「砂上にて」





 ――――頑張ったな。
 ふわりと微笑んで、からかうようにぽんと背を叩く。
 一仕事終えて帰って来ると、「彼」は何時もそうやって少年を出迎えた。
 ――――大袈裟だな。こんなの朝飯前だぜ?
 少年は何処か照れ臭そうに苦笑して憎まれ口を叩いた。
 永遠に続くと思っていた、それは彼等の愛しい、他愛の無い時間。



 血に濡れそぼつ紅い唇を心持ち吊り上げて、その女は笑ったようだった。細く息を震わせて、今まさに尽きようとしている、外でもない己の命を潔く受け入れるかの如くに、その眼は何処までも翠色に澄んでいた。
 美しい。少年は躊躇いもなくそう思った。父とも首領とも慕う人物の隣りに絡み付くように寄り添うその姿を初めて見た時は、その余りの美しさに悪寒さえもが背筋を走り抜けた。発情した雌猫のように媚びたその瞳と魅惑的なその唇としなやかなその白魚のような指先。その武器を如何に用いて男の心を虜にしたのだろう。それを考えると反吐が出そうだった。――――しかし、今は違った。
 ――――これがお前の本当の姿か、美獣。
 少年は清婉の風すら漂わせるその姿態に眼を見張る。「黒の貴公子様は、私の全てだった。」――――己の想いを赤裸々に吐き出し、もう思い残す事はないとでも言いたげに泰然と、笑みすらも投げ掛ける。そして女は呟いた。――――さあ、止めを刺すが良い。
 それを聞いた少年は不覚にもハッと我に返る。そうだ。この女は敵だ。許せないと思っていた。この女が。「父」を操り、「兄」を殺し、「妹」に忌まわしい呪いをかけたこの女が。ダガーを持つ手が微かに震える。この女は俺が殺す。そう思っていたんじゃないのか。それなのに何故俺は此処で躊躇う?
 「………ホーク………?」
 半獣人の少年が、心配気に呼び掛ける。金色のその眼の中に、心底自分を案じている、途方もない慈悲の色が浮かんでいるのを感じて、彼は大丈夫だ、と乾いた笑みを返す。そうしてダガーを構え直した、その瞬間。
 ――――ザシュッ。
 肉を斬り裂く嫌な――――何度聞いても不快なその音が響き渡った。艶やかな唇から迸る紅が、女の白い喉元を濡らす。美獣はふっと目を細めた。
 「やるわね、お嬢ちゃん。」
 恍惚とした笑みを浮かべたその表情はまるで母親のような慈愛に満ちて。そして女はどうと倒れた。
 彼女の胸を貫いたのは一本の槍であった。一瞬何が起こったのか分からずに、二人の少年はその槍の使い手である、神々しく輝く金色の髪と蒼く澄んだ眼を持つ少女を見詰めた。
 「――――御免なさい。」
 顔色一つ変えずに少女は足元に横たわる「宿敵」――――否、たった今まで宿敵「だった」モノ、その屍を見下ろしていた。
 「私は………そのひとのように優しくはないの。」
 ふと瞳が出合って、少女は俯き、弱々しく嗤う。許せなかった。この女が。この女は父を奪った。弟を奪った。国を奪った。……私から何もかもを奪っておいて、貴女はそれでもぬけぬけと言った。――――それは大切なひとを救いたかったが為、と。虫がよすぎる。貴女は狡い。貴女は酷い。貴女は哀しい。……そんな貴女は、尚更憎い。大嫌い。だから、私が刺した。ホークアイ……貴方が出来ないのなら。
 貴方は、私を蔑みますか?私を疎みますか?罵りたければ――――それでも構わない。私に後悔はない。そう。後悔は……あっては、ならない。
 「優しくない………?」
 しかし少女が聞いたのは罵倒の言葉ではなかった。思わず顔を上げてみても、其処に在った少年の瞳に侮蔑の色はなかった。只少女をじっと見詰め返して、少年は静かに告げた。
 「――――優しくないなんて、嘘だね。」
 「………?」
 それは只の慰めなのか?審判を仰ぐように、少女はその柔らかな言葉に耳を傾ける。囁くように、憐れむように、彼が言った言葉はこうだった。
 「………泣いてるじゃないか。」
 「――――!」
