「君の空」





 ケヴィンは焦っていた。一分一秒でも早く、この場を離れたかった。――――何故なら、此処は彼が決して足を踏み入れたくはない、近付きたくもない、…そう、彼にとっては禁忌の地、それに外ならなかったからである。
 「カール…!出て来いったら!」
 大胆不敵にも、扉の隙間を身体で押し開け、するりと入って行ってしまった親友へ、ケヴィンは幾分焦燥を滲ませた声で、それでも周囲を慮り、囁くように呼び掛けた。
 だが、その親友は「何故入って来ないの?」とでも問い掛けるように、不思議そうな表情で尻尾を振り振り、こちらを窺っている。――――ケヴィンは舌打ちした。早く中に入ってさっさとカールを連れ出した方が賢明だ。万が一、此処にこうしている所を帰って来た「彼」に発見されたならば、何を言われるか分かったものではない。
 一歩を踏み出した。震えている。臆している。――――莫迦な、と苦笑した。アイツが今此処にいる訳ではないのに。いたとしても何を遠慮する事がある?
 ――――たかが、子がその父親の部屋に入る事くらい。
 カールが擦り抜けた隙間を更にぎい、と押し開け、ケヴィンは初めてその地へ足を踏み入れた。嬉しげに駆け寄って来たちび狼の頭を軽く撫で、右手をすっとその前へ差し出す。
 「返せ。オイラの宝物だ。」
 悪戯っぽく、狼の瞳が黒く瞬く。――――そう、この「宝物」を奪い返す為、ケヴィンはカールを追って来たのだ。勿論カールに悪意はない。彼としては、只何時ものように遊んでいるつもりに過ぎないのだ。
 やがてちび狼は相棒の眼が真剣なのを感じ取ると、残念そうに鼻を鳴らし、軽く銜えていたそれを、差し出されている掌へぽとりと落とした。
 ほっとしてケヴィンはそれを握り締めた。何時、何処で拾った物かすら定かではない。…だが、それは確かに彼の宝物だった。何時の頃からかそれで良く遊んでいた。カールと出逢うまでは、他に遊び相手などなかった。――――憎むべき相手、闘うべき相手はいたとしても。
 ――――出よう。
 カールを小脇にひょいと抱え上げ、歩き出そうとしてケヴィンは改めて周囲を見渡した。
 獣人という荒ぶる一族をそのカリスマ的強さで束ねている王の部屋と呼ぶには余りにも殺風景だった。机と、椅子と、寝床。…それ以外はこの城に住む一般の獣人達が部屋に置いている物と何ら変わりない。必要最小限の調度品しか配置していない。無駄な物など一切ない。温度が感じられない。蒼白い月の光しか差し込む事のない、その薄暗い窓辺の許ではそれは尚更の事であった。王の間というよりは寧ろ牢獄と呼称する方が相応しい程であり、鬱蒼とした雰囲気すら醸し出している。
 ――――無愛想な、とケヴィンは嗤った。如何にもあの男らしい。情の欠片も持っていない。この場にいないにも拘らず、全身で拒絶されているような心持ちに陥る。だが今更それを哀しいとは思わない。嘆くつもりも、期待するつもりも毛頭ない。…が、胸を陰鬱な靄がじっとりと覆い始めるのを、ケヴィンは止める事が出来なかった。そんな己をますます嫌悪してしまう。
 「――――帰るぞ、カール。」
 やはり、入るのではなかった。一層の孤独感に包まれ、踵を返しかけて、その時彼の金色の眼が部屋の隅のある一点を捉えた。
 ――――………?
