、一枚の銀色に光る硬貨を取り出した。魔法系道具は使用者の魔力を媒介にその効果を発動する。リースの魔力ではそれ程の効果は期待出来ないが、この程度の魔物ならば、護身用にはなる。
 「滅せよ――――聖なる光の許に!!」
 リースはそれをバットムの群れの中心に渾身の力を込めて投げつけた。刹那、それは眩いばかりの光を帯び、そしてその白い光が無数の球形を作り出した。光の球はさっと広がり、次の瞬間には光の帯となって鎖のように彼等を締め付ける。やがて洞穴は元の静けさを取り戻した。断末魔の声と共に、禍々しき者達はその存在を停止した。
 リースは溜息を吐くと、肩を覆う金色の髪を無造作に後ろへと払った。その時、彼女は漸く気付いたのである。自分の背中に漂う「違和感」に。
 リボンが、ない。
 少女は愕然として身を震わせた。あの日――――ナバールがローラントを奇襲した、あの悪夢のような日。ともすれば挫けそうになる自分を奮い立たせるために、誓いと共に結んだ緑のリボン。母の形見のリボン。――――それが、ない。
 少女はぺたんと岩肌に崩れ折れた。
 ――――駄目だ。
 そう思った瞬間、どっと涙が溢れ出た。



 あれは何時の事だったか。――――そう、エリオットが五歳、リースは十四の歳だった。
 リースは、初めて単独でバストゥーク山の見回りを行う事となった。この頃、リースは既に軍団長に任ぜられる程の実力の持ち主だったのだから、至極当然な任務であった。
 だがエリオットは、幼心にそれが心配で堪らなかったのか、或いは母代わりの姉と離れる事が耐え難かったのか、ついて行くと言い張った。勿論リースはそれを宥めた。危険だから、と何度も説明し、説得に努めた。が、エリオットは強硬な態度を崩さなかった。リースの服を握り締め、放そうとしなかった。リースは困り果て、次にじわじわと怒りが込み上げてきた。
 貴方は何時も甘えてばかりで。私がどんなに苦労しているか、知ろうともしないで。私がどんなに自分を抑えているか、知りもしないで。私がどんなに――――
 その時、リースは弟の手をぱん!と払い除け、叫んでいた。
 「――――なら、勝手になさい!!」
 くるりと背を向け、すたすたと歩き出す。エリオットは泣き出した。泣きながら、よろよろと、それでもついて来た。すぐ諦めるだろうと思った。だが――――頑固な性格は、姉弟に共通するものであったらしい。歯を食いしばりながら、必死でついて来る。此処まで来たら、エリオットを置いてゆく訳にもいかない。リースは自然と歩を緩めていた。甘い。自分で嫌になるくらい、私は、甘い。
 そんな時だった。ニードルバードの群れと出会ってしまったのは。リースは咄嗟に弟を後ろに庇った。
 「エリオット!!隠れていなさい!!」
 しかし、エリオットはその場から動かなかった。否、動けなかったのだ。初めて目にする魔物に気圧され、すっかり足が竦んでしまっている。
 「エリオット!?」
 リースは歯噛みすると、エリオットを横抱きにして高く跳躍した。次の瞬間、その場にニードルバードが乱射した鋭い羽が突き刺さる。普段ならばニードルバード如きに手こずる自分ではない。だが如何せん、今の状況は不利だ。他者を守りながらの戦い――――そんなものに自分はまだ慣れてはいない。アマゾネス軍は、戦いの猛者ばかりなのだから。多勢に無勢。そして、勇気と無謀を履き違える程、少女は愚かではない。
 ――――止むを得ない――――。
 逃げようとしたその時。腕に鋭い痛みを感じてリースは一瞬動きを止めた。左腕に、避け切れなかった羽が深々と突き刺さっている。しかし、利き腕でなかったのは幸いだ。
 「くっ……………!」
 リースはそれを引き抜いて放り捨てた。鮮血が飛び散る。続いて退路を断つように現れた別のニードルバードが不気味に羽を広げた。
 ――――間に合わな………!!