 その時少女は漸く気付く。己の頬を濡らすものの正体に。……頬が熱くて。熱くて……冷たい。只の返り血だと、思っていた。湖の如く深く蒼く澄んだ眼。其処からとめどなく溢れ出しているそれは白い頬を滑り女の返り血を斑に溶かしてゆく。
 ――――私は………泣いていたのか。
 憐れに思ったのは身勝手な愛に殉じた彼女か。若しくは許せなかった己か。呆然と佇む少女を目にして、少年は唇を噛む。己の不甲斐無さに腹立たしさを覚える。やはり――――やらせるべきではなかった。俺がやるべきだった。分かっていた筈なのに、何故俺はモタついていたのだろう。随分と甘くなったものだ。優しいだと?そんな褒められたものではない。あの時確かに自分は感じたのだ。美しい、と。
 刹那、がくんと地が揺れた。間近に轟音が迫る。半獣人の少年がハッとして叫ぶ。
 「崩れるッ――――ホーク……リースも、急いで!!」
 少年は舌打ちする。あの女、最期までやってくれる――――。苦々しげに呟いて、少女を振り返る。
 「走れるな?リース。」
 ええ、と彼女は頷く。それを確認し、自分も走り出そうとして少年はその刹那、背後に少女の密やかな呟きを聞いた。聞いてしまった。
 父上、敵は討ちました。
 瞬間、少年は己の胸の内にそれまでとは異なる別の感情がふつふつと湧き上がって来るのを感じた。自問するまでもない。分かっている。その感情が何であるのか。少年はそれを振り払うかのように薄く嗤った。――――しっかりしろ。ぱんと頬を叩く。
 まだ、終わっちゃいない。



 黙々と三人は食事をとっていた。
 アークデーモンと化した黒の貴公子を倒し、その野望が潰えた今、徐々に世界は日常を取り戻しつつある。にも拘らず何処か「勇者」達の空気が重いのは、次第に近付きつつある別れの時への焦燥か、過ぎ去った戦いの日々への懐想か、それとも只の虚無感に過ぎぬのか。
 黒の貴公子との最終決戦後、マナの聖域から帰途についた三人は、まずローラントへ赴いた。ローラント第一王女であり、仲間の一人でもある少女・リースが弟の無事を早く確認したがっている事は明白であったからである。マナの女神が言っていた通り、彼は無事に城へ送り届けられていた。リースは弟を抱き締めると、声を上げて哭いた。
 その足で一行が次に向かったのは獣人の王国・ビーストキングダム。半獣人の少年・ケヴィンの故郷である。彼は長きに渡り擦れ違い、不仲にあった父親と漸く和解を果たした。――――何時か、アンタを越えてやる。その少年の台詞に、随分な和解の仕方だ、と二人は苦笑させられた。未だ獣人とヒトとの溝は深いが、ニ種族の関係を少しでも良い方向へと導く為に、自分は力を尽くすとケヴィンは二人の戦友に誓った。
 そして、今。
 一行が滞在しているのは、残る一人・ホークアイの故郷――――正確に言えば其処で生まれた訳ではないが――――ナバールである。首領・フレイムカーンに一通り報告を済ませると、彼は三人の為に、簡素ではあるが三人だけでの食事の席を設けてくれた。ホークアイの帰還に色めき立つ盗賊団の面々に迎えられた時は今夜は休めるだろうかと危惧せざるを得なかったが、やはりフレイムカーンは慧眼な男であった。物資も少なく、国の建て直しを図らねばならぬこのような時故、大した饗応も出来ずに済まぬな。そう言ってフレイムカーンは笑った。が、ホークアイは首領の心遣いに心中密かに謝した。確かに今は馬鹿騒ぎをやる気分ではない。三人どころか――――
 早く、一人に。二人には申し訳ないが。
 「――――悪い。その辺、出てくる。」
 ホークアイがぼそりとそう言って席を立った時、流石に二人は少々驚いたようだった。ケヴィンがウン、と頷くのを視界の端で確認し、ホークアイは部屋を出て行った。パタンと閉じられたドアを見詰めて、リースはそれでも何も言えずに、只躊躇い、眉を顰めた。
 ――――ホーク、アイ………?