 それらしい装飾品など何一つないその殺伐とした空間の中、一際異彩を放つそれにケヴィンの瞳は吸い寄せられた。
 微かに油の臭いが鼻につく。絵であろうか。被せられた赤いビロードの布が、きっちりと正方形を象っている。ケヴィンが両腕にやっと抱えられる程の大きさである。何故か胸騒ぎを覚え、少年はそろそろとそれに手を伸ばした――――





 「…オイ。女の買い物ってのは、何だってこんなに長いんだ?」
 心底うんざりした様子で大きな伸びをしつつ、デュランは隣のホークアイへと愚痴を零した。
 「さあねえ。女の子ってのはそういう風に出来てんだから仕方ないだろ?」
 飄々と返って来たその答えにあからさまな不満を示し、デュランはちっ、と舌打ちした。アンジェラとリースとシャルロットの三人が店の中へ入って行ってから、もうかれこれ二時間近くも経過しようとしている。
 此処は商業都市バイゼルの一角。一行が物資補充の為にバイゼルを訪れたのは昼過ぎの事であった。目当ては言うまでもなく、夜にのみ開かれるブラックマーケットである。普段は滅多に御目にかかる事の出来ない貴重な魔法系道具が所狭しと陳列されているブラックマーケットは、冒険者達には欠かせぬ「得意先」であった。
 いざ宿取りも済ませたものの、ブラックマーケットの開店時刻までにはまだ充分間があった。そこでここぞとばかりにアンジェラが提案した。
 「こういう機会も滅多にないんだからさ、他のお店も見て回っていいでしょう?始まるまでまだ時間あるんだから、ね?」
 特に断る理由もなかったので、デュランはそれにオーケーサインを出してやった。無駄遣いはするな、としっかり釘を刺して。――――それでも財布の紐をそう易々と預ける訳にもいかず、こうして店の外で延々と待たされているのではあるが。
 了解を出されるや否や、アンジェラは遠慮がちなリースを引っ張ってさっさと店へ入って行ってしまった。シャルロットもうきうきとついて行った。その店は服や装飾品の類を販売しているようだった。土地柄が土地柄なだけに、一王国の「姫君」の目から見ても珍しいものがあるのだろう。時折きゃっきゃっと楽しげな声が聞こえて来る。――――そういえば、ウェンディの誕生日に髪飾りをプレゼントした時、とても喜んでいたっけな――――そんな事を思い出しつつ、デュランは一つ溜息を吐いた。
 「あーっ邪魔くせえな……ケヴィン!いっちょ手合わせでもしねえか?」
 ケヴィンが反応する前にホークアイが割って入る。
 「やーめーとーけ。お前等にとっちゃ只の手合わせでも、一般人にとっちゃ大喧嘩だ。騒ぎになるのは御免だぜ?」
 「…わーってるよ!!……けどこんなトコにじっとしてるのも退屈で仕方ねえしよ……なあ、ケヴィン。」
 「えっ。…ウ、ウン。」
 急に話を振られ、ケヴィンが慌てて頷く。その時、店の中からアンジェラの甲高い声が響いて来た。
 「ねーえ!皆一寸来て来て!!」
 男三人は顔を見合わせ、何事だとばかりに中へ入って行った。アンジェラとシャルロットの両人はその場にいたが、何故かあと一人、リースの姿が見当たらない。リースは、とデュランが口を開く前に、アンジェラがばさりとその菖蒲色の髪を掻き揚げてみせた。
 「ねえデュラン!これ、どお?似合う?」
 良く見ると、アンジェラの少し尖った耳から、滴の形をしたイヤリングがぶら下がっている。大きすぎず、小さすぎず。彼女の冠型の髪飾りと同じく上品な深い青褐色をしたそれは、彼女が悪戯っぽく首を傾げたのに合わせて涼やかに揺れ、主をより上品に見せていた。まさに彼女の得意分野である。自分に何が一番良く似合うか、何を着ければ自分がより引き立つか、――――この少々我儘な氷の国の王女はそれを良く把握している。
 何故か自分をにこにこしながら見詰めて答えを待っているアンジェラを不思議そうに眺め、デュランは頭を掻きつつぼそりと言った。
 「……まぁ、いいんじゃねえの?」
 途端に少女はむっと唇を尖らせる。
 「あんたねえ、もっと気の利いた台詞が言えないの?」
 「……良く意味が分からねえが、俺にそういう芸当が出来ると思うのか?」
 「………開き直ったわね………。」
 傍で二人の会話を聞いていたホークアイが堪らず吹き出す。
 「…お前等の会話って、ホント漫才だよな。下手な芸人より面白ェよ。」
 「うるっさいわよそこ!!……あ、ねえケヴィン!あんたはどう思う?」
 「えッ…オ、オイラは……。」
 イヤリングを揺らして振り返り、にっこり笑うアンジェラをしげしげと眺め、ケヴィンは少し恥ずかしそうに頷いた。
