「ヤクソク」





 「…今日は、お一人ですか?」
 夜分に訪れたにも関わらず、彼女は柔らかにそう言っただけで、「どうぞ」と彼を招き入れた。アッサリ納得されるのも気後れがするもので――――妙な話だが、折角招き入れられつつも彼は「不用心じゃないのか」と訝しんでしまう。
 「…あんた、もし俺が押し込み強盗だったりしたらどうするんだ?」
 実際強盗までとは行かなくとも、余り大きな声では言えないような事もやって来た彼である。あの三人と――――その発端や経緯はともかく――――チームを組んで久しいとはいえ、まだ他人に心から信頼される事に慣れた訳ではない。そんな少年の「気遣い」を知ってか知らずか、少女はまたしても呆気ないくらいにアッサリとこう答えたものだった。
 「大丈夫です。此処にお金になるようなものはありませんから…。」
 「……いや、畑があるだろ…畑が……。」
 店頭では滅多にお目にかかる事の出来ないベリー類が豊富に獲れるのだ。確かに生半可な実力と運では、この「秘境」を発見する事は至極困難であるが、それでも万一発見されてしまったとなれば、渡り鳥にとってはまさに宝庫、金のなる木である。以前その点を「うっかり」クレイボーンのパイクに零してしまった所、「そんならずっとキミがそのコの傍にいて、護ってあげれば?」とへらへら笑われたのでとりあえずグーで殴っておいた。「だって、キミがリーダーさん以外の女の子の話するのって珍しいからさ…」と彼は言い訳したが、それはともかく――――そこで初めて彼女は「あ」と頬に左手をあてて小さく首を傾げる仕種をしたのだった。しかしすぐに「でも」と無邪気に微笑む。
 「ジェットさんは、悪い人ではありませんから…。」
 「………。」
 うんざりだぜ。何時の頃からか口癖になってしまったその台詞を呟きつつ、少年は手近な椅子を引き寄せてどかりと腰を下ろした。そんなジェットを見て少女はくすりと笑い、「今、お茶を淹れますね」と言った。





 ハーブティーの準備をしている少女の背中をぼんやり眺めつつ、ジェットは頬杖をついた。
 ――――終わった。
 此処へ来て漸く人心地がついたような気がした。何しろ多くの事があり過ぎた。今頃バスカーでは宴が――――ささやかなものではあるが――――まだ続いている事だろう。他人の好意の只中にいるのが苦痛な訳ではない。ウェルナーと離れてより誰とも組まず、独りで旅していた頃よりも拒否反応は薄い。只、自分にはあの場所がまだ眩しすぎる気がした。慣れてしまう事に、まだ漠然と怖れを感じていた。本当に、己は「此処に」いていいのだろうか?――――抜け出して来たのは、単にあそこにいてはゆっくり思案に耽る事も出来ない、という理由もあるのだが。
 考えたい事。
 差し当たってはこの身の処し方である。
 「どうぞ。」
 ジェットの目の前、控えめな声と共にカップが置かれた。爽やかな香りが鼻腔を擽る。
 「…ああ。」
 言って、少し啜った。仄かな甘さが口中に広がる。清々しくて、優しい味だった。小さなテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした少女が「如何ですか」と訊ねる。「美味い」と答えるのが何故か面映くて、少年は只ついと目を逸らして「悪くはない」と言っただけだった。それでも彼女は安堵した微笑みを見せた。
 もう一口啜った時、少女が遠慮がちに頭を垂れた。
 「あの……済みません。」
 「……?」
 何が「済みません」なのかサッパリ分からず、少年は訝しげに彼女を見た。
 「折角来て貰ったのに、今はまだ収穫の時期ではなくて――――」
 ああ、そういう事か。彼は苦笑した。
 「今日はベリーを貰いに来た訳じゃねぇよ。」
 「…えっ。」
 少女は、自分の勘違いが恥ずかしいのか、顔を赤くして目をぱちくりさせている。
 「あ、の…では、」
 「……理由がなきゃあんたも困るよな。」
 「え…?」
 「安心しろ。此処へ来た理由は、ちゃんとあるぜ。」
 ジェットはカップを置いて言った。
 「――――花だ。」