 あのひとは、何も言ってはくれない。……何時も、そうだ。
 その時、ふっと顔を上げてケヴィンがまるで独り言のように呟いた。
 「――――ホーク………泣いてた。」
 「――――え……………?」
 思わず凝視した。彼は何を見たというのか。はたまた何を感じたというのだろうか。その繊細な感性で。ケヴィンは肉を勢いよくぱくんと口へ放り込む。やがてそれをこくんと飲み込み、リースを見た。その金色の眼が心なしか揺れているように見えて、少女の胸をざわりと黒霧が覆い始める。
 「………泣いてたよ。」
 もう一度小さくそう言って、彼はぼんやりと遠くを見詰めた。



 砂上に無造作に突き立てられた十字架。急ごしらえではあるが、それでも無いよりは遥かにマシだった。なるべく早く立派にしてやらないとな、などと思いつつ、ホークアイは持参した瓶の栓を乱暴に抜くと、十字架の上から惜しみなく中身をぶち撒けた。十字架が臙脂色に濡れていく。……お前の、好きだった酒だ。そう呟いて、少年はどかりと腰を下ろした。
 ――――終わったよ。イーグル。
 少年の「兄」でもあり、「親友」でもある人物の、それは墓だった。但し墓とはいっても、その十字架の下には何も収められてはいない。――――彼の遺体は、ついに見つからなかった。見つける事が出来なかった。否、寧ろあの混乱の中で、遺体が残っている事自体が奇跡に近い事であったろう。それでも出来る事なら。……だがそんな少年の願いはついに届くことはなかった。ホークアイは軽く頭を振る。
 ――――終わった……?いや、それは違うな。多分お前ならこう言うんだろう。今から始まるんだ、と。
 そう、始まるのだ。日常が始まる。今までは努めて考えないようにしていた。無理矢理思考の外へと押し出していた。前にも、隣りにも、背中にも、もうお前はいない。始まる。……イーグル。お前のいない日常が始まる。――――ああ、分かっているよ。たとえお前がいなくても俺は独りじゃないって事くらい。俺は独りじゃない。今までも、そしてこれからも。……お前の分まで面白可笑しく生きてやるつもりさ。けどな。
 ――――。
 その時彼の鋭い聴覚が、何者かが砂を踏み分けて来る静かな足音を捉えた。それが誰のものであるのか、彼は既に分かっていた。それは、余りに聞き慣れた足音。聴覚の記憶に深く刻み込まれた足音。悔しいくらいに。振り返りもせずに、彼は背後に広がる闇へと声を投げた。
 「………姫さんかい?」
 少年の背後一メートル程の距離で足音がぴたりと止まる。彼の問いを肯定するかの如く。ホークアイは小さく息を吐くと、静寂を断ち切るように告げた。
 「………悪い。一人にしておいてくれないか。」
 自分でも驚く程にひやりと冷酷に響いたその声音に、彼は冷笑した。……最低だな。心配して来てくれたんだろうに。――――だが、見せたくはない。今の俺のこんな顔を。見られたくない。この娘にだけは。……絶対に。
 無音。返って来るのは、只それだけ。彼女は何を考えているだろうか。怒っているだろうか。それとも呆れ果てているのだろうか。……それとも、悲しませてしまっただろうか。無理もない。だが振り向く事は出来ない。……そんな勇気はある筈もない。彼は目を閉じてひたすら沈黙に耐えた。
 やがて再びさくさくと足音が聞こえてきた。近付いて来る。少年は思わず身を固くする。その時何かが彼の頭上からふわりと落ちる。毛布だった。くぐもったような少女の声が、それでもはっきりと、毛布一枚隔てて降って来た。
 「砂漠の夜を甘く見るな、と………そう教えてくれたのは貴方ですから。」
 砂漠の気候は格差が激しい。乾燥し、熱風吹き荒ぶ昼間とは比べ物にならぬ程夜は冷える。過剰な放射冷却により時には氷や霜が下りる事すらある。これは意外と知られてはいなかった事であり、リースやケヴィンも例外ではなかった。初めて三人で「灼熱の砂漠」を訪れた時、ホークアイが二人にまず言った事は、「砂漠の夜を甘く見るな。」只その一言であった。
 ――――そうだったっけな。