 咄嗟にエリオットを庇おうとした時、彼女は信じられないものを見た。エリオットが、ニードルバード目掛けて石を投げつけている。小さな手を傷だらけにして。涙を溜めた瞳に憎しみを漲らせて。
 「ねえさまに………、ねえさまに、さわるなぁぁッ!!」
 「エリオット――――!!」
 リースは、エリオットの思わぬ支援により一瞬隙を見せたニードルバードを一気に薙ぎ払う。そのまま再びエリオットを抱えて走り出した。
 何処をどう走ったのかは分からない。無我夢中で、気付いた時、二人は大樹の洞の中に並んで座り込んでいた。息が、上がっていた。
 「エリオット………、どうして………?あんな無茶を………。」
 エリオットは、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を更に歪めた。
 「ねえさま………、イタくない?どこも、イタくない?」
 「――――!………エリオッ……………ト………。」
 リースはそっとエリオットに頬を寄せた。二人の涙が、ひとつに溶け合う。
 「ねえ………さま………。なぜ、なくの?まだ、どこかイタいの?」
 「馬鹿ね………痛いに、決まってるでしょ………。姉様だって、不死身………じゃ、ないんだから………。」
 痛いのは身体ではない。心だ。
 分かっていた。この子がどんなに親の温もりを欲していたかを。
 少女は、弟をぎゅっと抱き締めた。



 城に帰って来た時、帰りが遅い二人を心配して、父王を始め、城の主な者達が迎えに出ていた。
 「リース………エリオット……………か?」
 父のその声を聞いた時、その姿を目にした時、リースは緊張の糸が解けるのを感じた。途端に目頭が熱くなってくる。そのまま父の胸へと駆け出して行きたい衝動が火花の如くその身を駆け抜ける。
 「――――父さ――――」
 「とうさまぁぁぁぁぁ!!!」
 父に駆け寄ろうとしたリースは、弟の声にぴくん、と動きを止めた。
 「うわぁあああああん!!!とうさまぁぁぁ!!!!!」
 父の胸に飛び込んで行く弟を、我に返った蒼い澄んだ眼が、只じっと見詰めていた。
 分かっている。あの子がどんなに親の温もりを欲していたかを。
 でも。
 この時リースに駆け寄ろうとした乳母のアルマは、ぎょっとして足を止めた。
 王女の表情からは、何も感じられなかった。何も。無表情なその瞳が、只静かに父と弟を見詰めていた。そう、あたかも蝋人形の如く。



 昔の夢を、見た。
 ――――まだ、泣いていたのね。私は。
 少女は腫れぼったくなったその眼を擦り、冷たい岩肌に頬を寄せた。
 ――――憎んでしまえたら、いっそ、楽だったのにね。
 小さく笑う。だが、その笑みをせせら笑うかのように、頭の中で別の声が響く。紛れもない、自分自身の声で。
 ――――あら?今の貴女が、そうではないとでもいうの?
 ――――どういう事?貴女は誰なの?
 ――――分かってるくせに。私は貴女。貴女は、私。
 もう一人のリースは、憐れむような視線を投げかける。
 ――――まだ分からない?教えてあげましょうか。貴女が胸の内に囲っている化け物の名前を。
 ――――嫌……………止めて。
 ――――ふ、ふ、ふ。それはね………………。
 ――――止めて、止めて。聞きたくないッ!!
 耳を抑えるその両手を、彼女はいとも簡単に退けてしまう。彼女は両手でリースの頬を包み、妖艶な笑みを浮かべた。その唇が、耳許で囁く。歌うように。囀るように。
 ――――「嫉妬」。
 ――――いやあああああッ!!!