 「ウン、キレイ。…でも、アンジェラは元々キレイだから、何も着けなくてもずっとキレイ。」
 「まああああ、ケヴィン!!!」
 ぱあっとアンジェラの顔が輝く。頬を上気させてそのままぐいっとケヴィンの首を抱き寄せ、突然の事に目を白黒させている少年の頭をわしわしと撫で回した。
 「ああ、ケヴィン!!あんたもそういう台詞が言えるようになったのねえ……。どっかのバカとは違って!!」
 感涙に噎ぶアンジェラに、「どっかのバカ」ことデュランがやけに大真面目に突っ込む。
 「……今夜のおかずで買収したんじゃねえだろうな?」
 「一寸それどういう意味。」
 腹を抱えてゲラゲラと爆笑するホークアイ。笑ってないで何とかしてくれ…、とケヴィンは多少恨みがましい気持ちでそれを見ていた。と、そこへ、少年の祈りが通じたのか、救いの声が憮然と投げ込まれた。
 「アンジェラしゃん、ケヴィンしゃんがこまってまちよ。」
 両手を腰に当て、呆れたようにシャルロットが溜息を吐いた。その声が少々不機嫌に、刺々しく聞こえたのは気の所為だろうか。
 「そのヘンでじかんかせぎはオッケイでち。こっちはもうとっくにじゅんびできてるでちよ。」
 「あら、そう。」
 けろっと言ったその台詞と共にケヴィンは漸く解放され、ほっと胸を撫で下ろす。デュランとホークアイが声を合わせて訊き返した。
 「時間稼ぎ?」
 うふふ、とアンジェラが楽しそうに笑った。
 「そ。今回アンジェラさんは前座なの。ぜ・ん・ざ。これからもっとスゴイもの見せてあげるから。」
 プライドの高いアンジェラが自らを「前座」と称するなど、そう滅多にある事ではない。それ程の何が控えているのか――――デュランとホークアイはますます首を傾げる。その時シャルロットの後方にあるカーテンからくぐもった声が聞こえて来た。
 「あっ…あのっ、アンジェラ、私はやっぱり……。」
 それが只一人この場に顔を見せていないリースのものだという事はすぐに分かった。煮え切らないんだから、とアンジェラは苦笑する。
 「何?このアンジェラ姉さんの前座じゃ不足なワケ?」
 「そ、そういう意味じゃ……っ!!!」
 「だったらさっさと出てらっしゃい。――――開けるわよッ!」
 その声と共にカーテンがさあっと勢い良く開けられた。どうやらその中は試着室になっていたらしく、大きな姿見が壁に立て掛けられていた。その前に、リースは立っていた。
 「――――!!」
 その姿に男性陣は思わず息を呑む。リースが着ていたのは普段の勇ましいアマゾネスの戦闘服ではなく、清楚なモスグリーンのワンピースだったのだ。
 襟はなく、胸の合わせはボタンの代わりに襟刳りから通された紐の蝶々結びで緩やかに留められ、胸元を可愛らしく彩っている。袖はゆったりとして二の腕の辺りで絞ってあり、余った布はカーテンのようにそこから自然に垂れて、それがフリルのように見える。腰に詰め物がしてあるらしく、スカートは腰からふわりと曲線を描いており、膝より少し下に来る程の丈があった。
 良く見ると、うっすらとだが顔に化粧も施されており、光の加減で時々薄いピンク色を帯びる唇が、清楚な中にも仄かに色気を漂わせていた。目を吸い寄せられながらも、おい、化粧まで、とちらちら目配せするデュランに、試供品よ、とアンジェラは得意そうに片目を瞑ってみせた。
 何時もの戦闘服の方が余程露出があり、それと比べてこのワンピースは大人しめの少女らしいデザインなのだが、普段は滅多に御目にかからぬ姿――――何しろ普段は魔物の返り血も恐れず颯爽と愛用の槍を振っているのだから――――だけに、却って新鮮な艶かしさすら感じさせていた。それでいて王女という出自により彼女が生来持ち合わせている気品が更に浮き彫りにされ、アンジェラのような華々しさはないものの、しっとりと清婉な装いであった。ぱん!と胸の前で両手を合わせてアンジェラが満足そうに言った。
 「ほーらね!やっぱ似合うじゃない!!あたしの見立ては間違ってなかったわ!!」
 嬉しげにリースに駆け寄り、胸元の紐を整えてやる。
 「元はイイんだからさ、リースももっと自分を磨く術を知らなきゃ。」
 「なっ、何を言ってるんですか!大体、ふ…、不謹慎じゃないですかっ、こんな時に、こっ、こんな……。」
 「ああら。それは違うわよ、リース。」
 心外だとばかりにアンジェラはリースを睨むような仕草をしてみせる。
 「女の子がキレイでいたいと思うのに、あんな時もこんな時もないのよ。それが――――」
 これもアンジェラの見立てで着けた、アクア色の丸い小さなイヤリングがぴったりと収まる耳元へ、こっそりと耳打ちする。
 ――――恋をしているなら、尚更ね。