 暫しの沈黙の後、再び遠去かってゆく少女の足音を聞きながら、少年はほんの少しの「昔」を懐かしんだ。引き被った毛布の端をきゅっと握り締めて、唇の形だけで詫びる。済まない。その言葉を聞かせるべき相手はもう闇の彼方へ消えたというのに。
 ――――何やってんだ、お前。
 苦笑を含んだ親友の声が聞こえたような気がして、彼は僅かに唇を歪めた。



 ああ、俺は夢を見ているんだな。――――まず感じたのはそれだった。親友が目の前に立っているというのに我ながら憎らしい程に冷静だ。彼はそう感じて自嘲的な笑みを浮かべる。――――笑っていた。穏やかに、ほのぼのと彼は……イーグルは、微笑んでいた。
 ――――笑ってくれるんだな。
 知らず口許に笑みを宿らせつつ、ホークアイはそれを見た。
 思えば夢の中にイーグルが出た事は今までに何度もあった。だが……そんな時の彼は、決まって笑ってはいなかった。あの時。美獣の魔法に貫かれたあの時そのままの姿で。身体中をべっとりと血に染め上げて。そうして震える腕を伸ばす。――――助けてくれ、と。少年はそんな親友を只きつく、きつく抱き締める。抱き締めるしかなかった。己の身もまた鮮血に濡れる事など構いもせずに。……済まなかった。済まなかった。助けてやれずに済まなかった。頬を濡らすのは友の血か、己の涙か。それすらも分からずに。
 ――――やっと……笑ってくれるんだな……。
 勿論、分かっている。これが己の夢である以上、既に亡きイーグルが本当に天国で笑ってくれているかなどという事は知るべくもない。詰まる所は只の自己満足に過ぎないのかもしれない。――――だがそれでも良かった。再びこの親友の笑顔を見る事が出来た事、それを心から嬉しいと思った。その気持ちに嘘はない。只。――――ふとその思いに行き当たった時、滲んだ笑みは冷えた嗤いへと変わる。
 俺は、あの女に止めを刺せなかったんだよ。
 覚えている。忘れる事など出来ない。親友が息を引き取る直前にくれた言葉。
 迷うな。前へ進むが良い。お前は、前へ。
 行けるか。進めるか。許してくれるのか、お前は。俺はお前を殺した女への止めを躊躇った男だ。せめて嗤ってくれれば良いのに、それすらも叶わない。
 甘い――――否、そのような生易しいモノではないかもしれない。この手で敵を討つ。友の仇を討つ。やっとそうする事が出来る。ジェシカを美獣の手から救い出した時、武者震いすら覚えた筈なのに。それなのに、止めの一撃はあの少女に奪われてしまった。何故俺は躊躇った?それがたとえ一瞬でも、確かに俺はあの瞬間心を奪われた。美しかった。憐れだった。遣り切れなかった。そこまで彼女を衝き動かした黒の貴公子に憤りさえも感じた。……そして、あの少女を泣かせた。彼女には荷が重かった。やらせるべきじゃなかった。俺が止めを刺すべきだった。――――そこまで考えて、ホークアイはふと頭を振る。いや、違う。
 荷が重かったから?泣かせてしまったから?――――それは奇麗事だ。分かっている。あの時――――崩れ落ちるダークキャッスルから脱出しようとした時。少女と擦れ違う瞬間に背中で聞いた彼女の呟き。
 父上、敵は討ちました。
 それを聞いた瞬間に霧の如く立ち込めた感情。確かに胸の奥底でぶすぶすと燻った、最早隠しようのない黒い苦い思い。分かっている。……それは。
 それは――――嫉妬。
 俺は確かに彼女に嫉妬した。その「優しさ」に。頑なな程に清廉なその「強さ」に。強くて……そして、脆い。相反する二つのモノを抱えた、風の王国の姫。彼女は知らないだろう。あの時自分が抱いた余りに場違いな想いに。だからこそ、見せたくなかった。今の醜い自分の姿を。大切な……仲間だから。リースも。そして、ケヴィンも。
 ――――お前は独りじゃない。今までも、そして、これからも。
 ――――ああ、分かっているさ。だがな。
 あの二人は、決してお前の代わりなんかじゃないから。だから。
 毛布に頬を埋めて、少年はゆっくりと瞳を閉じた。
 だから、泣かせてくれてもいいだろう?今夜くらいは。……お前の、為に。
 なあ、イーグル。



 頑張ったな。



 ――――!