 誰か、誰か助けて。此処から連れ出して。私を一人にしないで。ああ、誰か――――
 「リースッ!!」
 恐慌状態に陥りかけたその時、何者かが乱暴に少女の腕を掴んだ。



 「リース!!大丈夫か!!しっかりするんだ、リースッ!!!」
 両肩を激しく揺すぶられ、リースは目覚めた。その瞳に飛び込んで来たのは、自分を心配げに見つめる鶯色の眼。その優しい顔立ちとは裏腹に、強い意思を湛えた瞳。何者をも柔軟に受け入れ、かと思うと時に何者をも寄せ付けぬ程に鋭く冷たく煌めくその瞳。――――知っている。只一人。こんな眼をするひとを、私は確かに知っている。
 「ホーク、アイ……………。」
 リースはか細い声でそのひとの名を呼んだ。ホークアイは安堵の息を漏らす。
 「――――良かった。大分うなされていたから。」
 リースの手を取り、優しく微笑む。
 「迎えに来たよ、姫さん。」
 その笑顔を見た時、リースの中で何かが弾け飛んだ。それは忽ち感情の波となって迸り、気付いた時には実に子供染みた台詞となって彼女の口から溢れ出ていた。
 「………遅………………い………………。」
 「――――?」
 「――――来るのが……来るのが、遅すぎますっ!!何時まで…待たせるんですか……………!」
 リースは両手で顔を覆った。いい加減自分でも呆れるくらい、涙が溢れ出す。男の前で無防備に涙を晒すなど、一国の王女として誉められた事ではない。まして目の前にいるこの少年は、操られていたとはいえローラントを破滅に追い込んだ国――――ナバールの、人間なのだ。ある意味、最も弱みを晒してはならない人間なのである。だが、そんな打算も吹き飛んでしまうくらい、この少年の笑顔は――――最早少女にとって、媚薬に等しくなっていた。
 ホークアイは泣きじゃくる少女を呆気に取られたように眺めていたが、ふと真摯な表情になって呟く。
 「どうした………?らしくないな。」
 その言葉にかっと血が上り、リースは激昂した。
 「私だって、私だって……、泣く事くらいあるんです!!頭はくらくらするし、足は挫いて冗談みたいに腫れ上がってるし、雨は降って来るし、此処に来たら来たで、バットムに襲われるし、リボンは失くすし、誰もっ…誰も来てくれないし、見たくもない夢は見るし……もう泣くしかないじゃないですかッ!!――――『らしくない』?悪いですか?それじゃどういうのが私らしいんですか!?言っておきますけど、私は貴方が思ってる程立派な人間じゃないんです!自分で決めたくせに…自分で母親になるって決めたくせに、未だに甘えてる、情けない人間なんです!そればかりか……私は嫉妬している…憎む事も出来なくて!!どっち着かずで!!……そうですよね!?こんな私の事なんか誰も気にかけてくれる筈は……ひょっとしたらあの時も――――」
 あの時も。炎に包まれた城。邪悪な気配。焦燥感。消えかかる父の命。折り重なる死体。風の悲鳴。そして、後方から叫ぶ弟の声。私は――――私は本当に、「気付かなかった」のか?