 「…ある花の、名前を知りたい。…あんたなら、分かるだろ。」
 ――――そう、此処へ来た一番の目的は、それだった。
 ユグドラシルにて、彼は己の出自を知った。
 この星を荒廃から救う為に組織された七人委員会、その科学者達が「星を一個の生命体と見立て、治療を試みる」という計画の下、その実験段階において「星の雛型」として造られた生命――――ファルガイア・サンプル。それが、ジェットという「ホムンクルス」だった。
 全く衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。だが、あの時の自分は思いの外冷静であったと彼は思い返す。我を忘れそうになったのは、「あの男」に愚弄された時――――その時だけだったと思う。
 心の奥で、彼は確かに「納得」していたのだ。
 自分は、造られた。ヒトでは、なかった。
 しっくり来る回答だった。ウェルナーと出会う以前の記憶が――――「想い出」が綺麗サッパリ存在しない理由として、これ以上のものはないと思った。想い出など、最初から「無かった」のだから。「何らかの理由で失った」と考えるよりも遥かに分かり易く、手っ取り早い。そう考える自分は確かに「普通ではない」とさえ分析出来る。――――それでも。
 自分が本当にヒトでないなら――――ファルガイア・サンプルであるなら、それを立証する、確たる事象が少しでも欲しかった。それさえあれば全て吹っ切れるような気がしていた。例えそれが、気休め程度のものでも。
 「『外』で…お花を、見たのですか?」
 驚きで少女の目が見開かれる。無理はない。ファルガイアのこの荒廃し切った大地は、植物にとって非常に過酷な環境だと言わざるを得ない。だからこそ、この少女の畑が生み出すベリー類は、稀少品なのだ。
 「…別に信じる必要は、ねぇけどよ。」
 尤も、正確に言うなら彼は意識下に「見た」だけであって、その花が実際その場に「存在した」訳ではない。彼が見たのは十年以上前のファルガイア、その残滓に過ぎない。彼は、その花の名を知りたかった。それが本当に存在した花なのかどうか、知りたかった。……しかしそのような事、彼女にどう説明すれば良いのか。語る事が不得手な少年は、敢えて言葉を濁す事で詳細を誤魔化すしかなかった。
 少女はほんの少しの間だが――――逡巡した。それは、彼の言を信じないからではない。その理由は、彼女が如何にも古めかしい一冊の本をハンモックの下にある木箱から慎重に取り出して来た時に分かった。少女は表紙を軽く払うと、黙ってそれを少年の前に置いた。
 埃だらけの表紙を見た。――――ジェットに、その文字は「読めなかった」。
 ――――古代文字。
 読めはしないが、彼もそれなりの経験を積んだ渡り鳥である以上、それが何であるか、くらいは分かる。古代文字――――それは、この星の先住者である亜人種・エルゥがヒトの文化に触れる前に使っていたとされる文字。今はもう、失われた筈の文字である。この文字を解読出来る者は大きく分けて三種類。言語学者か考古学者の類、バスカーの神官、若しくは――――
 静かな驚きが水の波紋のように広がってゆく。否、それは確信にも似たものだ。彼は探るような瞳を向けた。何処か寂しげな、儚い微笑みが――――しかし逸らさずにそれを受け止めた。瞳が問い掛けて来る。本当はもう、知っているのではないですか――――
 全く想像していなかった訳ではない。寧ろ「やはり」と確信を抱いた。だが、少女の問いには答えない。来し方を根掘り葉掘り訊かれる事の煩わしさを、彼は良く知っている。故に、訊かない。――――訊けない。今は、まだ。
 少女は本をジェットの前から自分の前へ、すっと引き寄せた。
 「この星に生息する――――いえ、『していた』子達の研究書、というか…図鑑のようなものです。」
 言いながら、手袋をはめたままで器用にページを捲っていく。
 「ジェットさん。その子の姿を覚えていますか――――?」