 「………ッ!!」
 カッと耳まで赤くなったリースの肩を抱いて、アンジェラはリースをそのままホークアイの方へくるりと向き直らせる。
 「ねーえホーク!リース、綺麗だと思わない?」
 余りと言えば余りの出来事に、口をあんぐりと開けたまま――――この男にしては非常に珍しい事であるが――――瞬きすら忘れたようにほけっとりースを見ていたホークアイは、その台詞で漸くハッと我に返る。微かに頬を赤らめて慌ててゴホンと咳払いをした後、にっこり笑った。それはもう既に、常に冷静沈着で仲間に対しても抜け目のない、何時もの彼の表情であった。
 「…うん?綺麗だよ。」
 リースはその言葉に更に真っ赤になって俯く。
 「ま…、また、そんな、かっ、からかっているんでしょう、何時もみたいに!!…お、御世辞なんて、結構ですからっ!!」
 「あはははは。御世辞じゃないよ。ホントにキレイだってば。思わず――――」
 ニヤリと笑って素早くリースの手を取り、ウインクしてみせる。
 「――――今夜、襲っちゃいたいくらい。」
 「えッ………。」
 「……まーた出来もしないコト言って。」
 ぐい、とアンジェラが隣からホークアイの耳を引っ張る。イタタ、と大袈裟に痛がる振りをしつつ、ホークアイはけらけらと笑った。
 「いやはや手厳しいですなあ、アンジェラ姉さんは。」
 「…そうやって何時も何時もはぐらかしてると後で辛いわよ。」
 「俺ってばシャイなオトコだから。」
 「嘘吐き。」
 「…分かる?」
 互いに挑戦的な物腰で何やらひそひそと言い合っているホークアイとアンジェラを眺め、リースが思わずぼそりと呟く。
 「……あの二人、仲がいいですね。」
 「……俺には火花散ってるようにしか見えねえけどな。……まあ、一緒に旅してる訳だからな。仲悪ィよか、いい方がいいんじゃねえの?」
 漸くリースの姿にも慣れたらしいデュランも二人を見遣り、頭を掻きつつ答える。――――あの単純バカは、ホントデリカシー皆無でどうしようもないわ!と何時もアンジェラがぼやいている事を思い出し、リースは只苦笑した。そういう意味じゃないんですけど、という言葉を噛み殺しながら。
 「…デュランしゃん、リースしゃんがゆったのはそうゆういみじゃないでちよ。」
 四人の様子を見ていたおマセなハーフエルフの少女がまだ何処となくむすっとしながらほてほてと近付いて来る。
 「ああ?何だよソレ。」
 「べっつにぃ。これじゃさきがおもいやられるってハナシでちよ。…ね?ケヴィンしゃん。」
 そう言って先程から一言も言葉を発していない半獣人の少年の腕をくいくいと引き、相槌を求める。普段なら「ああ」とか「ウン」とか、非常に短いながらも確実に答えが返って来るのだが、今は何のリアクションも返って来ない。不審に思い、改めて見上げた。
 「ケヴィ――――」
 見上げて、瞬間何故か少女はどきりとして息が詰まりそうになった。
 少年は何かを惚けたように見ていた。頬はうっすらと上気し、口許は何か言いたげに少し開かれている。無邪気な中にも時に暗い翳りを帯びるその瞳は心なしか僅かに熱を帯びたように潤み、まるで夢と現の狭間にでもいるかの如く放心した表情が見て取れた。
 何を見ている?――――まさか、とシャルロットはその視線の先を追ってみる。果たしてそこにあったのは清楚に着飾ったリースの姿であった。刹那、シャルロットの心臓が更にずくんと跳ねる。
 見惚れている?あのケヴィンが、女性に?…女好きなホークアイならともかく、そのテの方向には些か疎い天然野生児のケヴィンが、着飾った女性に見惚れて放心するなど信じられぬ事態であり、今までにもそんな事は一度もなかった。しかも、相手はリースである。
 ――――あのホークアイですら、そんな「かお」はしなかった。
 そう思った時、頭にかっと血が上った。無性にむかむかした嫌な気分が突き上げた。わざと穏やかに話し掛けた。
 「………ケヴィンしゃん?」
 「……………キレイ………。」
 そんな微かな呟きが聞いて取れた。相変わらずその目は愛らしい風の国の王女に注がれたままだ。
 「ケヴィンしゃんッ!!!」
 思い切り怒鳴りつける。流石にビクッとしてケヴィンがこちらを見た。
 「え?あ、ああ…ゴメン、シャルロット。何?」
 その言い草。自分に話し掛けられたという事すら理解してなかったとでもいう程御執心だというのか。ますます面白くない気持ちを懸命に隠し、シャルロットは何とかポーカーフェイスを装うべく精一杯「にぃぃ」、と笑ってみせた。――――尤も、第三者から見ればどう贔屓目に見ても引き攣っていて却って恐ろしいくらいであったらしいのだが。