 ハッとして少年は親友を見詰めた。懐かしい声。懐かしい台詞。懐かしい微笑み。夢でも構わない。
 ――――………言うのが遅ぇよ、莫迦。
 くつくつと、彼は苦笑した。



 雲のかかる事がない砂漠で、それ故にその月の光は冴え冴えと真っ直ぐに降り注いで。……彼は、漸く眼を覚ます。
 「……やっぱ……眠っちまってたか……。」
 そう独りごちると、すっくと立ち上がり、砂を払う。ふと身に纏う毛布に目を遣り、確かめるようにもう一度握り締める。そして彼は歩き出した。上手くやれよ。彼の背を見送る十字架が、そう囁いているような気がした。



 部屋に明かりは点いていないようだった。起きてないよな、こんな時間に。苦笑しつつ一歩足を踏み入れた彼が目にしたものは、白い月明かりに照らされて頬杖をついて俯く、一つの影。それを見留めた時、彼は思わず目を丸くした。――――姫さん?呼びかけたその声は、自分でも呆れるくらい素っ頓狂であった。
 「――――あ。」
 呼ばれた少女はハッとして頬杖を外す。慌てて目をごしごしと擦り、自分を呼んだ少年の方を見た。ゆっくりと近付いて来る彼を、少女は立ち上がって迎えた。もう、良いのですか。心持ち視線を下へと彷徨わせて、リースはそう言った。まだ勇気がなかった。目の前にいるこの少年の瞳を見る事が怖かった。また、自分は拒絶されるのであろうか。そう考えるひたすら臆病な自分が其処にいた。
 「ケヴィンは………?」
 「あ、ケヴィンなら………。」
 辺りを見回してホークアイは素朴な問いを呟く。リースはそれに対し、ふいと窓の外の月を見遣る事で答えを示した。――――満月だった。それを見て、成る程な、と彼は納得した。そうか。今夜は満月だったな。
 獣人。それは月と密接な関係を持つ種族。夜での戦闘時に人狼化する能力は最早広く知られている所ではあるが、その強さが月の満ち欠けと深く影響し合っているという事は、ケヴィンと知り合うまでは二人は知らなかった。それ程ヒトにとっては謎に包まれた種族であるといっても過言ではない。
 半身に獣人の血を引いたこのケヴィンという少年にとっても、月は特別な存在であるかのようだった。満月の夜になると彼は決まってふらりと宿を出て行く。嘗て一度、何処へ行くんだ、と訊ねた事があった。その時彼は、眠れないんだ、とだけ答えて微かに笑みを作った。それじゃ答えになってないだろ、と心中密かに悪態をつきつつも、それ以上訊ねる事はしなかった。今頃何処で何をしているのか。月は何を問い掛けるというのか。彼の心に。彼の、血に。
 「そうか……まあ、アイツの事だから、大丈夫かな……。」
 「……そう……ね………。」
 少女はそれきり黙り込んで、顔も上げようともしない。少年は今更ながら罪悪を感じてしまう。手にした毛布を差し出して、彼は告げた。
 「――――有り難う。御免。」
 「………!」