 それから、彼は少女に問われるままに答えた。花弁、葉、茎、萼、蕊。その大きさ、色、形。――――ジェットは、自分でも驚く程すらすらと答えていた。もし第三者がこの場にいたならば、よくもそんなに細かい所まで、とその観察力と記憶力に脱帽した事であろう。しかし、この場合は観察力だの記憶力だのという言葉は、当てはまらない。彼は答えながらその思いを強くしていた。――――これは、「知っていた」というだけの事だ。「覚えていた」のではない。星の想い出というよりは、言わば星の本能。
 「……近いのは、これです。」
 やがて少女がとあるページを開いてジェットの方へと向けた。ページは縦に大きく三分割されており、その左上部に花のスケッチがあった。それは一見写真と見紛う程詳細なもので、彼は目を見張った。そして、スケッチの下からページの右下部まで、びっしりと細かな説明書きがされていた。――――勿論、彼には読めない。
 「…………。」
 少女は黙って少年の答えを待っていた。彼もそのスケッチを凝視していた。心持ち首を傾げて……やがて、少年は呟いた。
 「似ている……が、少し、違うような気もするな……。」
 「それなら――――答えは、一つしかありません。」
 少女はパタンと本を閉じた。
 「ジェットさんの見たお花には、特に名前はないのです。」
 「――――どういう事だ?」
 語気を強くした少年に少し気圧されながらも、少女はしっかりと答えた。
 「その子は――――皆さんが『雑草』と呼ぶものに近い種類なのです。ありふれ過ぎて、名前を付けて貰えなかったのです。あんなに綺麗なのに――――可哀想ですよね。でも。」
 私はその子の事、大好きなのです。少女はそう続けた。
 「群生しなくても、独りでもしっかり根を張って生きて行ける……とっても、強い子なのです。環境を整えて、苗か…種だけでも手に入れば、増やす事も出来るのですが……。」
 「……独りで、しっかり根を張って……か。まるで。」
 まるで、あんたみたいだな。思わずそう言いかけて、慌てて口を噤む。そんなつもりは毛頭ないが、雑草と同列に見ているのか、などと要らぬ勘違いをされる危険は冒したくない。
 ともあれ。ジェットは小さく息を吐いた。
 確かに俺は、嘗てのファルガイアの想い出を持っていた。見た事もなかった筈の花の記憶を持っていた――――
 つまり。
 何故か喉の奥から笑いが込み上げて来た。無性に可笑しくて、くつくつと笑い声が漏れた。



 ――――やはり、俺はヤツらの「お人形」だった訳だな。



 微かな感傷を――――それと意識する前に、振り払うようにジェットは立ち上がった。
 「……邪魔したな。そろそろ、行く。」
 「――――え。」
 少女も慌てて立ち上がった。
 「あの……もう、いいのですか?」
 「ああ、もういい。知りたかった事も分かったからな。せいせいした。」
 「………本当に……?」
 扉へ向かいかけて、ジェットはぴたりと立ち止まった。それは、少女の言葉に、哀切な響きを感じ取ったからだ。怪訝な表情で振り返る。
 それなら、どうして。少女は更に言い募った。消え入りそうな声で。
 「どうして、そんなに、寂しそうなのですか……?」





 「……寂しそう?俺が?」
 「はい。寂しそうです。今日のジェットさんは…今までで一番、哀しそうです。」
 「――――なっ…。」
 かっと頬が熱くなる。辛そうに瞳を伏せた少女を、少年は昏い眼で、挑むように見詰めた。知らず語気が荒くなる。
 「そりゃ、あんたの思い込みだろうが。…いい加減な事、言ってんじゃねぇよ。」
 「…いい加減じゃ……ありません。」
 「大した自信だな。俺の事なんざ、何も知らないだろうが。」
 噛み付くように言葉を浴びせながら、それが胸にぐさりと自分自身に突き刺さって来る。何も知らないのは――――それこそ、「お互い様」だというのに。
 「――――いいえ、知っています。貴方は誰よりも純粋で、優しいひとです。それは確かな事です……。」
 「………お前、いい加減に――――!」
 「過去に何があったのか、貴方に何があったのか、――――そんな事、確かに私には分かりません。聞き出すつもりもありません。でも。」
 言いながら、少女は彼の前へやって来た。正面に立ち、見上げる。泣いているような。怒っているような。呆れているような――――そんな、貌をして。
 「でも……だったら、私はどうすればいいのですか?貴方にそんな貌をされて――――」
 突然、少女が両手で少年の左手を取った。ハッとする間もなく、彼女は何を思ったかそれを自分の左胸に押し当てた。
 「――――ッ!?」
 少女の柔らかな胸の感触が掌に伝わって来て、少年は慌てて手を離そうとした。その時、彼女が静かに…諭すように、言った。
 「――――動いているでしょう……?」
 「……………!」
 「……動いてますよね?……私の心臓。」
 少女は彼の掌を胸から離すと、次はそれをそのまま彼自身の左胸へと宛がった。
 「貴方の心臓も、動いています。……何が、違うのですか?」
 今にも泣き出しそうな顔で、少女は言った。貴方と私は確かに違う。でも、「違わない」。そうでしょう…?
 「――――生きているのです。私も、そして――――貴方も。」
 若草と同じ色の潤んだ瞳が、ジェットを射抜いた。逃げるな。そう言っているように見えた。逃げるな、生きる事から。背けるのではなく――――受け止めろ。そして、受け入れろ。
 「今の貴方に、私が何も感じないと思っていますか?……私は生きているのです。私は。」
 叱責ではない。それは、「願い」。言葉が、悲鳴のように迸った。
 私は――――『人形』じゃ、ない――――
 ――――………!!