 シャルロットは胸元に着けていたシルバーピンクの花形のブローチをぐいと示す。
 「シャルロットもチョットオシャレしてみたでち。にあいまちか?」
 ケヴィンはきょとんとしてシャルロットを見た。ブローチとシャルロットを何度も見比べ、やがてにこりと素朴な笑みを浮かべて言った。
 「ウン。似合うと思うぞ?」
 最初からこの二人の遣り取りを見ていた者がいたとすれば、間違いなくカチーンという音が聞こえた事であろう。とうとう少女の堪忍袋の緒が切れたようである。ふるふると震えながら、シャルロットは据わった目でぎろりとケヴィンを睨み付ける。
 「……なあるほど。アンジェラしゃんやリースしゃんは『キレイ』で、このイタイケなびしょうじょシャルロットちゃんには『にあう』だけ、でちか………。よぉく、わかったでちッ!!!」
 「……ヘッ??」
 その剣幕に、思わずケヴィンはびくりと後退る。他の四人も突然の事に目を丸くして振り返る。シャルロットはブローチを毟り取ると、ぽいっとそれをアンジェラに投げて寄越した。
 「アンジェラしゃん、コレおみせのたなにかえしておいてでち。」
 無愛想に言い置いて、そのままスタスタと五人に背を向けて歩き出す。
 「ちょ、一寸シャルロット??」
 呆気に取られるアンジェラ。リースが慌ててその背に向かい叫んだ。
 「あ…シャルロット!!一人で余り遠くへ行っては――――」
 「うるさいうるさいッ!!!」
 思わずカッとして振り返り、叫ぶ。周りを行く買い物客までもが思わず足を止めた。
 「いっこしかちがわないのにコドモあつかいするんじゃないでち!そーゆーのは、シャルロットはもぉウンザリなんでち!!!ほっといてくだしゃいでちッ!!!」
 しんとその場が静まり返った。ハッとしてシャルロットは口を押さえる。しまった、言い過ぎた。今のは完全に八つ当たりだ。これではまるで、自分がリースに嫉妬したようではないか。
 「……シャルロット……?」
 戸惑うリースの瞳を見る事が出来ず、シャルロットは堪らなくなって再び踵を返し、歩き出す。我が身への怒りと羞恥で赤く染まった顔を見られないように。
 「……シャル!!!」
 デュランの声が聞こえた。
 「ブラックマーケットの場所、分かってんな!?…開店の時間にそこで待ち合わせだからな!いいな!!!」
 聞こえたのか聞こえていないのか、ずんずん歩いて行き、小さくなっていくその後ろ姿を五人は静かに見送っていた。
 違う。断じて違う。嫉妬ではない。これは、女のプライドの問題だ。
 下唇をぎゅっと噛んで、ひたすら少女は歩き続けた。





 「……聞こえたかな、アイツ。」
 前方を見つつ溜息と共に呟いたデュランに、アンジェラが答える。
 「……あんたの馬鹿デカい声が聞こえない筈ないでしょうよ。それに――――」
 口にこそ出さなかったが皆その点については安心していた。獣人程ではないものの、エルフの聴覚はヒトの何倍も優れている。エルフの血を半分引いているシャルロットになら、デュランの声は充分聞こえる距離であったろう。
 「………そんなコトより、追わなくて大丈夫だったの?あたしはそっちの方が心配なんだけど。」
 「…アイツも意地っ張りだからな。今は一人にしておいた方が却っていいだろ。」
 「だな。」
 デュランの考えにホークアイも同意する。
 「見た目程お子様じゃない。…一寸頭冷やせば戻って来るだろ。だから――――」
 ホークアイは先程から肩を落としている二人を見遣って苦笑した。
 「ケヴィンも姫さんも、そんなカオすんなって。」
 「ええ……そうですね………。」
 力なく微笑み、着替えて来ますね、とリースは試着室へ戻って言った。あ、勿体ない、とホークアイがぼそりと呟くのを聞いてデュランがコツンとその二の腕を小突く。
 「ほれほれアンジェラ。お前も早くイヤリング戻して来い。どさくさに紛れて買おうとしてもそうはいかねえからな。」
 「んもう、分かってるわよ。」
 イヤリングを外しながらアンジェラは頬を膨らませた。そして外したイヤリングを戻す為に駆けて行く。
 「……さあて。」
 デュランは思い切り伸びをした。結局何時間立たされ続けた事か。幾ら傭兵として鍛え上げられた肉体とはいえ、限度がある。旅の疲労も手伝って、そろそろ膝が悲鳴を上げそうであった。まだ動き続けていた方がマシだったとデュランは思う。
 「宿で暫く寝かせて貰うぜ俺は。……ケヴィンはどうする?」
 返事はない。ケヴィン?…もう一度その名を呼ぶ。