 その声に少女は弾かれたように彼を見詰めた。笑っている。まるで何事もなかったかのように、貴方は。今はそんなに優しい眼をしているのに。……本当にこのひとは底が知れない。分からない。――――それでも、私は。
 「明日は――――解散、ですね。」
 「――――。」
 思わず口をついて出たその言葉は、余りに現実で。二人はそれを噛み締めた。何も一生の別れ、という訳ではない。そんな事は百も承知だ。只、この先彼等には厳しい現実が待ち構えている。……それは、分かる。それはマナが失われた世界でその恩恵に頼らずに砂漠を緑へ導く事であり、弟を助けつつ陣頭指揮を取り王国を建て直す事であり、獣人とヒトとの相互理解の為に奔走する事でもある。暫くは、公式の訪問でもない限り、私的に会う事は叶わぬであろう。
 普段は厳めしく甲冑で覆っている少女のその肩。ひと時の安らぎである今は何も着けてはいない。仄白く月明かりにぽうっと浮かんで、それは今更ながらに少年の目を釘付けにする。こんなに細かっただろうか、この少女の肩は。この肩、この細腕で槍を振い貫いて来たのか。数々の魔物を、人ならぬ人を。……出来る事なら、もう見たくはない。君が血の朱に染まる姿は。でもそんな事を言ったなら、真面目な君は怒るんだろうな。「アマゾネスの軍団長たる者が、そういう訳にはいきません。」などと言って。それが「らしい」と言えば「らしい」のだけれど。
 「………?」
 ふとホークアイの視線に気付いてリースは彼を不思議そうに見た。射し込む澄んだ月光は少女の肢体を薄衣のように包んで、それは一層彼女の姿を神々しく浮き上がらせていた。静夜に他に物音を立てるものはなく、空気は何処までも静謐に澄んで。……こんな、夜は。
 少年の左手が、そっと少女の頬に触れる。こんな、夜は。――――普段は心の奥底に頑なに封じ込めているものが解放を求めてどうしようもなく疼く。蠢く。心が、乾く。
 「――――ホーク、アイ………?」
 真っ直ぐに見上げる瞳。……そうだ。その眼だ。まだ男を疑う事を知らない真っ直ぐな、危うい程に純粋なその眼。きっと、君の前に立つ男は皆、訳もなく後ろめたい思いに苛まれるのだろう。……今の、俺のように。
 まるでその術を知らぬかの如く、二人は目を逸らさなかった。――――リース。囁いたその声は思いの外掠れていて。頬を包む掌に僅かに力がこもる。
 「――――閉じて………。」
 そう、お願いだ。瞳を閉じて。……眩し過ぎるから。その、蒼は。
 俺は今、何をしようとしているのだろう。このひとに。
 私は今、何をしようとしているのだろう。このひとに。
 どちらからともなく、引き寄せられるように、魔法にかけられたかのように、身体が近付いていく。頬に互いの吐息を感じ、鼓動が聞こえる程に近付き、それでも眼を離す事が出来ず。やがてゆっくりと……ゆっくりと、瞼を閉じかける。何処へ行くのだろう。仕舞いきれずに胸に溢れ返ったこの想いは。いずれは押し潰されてしまうのか。今、影が一つになってしまったなら。いや、それでも――――。
 「ホーク、帰ってたのか?」
 ――――!!