 ――――ヒトを気取るか、人形が!



 あの男の声が過った。不意に眩暈を感じ少年はぐらりとよろめいて、思わずテーブルに右手をついた。
 「――――ッ!?」
 突然の出来事に青褪めた少女が、慌てて彼を支える。――――息が、苦しい。冷たい汗が、脇の下を流れる。彼は歯を食い縛って耐えようとした。
 畜生、と吐き出すように言った。歯噛みしたい思いだった。
 平気だと思っていた。大丈夫だと思っていた。あんな男の言葉など、何程のものでもない。そうじゃなかったのか?――――それなのに、こんなにも苦しい。こんなにも痛い。胸が――――心が――――それともまた、これも「ヒトを気取る」という事なのか?……糞ッ垂れが!!
 「――――俺は。俺だって――――」
 「ジェットさん!!」
 少女は肩で息をする彼をゆっくりと座らせ、その額の汗を、手の甲で拭う。
 「い、今、お水を――――」
 そう言って身を翻そうとした彼女の手を、今度は少年が素早く捉える。引き戻されてびくりと振り返った少女の耳に、掠れた呟きが届いた。
 「いい――――このまま――――」
 「………!!」
 引き寄せられるように――――だが、躊躇いがちに、少女は彼の前へと戻る。
 「………悪かった。」
 絞り出すように言った。堪らなくなって、少女は只首を横に振る。
 「……私、私は――――…。」
 私は何をしてしまったのだろう。彼は何を感じたのだろう。
 「……私は。」
 知りたい。このひとの事を、もっと知りたい。理解したい。護りたい。……心から。
 そう思った時、涙が一筋、頬を伝った。……驚いていた。随分、久しぶりに泣いたような気がした。





 静かに感情の波が引いていくのを待ち、少女が囁くように呼び掛ける。
 「ジェットさん。このお部屋を見て……何か、気付いた事はありませんか?」
 「………?」
 突然の問いに、少年は訝しげな視線を向けた。
 「…いきなり間違い探しか?」
 口の端を歪めるようにして訊くと少女は「そのようなものです」と肩を竦めた。
 部屋をぐるりと見渡してみる。ベッド代わりのハンモック、ささやかな台所、小さな丸テーブル、果物の入った籠、保存食の入った瓶、干した薬草の入った皮の袋。壁から下げてある、ドライフラワー。扉の近くに立て掛けてある、箒。……特に、何も変わった所は見当たらないように思えた。何時も通りだ。
 「……降参、ですね?」
 少女が悪戯っぽく笑う。
 「正解は…今、ジェットさんが座っているモノです。」
 「――――椅子?」
 「はい。実は――――」
 恥ずかしそうに微笑んで、彼女は言う。
 「実はその椅子……ギャロウズさんが作って下さったのです。」
 「――――はぁッ!?」
 突然仲間の名前が出て来た事に、ジェットは不覚にも驚きを隠せず間の抜けた声を上げてしまった。何時の間に――――何故、ヤツが?
 「……そろそろ、もう一つあってもいいだろうって……。」
 そう言って、彼はある日この椅子を作ってくれたのだという。少女はひたすら恐縮したが、彼は「ババアに普段こき使われてるお陰でな、こういうのは慣れてんだよ」などと豪快に笑っていたらしい。
 「私は――――本当に、嬉しくて。」
 「………たかが、椅子だろ?」
 余りにしみじみと感じ入ったように少女が言うので、大袈裟な、と少年は鼻白んだ。椅子がもう一つ、増えたくらいで――――もう一つ――――
 ――――。
 瞬間、気付いた。