 少年はまだ見ていた。ハーフエルフの少女が――――恐らく自分が怒らせてしまったであろう少女が消えていったその先を。……そう、リースが悪いのではない。悪いのは、きっと自分なのだろう。
 「オイラ……何か、悪い事言ったのかな?」
 振り返ってそう言ったケヴィンの肩を、デュランは宥めるようにぽんぽんと叩いた。お前も、少し休んだ方がいい。そう言って苦笑した。





 どうして自分は大きくならないのだろう。何時になったら「オトナ」になれるのだろう。何度も祖父に訊いた。――――祖父はその度に困ったような顔をして少女の頭を優しく撫でた。
 ――――儂にも分からないのじゃよ、シャルロット。…ハーフエルフなぞ、前例のない事じゃからの………。
 それが何時もの答えだった。その答えが返って来ると分かっていても何度も訊ねてしまう。そして、苛立ちと焦りだけが募ってゆくのだ。
 ――――どうして。
 エルフは何時までも若くて羨ましい、などと冗談のように言う輩もいる。冗談じゃない、とシャルロットは思う。年齢相応に成長出来ない、それがどんなに苦痛かを。
 この世界の何処かにあるというエルフだけの国で過ごしていたならばそれも良かろう。だが、自分はヒトの世界で生きているのだ。ヒトの世界で暮らしているのだ。その所為であんな目に遭う。……きっと傍から見れば自分はあの五人の内、誰かの弟妹のように見えるのだろう。実際は、そんなに歳は離れていないのに。それなのに、何時も「コドモ」扱いされて。「女性」としても見てもらえなくて。
 ……リースとは一つしか違わないのに、あんなに態度が違う。だが、大きくなれたなら、きっと自分はあの王女達に負けないと思う。相手は王族なのだから、血筋は劣るかもしれない。が、容姿は悪くない、と思う。決して引けは取らない。
 どんなに素晴らしいだろう。首が痛くなる程見上げ続けるのではなく、皆と同じ視線で話せたら。肩を並べる事が出来たら。考えただけで昂揚感が包んでくれる。……ヒースに抱っこしてもらえなくなるのは一寸寂しいかもしれないけれど。
 エルフでもあり、ヒトでもあり。
 同時に、エルフでもなく、ヒトでもない。
 …オトナでもなく、コドモでもない。
 ――――どうして。
 これは袋小路だ。この思いからは、抜け出せない。何時しか口許に自嘲の笑みが滲む。



 ――――どうして私は、エルフの血など引いているのだろう。



 「……もし?」
 しわがれた声に突然呼び止められ、少女はハッとして振り向いた。
 「何かお悩みかね、娘さん。」
 「………?」
 刹那感じた奇妙な違和感。何故そう感じたのは分からない。そこには杖を突いた一人の老婆が佇んでいた。
 漆黒のローブを身に纏い、頭部からはフードをすっぽりと被っている為、表情は良く分からない。が、袖から見え隠れする、骨と皮だけと言っても差し支えない程貧弱な指先が、この老婆が相当老齢である事を示していた。老婆はニヤリと笑った。歯は殆ど抜け落ちていた。
 「……あんたが見えた。だから、喚び寄せた。」
 そう言って掌に収まる程の大きさである透き通った水晶球を差し出して見せた。
 そういえば此処は何処なのだろう。少女は改めて周囲を見渡した。
 ――――あ、れ?
 バイゼルの街の石畳を歩いていた筈なのに、何時の間にか鬱蒼と茂った緑の森の中にいたのだ。草木の匂いを含んだ清涼な空気に、仄かに聞こえる小鳥の囀り。余りに長閑な、突然眼前に展開されたかに見える風景に、少女は唖然とする。――――喚び寄せた。老婆の言葉をふと反芻する。どうやら自分は、この如何にも妖しげな老婆の作り出した「結界」の内に、何時の間にか喚び寄せられてしまったらしい。
 「……あんたしゃん、タダモノじゃないでちね。」
 何時も庇ってくれる仲間はいない。文句も言わずにボディーガードに徹してくれる、心優しい半獣人の少年もいない。にも拘らず、シャルロットの思考回路は不思議な程に冷静であった。何故か恐ろしさは感じなかった。寧ろ、何処か――――
 懐かしい。
 浮かんだその感覚に首を傾げる。何故?今初めて会った筈のこの老婆に。
 「……心配しなくて良い。怪しい者じゃないよ。しがない占い師の婆さね。」
 「……じゅうぶんアヤシイでちよ。」
 「……面白い娘だね。」
 老婆はひひ、と笑った。手にした杖ですっと右方向を示す。
 「……お茶でも飲んで行くかい?」
 こんな森の中の一体何処にそんな場所が、と言い掛けてシャルロットは目を見張る。老婆の杖が示した先に、これも何時の間にかぽつねんと小さな掘っ立て小屋が建っているではないか。
 「……あんたしゃんも、ずいぶんおもしろいでち。」