 今にも唇が触れ合おうとしたその時、突然投げられた無邪気な声に二人はハッと我に返り、身を離した。



 俺とした事が、気配に気付かなかったとはな。ホークアイは頭を掻いた。男としていい所を邪魔された事に関しては――――勿論、当の本人にそんな気はさらさらないだろうが――――ケヴィンを多少恨めしく思わないでもない。しかし、同時に何故かホッとした自分がいる事にも気付いて、ホークアイは苦笑した。この期に及んで、俺は未だ吹っ切れてないのか。……全く、イーグルがこの場に居ようものなら抱腹絶倒だろうぜ。そんな事を思いつつ、彼はケヴィンにニッと笑ってみせた。
 「よう。お前も帰ってたのか。早いじゃないか?今回は。」
 多少込められた皮肉にこの純粋無垢を絵に描いたような少年が気付くかどうかは怪しい所である。案の定、薄明かりの中で金色の眼がサッパリ分からない、とでも言いたげに怪訝そうにきらりと瞬く。やがて少し躊躇い気味に彼は答えた。
 「ウン。……一寸、気になったから。」
 「?……何がだよ。」
 訝しむホークアイとリースに、ケヴィンはさらりと言った。
 「………二人とも、仲直りしたか?」
 「――――へ?」
 ホークアイが思わず目を丸くしたのとは対照的に、リースは「あ」と小さく言って口を押さえた。どういう事だ?リースが喋ったのか、あの一件を。それはそれで構わないが、リースの狼狽ぶりが気にかかった。だがその理由はケヴィンの次の台詞によって否が応にも判明した。
 「だってリース、ホークのバカバカって言ってたぞ。」
 「ケ、ケヴィン………!!」
 頬を染めて、リースは慌てて手を振った。
 「は、はは………バカ、ね………。」
 流石に笑みが引き攣るのは否めない。だが仕方ないだろう。事実そのような事は言われて当然だと彼は思った。莫迦なのは俺だ。薄暗くてよく分からなかったが、そのひとの眼の周囲は確かにうっすらと赤く腫れていた。ケヴィンはホークアイへと改めて向き直る。挑むように彼を見上げて言った言葉は。
 「………ホーク。リースの事、泣かせたら駄目。」
 其処でケヴィンは初めてむっと眉を顰めてみせた。本人は気付いているのかいないのか、それはまるで親が子供を叱るような表情だった。――――そうだったな。ホークアイはそれに改めて気付かされる。コイツはどんな事よりも、誰かが泣く事を嫌っていた。
 「……ああ、分かってるよ。今リースにも謝ってた所だから、心配すんな。」
 ぽんと肩を叩いて「な?」と念を押す。そうなのか?とケヴィンはリースを振り向き、そんな彼に対してリースは微かに苦笑しつつ頷いた。
 「――――そうか。良かった。」
 心底安堵したように、にこりと微笑む。出会った頃と比べて、彼は何と自然に笑うようになった事だろうか。今でも多少人見知りな所は変わらないが、それでも何処となくヒトを恐れていたあの頃と比べれば明らかに彼は成長を果たしたと言える。本人は分かっていないのだろうが。
 「あ、そうだ――――。」
 次にケヴィンは何かを思い出したように呟いて、自らの道具袋をごそごそと探り、やがてハイ、と何かをホークアイへと差し出した。逞しい格闘家のごつごつとしたその両手の上にちょこんと端座しているそれは、……風の太鼓であった。
 「――――?ケヴィン、これは――――。」
 「やっぱりこれ、ホークが持ってた方がいい。」
 事も無げにさらりと言って、更にそれをホークアイの目の前まで掲げてみせる。
 風の太鼓はマナの女神より授かった、山と空の守護精霊・フラミーを自由に喚ぶ事の出来る宝物であり、彼等の移動手段としてそれは絶大な貢献を果たした。これを誰が持つべきだろうか、そう考えた時、ホークアイは迷わずケヴィンに持たせるべきだろうと判断した。確かに自分が所持していれば、物資の調達、ナバールとローラントの国交回復、更には両国の親善に向けて大いに役立ってくれる事だろう。だが、ホークアイやリースが「国」を相手にする事に対し、ケヴィンは――――言うなれば、ヒトという「種族」を今後相手にしなければならないのである。それを思えば、将来的に彼が所持していた方が遥かに能率が良い。ホークアイはそういう結論に達したのである。己の感情、他人の思惑よりも飽くまで現実的に利害のみを考慮する。それは時に人をして彼を冷めている、と評せしめる所以であるが、実に彼らしい思考回路だと言わねばなるまい。それはリースも同じ考えであったらしく、この結論を話した時、彼女はにっこり笑って頷いた。それが良い、と。