 元々、この部屋に椅子は一つしかなかった。
 それは、「必要なかった」からだ。



 一人暮らしで、しかも自ら人目を避けている事もあり、当然ながら訪ねて来る者などいない。そんな日常に、椅子など幾つも必要ない。だが哀しむ事ではない。彼女にとって、それは至極――――「当たり前」の事だったからだ。
 しかし、今は状況が変わっていた。
 ある日四人の渡り鳥がこの「秘密の花園」を発見し、少女と出会った。
 少女はこの地周辺の大地を腐らせる呪いを解いて欲しいと彼等に願った。彼等はその困難な依頼を受け、彼女の願いを見事に叶えた。その報酬として、少女は彼等に畑で獲れるベリー類の提供を申し出た。四人の渡り鳥は、それ以来度々この地を訪れるようになった。
 ジェットは記憶を呼び起こそうとする。この家に招き入れられた時――――彼女は常に椅子を「客人」に譲り、自分はハンモックに腰掛けるか、立っていた。
 「たかが椅子……ですけど。」
 幸せな夢を見ているかのように、彼女は仄かな笑みを浮かべる。
 「私にとっては、新鮮で大きな変化なのです。嬉しいのです。貴方と――――向かい合って、座る事が出来る。」
 ジェットは思った。見た目は自分より幼くも見えるこの少女が、独り生きて来た歳月の「永さ」を。
 「……誰かを迎える、楽しさを知りました。喜びを知りました。誰かを待つ事が――――待つ相手がいる事がどんなに幸せな事かを、私は知りました。」
 そしてそれは、彼女が久しく忘れていた感情であったに違いない。
 「――――貴方と出会えて良かった。貴方がいたから、今の私があるのです。」
 このひとなら、と思った。このひとなら裏切らないと思った。花を、土を、救ってくれると思った。誰よりも「痛み」を知る瞳をした、繊細で優しいこのひとなら。
 何かが変わる。そんな予感がした。
 お願いが、あるのです。――――初めて出会った少年に思わずそう口走っていたのは、そんな強い感情だった。どうしようもなく、惹かれた。そう言っても過言ではなかった。
 「……貴方がいなければ、私は何も変わりませんでした。……貴方がいたから、言えました。あの時私はジェットさんに、勇気を貰ったのだと思います。」
 貴方は私の、大切な「想い出」の一部です。これからも、ずっと――――
 「――――『想い出』の、一部……。」
 想い出のない自分が、何時の間にか他人の想い出の一部となっていた。戸惑いと、皮肉な思いが胸の内を過る。
 生きている、って、そういう事ではないでしょうか……。
 心寄り沿い、支え合って。生命の触れ合いは、やがて「想い出」という大きなうねりを生み出してゆく――――
 「――――嘗て、私には大好きなひと達がいました。」
 ふと、少女の瞳が陰を帯びたように見えた。
 「その時は、もうどうしようもないと思いました。大好きなのに、心が離れて行くのを、私は止める事が出来ませんでした。……でも、ジェットさん達に触れた今、時々思うのです。私は――――私達は、もっと努力すべきだったのではないかと。本当は、分かり合える道もあったのではないかと。私が、弱かったから。」
 「――――それは。」
 それは違う。今更自分を責めちゃあいけない。バスカーの誰一人として、そんな事は思っちゃいない。――――ギャロウズが聞いたら、きっとそう慰めるのではないだろうか。しかし、少年には掛けるべき言葉が見付からない。知らずその頼りない肩に触れようとした左手も、躊躇ったまま宙に留まる。
 「――――私にはもう、それを取り戻す術はありません。……でも。」
 少女は瞳を上げて少年を見詰めた。先程昏く沈んだように見えたそれは、今この刹那は強い意志の光を湛えていた。
 「でも――――貴方は違います。貴方はまだ間に合います。取り戻す事が出来ます。私のように――――後悔は、して欲しくない……から。」
 「……取り戻す……?」
 「はい。」
 微笑みと共に、少女は頷いた。真っ直ぐに彼を見て、微笑んだ。柔らかな蕾が、綻ぶように。
 「――――私は、貴方が――――大好き、です。」
 「……………!」
 「大好きです、ジェットさん。私だけではなく、ヴァージニアさんも、ギャロウズさんも、クライヴさんも、皆貴方の事が大好きなのです。だから。」
 だから――――
 少女は、少年の頬に触れた。驚いた表情で見詰め返して来る彼に、彼女は精一杯の微笑みを見せた。祈るように、言った。
 ――――だから――――もう、勝手に、独りにならないで下さい………。
 ――――!…………
 清廉で、それでいて温かい微笑。聖女のような。慈母のような。
何かがほんのりと、胸の内に灯る。それは決して不快なものではない。以前ケイトリンにせがまれて渋々ながらも読んでやった絵本に、花の化身の「お姫様」が出て来た。そんなものが本当に存在するとすれば、きっと、こんな風に微笑むのだろうか。