 その幼い顔に不釣合いな程の不敵な笑みすら浮かべつつ――――老婆の先導のまま、惹き寄せられるように、シャルロットは小屋へと入って行った。





 「それで一方的にぶちまけて、身勝手な自己嫌悪に陥った挙句にいじけて逃げて来た、って訳かい?」
 「……ウ、すくいようのないいいかたでちねぇ……。」
 今更ながらに己の犯した「悪行」を思い出し、砂糖をたっぷりと入れた紅茶をこっくんと喉に流し込む。とても甘い筈の液体が、ほろ苦く胸に広がる。
 でも、とシャルロットはカップを勢い良く口許から机へと戻した。がしゃん、と音がした。カップに罪はないよ、と老婆が苦笑する。
 「たったしかにシャルロットもわるいコだったでちが、みんなだってヒドイでち!!リースしゃんばっかりキレイキレイって、シャルロットは『いっこ』しかちがわないんでちよ!?…ケヴィンしゃんなんかぽーっとしてて、もぉみてらんなかったでちっ!!」
 「……ケヴィンしゃん?」
 「シャルロットの『しもべそのいち』でち。」
 即答するシャルロット。
 「おや驚いた。あんたに僕がねえ。」
 老婆の反応に気を良くしたシャルロットは、ふふんとふんぞり返ってみせる。
 「そうでち。ケヴィンしゃんは、このシャルロットがいないとなーんもできないおこさまでち。だから、しもべにしてあげたんでち。」
 「ははん、成る程。」
 「ちなみに『しもべそのに』はデュランしゃんで、そのつぎが――――」
 「……あー。それはもうええから。」
 適当に遮られ、シャルロットは少し残念そうに眉根を寄せた。
 「…そうでちか。…アレ?いったいなんのおハナシだったでちかね?」
 可愛らしく首を傾げつつクッキーをパキッと齧る少女に老婆は苦笑した。クッキーの粉と紅茶で口の周りがべとべとである。これは後で拭いてやらねばなるまい。
 「――――だが。」
 ふと声を低めて老婆が呟いた。シャルロットはクッキーを齧りながらも訝しげに彼女を見た。その眼を、ガラス玉のようだ、と老婆は思った。些かの疑念も怖れもなく、只素直に無垢な瞳でこちらを見詰めている。いずれ理不尽とも思える逃れられぬ運命の前に、その瞳が翳りを帯びる事があるのだろうか。ならば、いっそ。



 己が引導を渡してしまおうか。今、此処で。



 そう考えた時、無性に可笑しくなって、老婆は薄く笑った。干渉はすまいと思っていたが、この憎らしい程にあどけない少女を見ていると、つい御節介をくれてやりたくなる。
 「大人のナリだろうが子供のナリだろうが、あんたはあんただろ?」
 優しく言った、それも一つの御節介である。刹那、少女がむっと唇を尖らせた。
 「そのテのセリフはききあきてるでち。」
 ある時は祖父に。ある時は憧れの青年神官に。――――幾度となく聞かされた台詞だ。
 大事なのは、お前がお前である事じゃよ。
 どんな姿であろうと、君が君でいる限り、僕はシャルロットが大好きだから。
 ――――そんな事は分かっている。自分だって莫迦ではないのだ。見てくれだけで自分を差別するようなさもしい人間など、聖都にはいない。皆、優しくしてくれる。分かっている。理屈では理解している。――――だが。
 愚かだと嗤われようと、今尚割り切れぬ想いがある、虚しくも理屈に置いてきぼりにされた「心」。――――それは一体何処へ行けば良いのだろう。同年代の娘達が美しく着飾り、華やかに談笑している様を見るとふつふつと沸き上がって来る嫉妬と羨望、疎外心。まるで自分が馬鹿にされているようで、そしてそんな事を感じる自分がこの上なく醜いモノに思えて。そんな時決まって出て来るのは溜息だ。――――そのくらいの事、感じたとしても、憐れみを受けるのならともかく、責められる謂れはないと思う。
 大体今日アンジェラがリースを変身させようと提案した時も嫌な予感はしたのだ。また自分は向き合う羽目に陥るのか、それらの嫌な思いと。…結果は、案の、定だった。
 少女は唇をきゅっと噛んだ。――――どうにもならない事は分かっている。だからこそ、余計に悔しいのだ。開き直る事が出来る程、私は強くない。
 「そんな事言ってもねぇ、ある日突然あんたの姿形が変わっちまったとして、たとえあんたがそれで満足したとしても、誰もあんただと分かってくれなかったら意味がないと思うがね?」
 老婆が問う。シャルロットは人差し指をぴんと立て、ちっちっちっ、と揺らしてみせた。
 「ソレはさっきおばーしゃんがゆったコトと、『むじゅん』してるんじゃないでちか?どーゆー『ナリ』をしようと、シャルロットはシャルロットでち!」
 それを聞いて老婆はニィ、と笑った。机に肘を着き、両手を組んでそこに顎を乗せ、心持ち頭を傾ける。