 ――――リース………この子を、お願いね。
 ――――リース、エリオットを………、頼んだよ。
 軛のように、胸に打ち込まれた言葉。あの時も、あの時も。聞きたかったのは、私が望んでいたのは、そんな言葉じゃなかったのに。
 「私は、私は――――」
 その時、半ば強引に引き寄せられて、リースはホークアイの胸へと倒れ込んだ。背中に回された腕が、痛いくらいに抱き締める。そして彼は、そのままそっとリースの左の耳に口づけた。
 「………っ!!」
 ぴくん、と少女の肢体が震えた。
 「リース、俺は――――」
 少年は囁く。ゆっくりと、一語一語を確かめるように。
 少女はそれを、只呆然と聞いていた。魔法のように心地好く胸に染み入る、その言葉を。ずっと待ち望んでいたのかもしれない、その言葉を。
 「――――落ち着いた?」
 ホークアイはそっと身を離すと、リースの顔を悪戯っぽい表情で覗き込んだ。
 「なあ、リース………。俺が今、何考えてるか分かるかい?」
 「………。」
 無言で首を横に振る。ホークアイは、言った。
 「君のような王族もいるんだなってさ。…俺は、嬉しいんだよ。リースが、俺の前で涙を見せてくれたことがね。」
 リースはまじまじとホークアイを見た。信じられない、とでも言いたげな表情だった。やがてその唇に、薄く笑いが滲む。挑むような視線を向けて、彼女は呟いた。
 「――――残酷なひとですね、貴方は。」
 私の想いを知っていてそんな台詞が出て来るのなら尚更。
 「………そうかも、しれないな。」
 ホークアイも、不敵な笑みを返す。しかし、それも一瞬の事だった。彼はすぐに少年の顔に戻ってみせる。そしてにこりと笑った。
 「さぁて、お立会い。姫さん、これなーんだ?」
 ホークアイが懐から取り出したそれを見た瞬間、リースの目は驚きで見開かれた。それは、リボン。まさしく、失くしたと思っていた、母の形見のリボンだったのだ。
 「あ………、あ……………。」
 「拾ったんだ。これのお陰だぜ?君を見つける事が出来たの。――――お袋さんに、感謝しなきゃな?」
 ホークアイはリボンをリースの手に握らせた。リースはしっかりとそれを胸に掻き抱く。
 ――――良かった………本当に、良かった………。
 涙が一筋、リボンに滲んだ。
 「さて、と。その足も早いとこ診せなきゃならないし、ケヴィンも心配してるから、そろそろ帰らないと――――ん?」
 ホークアイが言葉を止めたのは、リースが再びその胸に凭れてきたからであった。――――安らかな寝顔。ホークアイは、複雑な表情でそれを見守った。
 ――――やれやれ。俺だって………男だぜ?
 彼はリースの背中に手を回すと、器用にリボンをその美しい金髪に結わえてやった。そうしておいて、じっとリースの寝顔を見詰めた。何故か彼の口許に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 ――――参ったな。
 ホークアイは、リースの額に軽く口づけた。
 ――――君のこと……………本気になりそうだよ、リース。



 次に目覚めた時、リースはホークアイの背で揺られていた。
 「――――お目覚めかい?姫さん。」
 背中に微妙な気配を感じたホークアイがすかさず声をかけてくる。
 もう一人の旅の道連れ――――ケヴィンとの合流地点に向かっているのだとホークアイは話した。
 既に雨は止んでいた。空は、次第に闇色へと変化しつつある。リースを背負っているにもかかわらず、水溜りを器用に避けながら、ホークアイは軽やかに歩を進める。そんなに力があるようにも見えないのに――――と、リースは、内心舌を巻いた。
 「あの……御免なさい。重い、でしょう?」
 ついそんな台詞が口をついて出ていた。するとホークアイはおどけたように答えた。
 「んー、重い重い。手が痺れてもう限界。」
 「………降ろして下さい。」
 「おおっと、冗談だよ、冗談。」
 はは、と彼は笑う。が、ふと、その顔が真顔になった。歩く速度を変えぬまま、ホークアイは静かに語りかけた。――――なあ、やめようぜ、「御免なさい」とかさ。彼はそう切り出した。