 優しくて、温かくて。少し、切なくて。――――心が、締め付けられる。



 「俺は――――『人形』じゃ、ない……。」
 ぽつりと呟いた。余りにか細いそれだったが、少女の耳には確かに聞こえた。一瞬驚いたような表情を浮かべたが、顔を綻ばせて少年の手を取り、頬を寄せた。
 「――――『人形』は……こんなに、温かくありません。」
 「………そんなモンか?」
 微かに笑みを浮かべると、彼女も嬉しそうに「そんなモン、です」と言う。
 ………そうだ。
 凪いだ気持ちで、瞳を閉じた。
 造られたモンだろうが何だろうが、俺は――――生きてる。
 ウェルナーが何故自分を助け出し、ヒトと同じように育てたのか。
 ……分かりかけているような気がする。今なら。少し、だけれども――――
 「――――感謝……、してる。」
 素直な気持ちだったが、声に出すと余りにもぎこちなく、知らず頬が火照る。そういえば、久しく言っていなかった言葉のような気がする。前に言ったのは、一体何時の事であったろう――――
 「……感謝しなければいけないのは、私の方です。この椅子にも。」
 「――――……これか。」
 そういえば本当に、何時の間に作ったものだろう。座の部分に手を触れてみると、今更ながら、しっかりと鑢で磨かれているのが分かる。あの豪放磊落を地で行く外見からは想像もつかない程、丁寧な「仕事」であった。案外、クライヴが手伝ったのかもしれない。
 ――――そろそろ、もう一つあってもいいだろ?
 ……あの似非神官にしては、気が利くじゃねぇか。
 或いは――――それは、バスカーの民として、少女へ捧げた彼なりのささやかな「償い」のつもりであったのだろうか。
 ……考えすぎか。ジェットは皮肉げに笑って頭を振る。そんなタマかよ、アイツが。
 「……アイツの事だ。どうせ、『未来の美人への奉仕活動は男として当然の義務だ』とか何とか抜かしたんだろ。」
 「えっ。」
 聞いて、少女が息を呑み、目を丸くする。
 「ジェットさん……どうして分かったのですか……ッ!?」
 「…………………………。」
 あの野郎。本当に言いやがったのか。
 ジェットは笑みを引き攣らせ、「うんざりだぜ」と独りごちた。





 その花は只一輪、ティティーツイスターの片隅に、ひっそりと生えていた。
こんな物騒で殺風景な場所にあるのも不憫な気がして、少年は夜中にこっそりと――――特に御節介が服を着て歩いているようなヴァージニアに見付かると面倒な為――――それを掘り出した。決して不器用な方ではないという自負はあったが、根を傷付けないように周囲の土ごと掘り出すのは、見た目に反してなかなか骨の折れる作業だった。
 花園の少女の許へ持って行った時、彼女はまるで久しく会っていなかった旧友に対するかのような笑顔でそれを出迎えた。「そのお花なのですね」と頬を上気させ、その急拵えの小さな鉢植えを大事そうに受け取って、抱き締めた。
 これなら、増やす事も出来るだろう。尤も、何時かユグドラシルで見たのと同じ風景を造るには、まだまだ途方もない時間が必要だろう。だが、お前には可能だろう。そうだろう――――「マリエル」。
 それが出来た時、果たして自分はあの少女の隣にいるだろうか。――――ホムンクルスである自分が何時まで生きられるのか。或いは「何時までも」生き続けるのか。それは七人委員会亡き今、誰にも分からない。俺は何時まで、あの笑顔を見ている事が出来るのだろう――――



 「ジェットさん。」
 少女が弾んだ声を掛けた。
 「……お茶に、しましょうか。」
 「……おう。」
 ぶっきらぼうに、応じる。それを聞いて少女がふわりと笑う。その笑顔を見た時、少年は、あの時何故自分が此処を訪れたのか、本当の理由を知ったように思えた。
 少女の背を何処か眩しげに眺めながら前を向き、歩いた。俺は、生きる。生き抜いてやる。――――そう、胸に誓って。





FIN.


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