 だが今この少年はその宝物を返す、と言う。一瞬リースと顔を見合わせてから、ホークアイはどうして、と訊ねた。ケヴィンはそれを聞いて意外そうに首を傾げる。そんな簡単な事が分からないのか、とでも言うように。
 「だって、これで何時でもリースに会える。」
 「――――!」
 ハッと息を呑んでケヴィンをまじまじと見詰める。自分の隣りに立つ少女の頬にも明らかに動揺が走っていた。何を言い出すのだ、彼は。
 「オイラ、もっと仲良くなって欲しいから――――二人に。」
 真剣な黒々とした丸い瞳は澱み一つ無く。懇願の色すら浮かぶそれを見た時、少年はざわざわと心が波立つのを感じた。――――知っているか?お前のそういうとこ、たまに俺は怖くなる。
 何処まで知っている?何処まで見通している?何処まで見透かしている?その無垢な野生の瞳は。……否、知っているのではない。感じているのだ。理屈ではなく、本能で――――。
 他に尤もな理由など幾らでも思い付くだろうに、それでも「ナバールとローラントの親善の為」や、ましてや「聖剣を抜いたのはホークアイなのだから彼が持っている方が相応しい」などと言わずに「仲良くして欲しいから」と単刀直入にぐさりと切り込んで来たのが実に彼らしかった。単に回りくどい術など知らぬだけの事なのかもしれない。不器用で、それでいて清々しい程に真っ直ぐで。こんな方法しか知らぬとばかりに、それを精一杯突き付ける。時にその姿はホークアイの眼には残酷にすら映る。――――何時しか、彼の唇には不敵な苦笑が滲んでいた。身に過ぎた望みを、俺は今更掴もうというのか。
 ……それも、面白い。
 「……お前はそれでも、大丈夫なんだな?」
 只それだけを訊ねる。口調は飽くまで優しく。だがその眼には怜悧な煌めきと自嘲が確かに含まれていた。それでも。
 「ウン。平気。何とかなる。」
 彼はまたしても事も無げににこりと笑って答える。これ以上は幾ら言葉を重ねても無駄。そう悟り、ホークアイはそうか、と軽く頷いた。そして目の前に未だぐいと突き付けられたままの風の太鼓にゆっくりと手を伸ばし、握り締めた。
 「……それじゃ、俺が有り難く受け取っておく。もう返さねぇぞ?」
 瞬間リースの瞳が僅かに潤んだ事にはわざと気付かぬふりをして、ホークアイはニヤリと笑った。それを見てケヴィンもまた微笑んだ。
 「……ありがと、ホーク。」
 ぽんと背中に感じたその掌は優しくて、温かくて……嘗て毎日のように感じていた少年の今は亡き親友のそれに似て。ふと鼻の奥がツンとした事を悟られぬよう彼は精一杯微笑んでみせた。親友の言葉が再びその胸を過る。――――迷うな。前へ進むが良い。お前は、前へ。ホーク、お前は。
 分かっているさ。独りじゃない。今までも、そしてこれからも。
 二人は、お前の代わりなんかじゃないから。だから。
 「――――さて。」
 大きく伸びをして、少年は二人の仲間を振り返る。月光は何時しか白々とした陽光へと変化しつつあった。黎明の刻は静々と近付く。現実が待っている。日常が待っている。それは、始まりの時。してみると、今夜は最後の酔夢であったのかもしれない。
 この先何が待ち構えているのだろう。それは、誰にも分からぬ事。未来を見通せる者などいる筈もない。……只。
 進もう。前へ。少しずつでもいい。振り返るのはこの命尽きる時だけで良い。そう、今は。彼等が――――愛しき「友」が、教えてくれたように。
 「再出発に備えて、少しでも寝とくか!」
 淡い笑みが口許に浮かび――――やがて、砂漠の夜が明ける。





FIN.


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