 「俺は――――思うよ。子供が親を求めるのって、当たり前の事だし、姫さんみたく小さい時に親に死に別れたんなら、それは尚更だって。俺と違って、お袋さんが死ぬとこ、見てるんだもんな――――だから、自分を責めるのは間違ってる。……姫さんは……何でも一人で抱えすぎなんだ。もっとラクに生きないと、『こころ』にガタが来ちまう。――――せめて、俺の……俺達の前で、無理しないで欲しい。他人行儀はなしにして欲しい。誰も心配してくれないなんて、悲しいことは考えないで欲しい……俺もそうだけど、ケヴィンだってきっと悲しむ。俺達は――――その、仲間なんだからさ。」
 「――――仲間………。」
 「そっ。――――あ、見えてきた見えてきた。」
 百メートル程先で吊り橋が見えた。其処で頬杖をついてぼんやりしている人影が一つ。
 「お――――――い。ケヴィ――――――――ン!!!」
 ホークアイがその人影に向かってぶんぶんと手を振る。人影はぴくっと身を震わせ、次にこちらを見た。暫くの間それは呆けたように突っ立っていたが、やがて弾かれたようにこちらへと全力疾走して来た。
 「………あれを見ても、まだ自分はつまらない人間だって、思えるかい?」
 顎をしゃくって、ホークアイはにやりと笑う。
 「リース、リース――――――!!」
 ケヴィンは漸く辿り着くと、がば、とホークアイごとリースに抱きついた。
 「リース………、リース………!!良かった、無事で、良かった!!」
 「ぅわっ……馬鹿ッ、こら!!!」
 「――――ケヴィン……………。」
 ――――ケヴィンだって、きっと悲しむ。
 ずきん、と胸が疼いた。
 子供のようにしがみついてくるケヴィンをリースはきゅっと抱き締めた。
 ――――ありがとう………。
 「だ――――っっ、もういい加減にしろッ!!」
 二人に挟まれて苦しげにしていたホークアイが、ぶん、と身体を振ってケヴィンを引き剥がす。
 「生憎俺は、野郎に抱きつかれる趣味は無いんだよっ!!」
 「……何で?オイラ、ホークのことも大好きだぞ。」
 「………お前にはそのうち、正しい性教育ってヤツを叩き込む必要があるな………。」
 リースは思わずくすくすと笑った。久しぶりに、心の底から笑ったような気がした。
 「お、漸く笑ったね。そうそう、女の子は笑ってるのが一番だよ。」
 ホークアイがそんなリースを見て満足気に言った。ケヴィンはといえば、二人を交互にきょときょとと見回している。やがて彼は不思議そうに言った。
 「リース、ホークも………何かあったのか?」
 「――――え!?」
 どきりとして、リースは胸を抑える。
 「――――ど、どうして?」
 「んー、だってさ、何か――――」
 ケヴィンは無邪気に微笑んだ。その野生の瞳は、些細な変化すら見落とす事は無いのだろうか。
 「何か、よく分からないけど、――――いい顔してる。リースも、ホークも。」
 リースは思わず、そっと左の耳に触れた。今更ながら「その場面」を思い出して、かあっと、顔が火照ってくるのが分かった。ホークアイをちらりと見ると、彼も居心地が悪そうに、僅かに頬を染めて、指で顔を擦っている。やがて彼は再びリースを背負ってずんずんと歩き出した。頬に差した赤を、振り払うように。
 「………行くぞ。こんなとこで油売ってる暇無いんだからな。」
 ケヴィンは慌ててついて来る。
 「ホーク、内緒はズルイ。」
 「ケヴィンには刺激が強すぎるから、又今度な。」
 「!!――――ホークアイッ!!そういう言い方は止めて下さいッ!!!」
 夜の帳が下りてくる。ひとつ、ふたつと星が瞬き始め、リースは思う。――――ああ、明日はきっと晴れる。そんな中を、二人の少年は軽口を叩きながらも仲良く肩を並べて歩く。
 本当は、思ってはいけない事なのかもしれない。何故なら、あんな事がなければ、三人は出会わなかった筈だから。その存在を知る事もなく、生きていく筈だったのだから。それでも、軽い罪悪感と共に、少女はその思いを噛み締めずにはいられなかった。――――いいよね、マナの女神様。これくらいなら。許してもらえるよね。
 貴方達と出会えて、良かった。
 そんな少女の気持ちに応えるように、涙の跡を慰めるように――――夜の風は優しく頬を撫でる。その時、少女の背中で、緑のリボンが涼やかに揺れた。





FIN.


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