 「――――なら、試してみるかい?」
 「――――エ?」
 顔を上げた時思わず目を丸くしてしまったのは、すっぽり被ったフードの奥底から僅かに見える老婆の眼が、年老いた者のそれではないような気がしたからであった。恰もぬくぬくと眠っていた悪戯好きの仔猫が、ある拍子に目を覚ましてしまったかのような――――心なしか彼女の声も弾んで聞こえる。
 「あんたも思っているんだろう?その『しもべ』達を、少しは困らせてやりたいと。…それに。」
 老婆の指先がゆっくりと弧を描き、恰も獲物に照準を合わせるが如く、ぴったりと少女の鼻先で止まる。
 「あんたのお仲間とやらを、アタシも見てみたい。」





 「……ッたく、何やってんだアイツは……!!もうとっくに開店しちまったってのに――――」
 ブラックマーケットの閉店時刻まで後約半時。遂にデュランが苛立った声を上げた。
 「…まさか、何処かで迷子になっているのでは――――」
 「ああ、それはナイナイ。」
 青褪めて零したリースを、ホークアイがあっさりと否定する。
 「ココにはもう何回も来てんだぜ?おまけにそれ程だだっ広い街でもない。ナリは小さいが、アイツもまるっきりのお子ちゃまって訳でもないんだ。迷子だとか考えるよりは寧ろ――――」
 すっと細められたその瞳はあらゆる可能性を模索し、好戦的な光すら宿し始める。
 「――――どっかの物好きに連れ去られたとか、或いは付いて行ったとか、何かに巻き込まれたとか……そう考えた方が自然だな。」
 全く以って穏やかではない内容を、何でもない事のようにさらりと言ってのける。只、普段より低められた、用心深い、這うようなその声音は、焦燥より尚一同の戦慄を掻き立てる。
 「――――オ、オイラ、探して来る!」
 弾かれたように、真っ先に駆け出したのはケヴィンだ。只の一度も振り返る事なく、今や人っ子一人見えぬ閑散とした通りを走り抜けて行く。デュランは、その姿が完全に闇と同化してしまう前に、一通り探したら戻って来いよ、と声を荒げるのが精一杯であった。
 少年が消えて行った闇を見詰めつつ、ホークアイが苦笑した。
 「――――ちと、脅かしすぎましたかね。」
 「あっきれた!冗談だったワケ!?」
 「――――不謹慎じゃないですかッ!?ホークアイ!!」
 途端に非難の目を向ける女性陣に対して、ホークアイはとんでもない、と手を顔の前でひらひらと振ってみせた。
 「俺は可能性というヤツを言ったまで。それ以上でもそれ以下でもない。」
 可能性や事実は、それはそれとしてさらりと言い捨てる。――――たとえそれが考え得る最悪の内容だったとしても。それがホークアイという戦友の性格だ。だからデュランは少々困った顔をしただけで何も言わなかった。
 「――――という訳で、御意見をどうぞ。リーダー?」
 腕を組み、じっと考え込んでいたデュランは、その声に漸く顔を上げる。
 「決まってンだろ。シャルを探す。――――只。」
 三人をゆっくりと見渡し、きっぱりとした口調で告げた。
 「…只、物資補給をこれ以上遅らせて出立を遅らせる事は出来ねえ。だから買い物班とシャル捜索班、二手に分かれる。買い物班は済み次第捜索に合流。」
 「…いいんじゃないの?」
 ホークアイがにこりと満足そうに笑う。リースもこっくりと頷いた。
 「よし、じゃあホークは買い物を――――」
 その時、何かを思い立ったらしいアンジェラが、ばふっとデュランの口を塞いだ。何故かやけに表情がきらきらと輝いている。
 「じゃあ、ホークとリースは買い物頼むわね。あたしとデュランはあっちの方を探して来るわ!終わり次第あんた達は向こうの方から探す。ハイ決定!行きましょッデュラン!」
 三人に口を挟む暇も与えぬ程一気に捲し立て、腑に落ちない表情をしたデュランの腕を取り、呆気に取られるホークアイとリースを置いてさっさと歩き始める。
 「……オイ。どうでもいいけどよ。何仕切ってんだ?お前……。」
 ぼそりと言ったデュランに、アンジェラは、それがさも重大な事のように少年の耳に手を当てひそひそと囁いた。
 「――――バカね。イイからたまには気を利かせなさいよ!」
 瞬間きょとんとしたデュランだが、やがてむすっと顔を顰める。
 「………『木を聞かせる』?」
 「……………。………あんたに『気を利かせろ』なんて言ったあたしが悪かったわ……………。」
 がくりと肩を落とすアンジェラ。デュランはそんな彼女を見てますます怪訝な顔をする。結局彼は疑問符を顔に幾つも浮かべながら、そのままアンジェラに引き摺られて行ったのであった。



 「……全部聞こえてんだよ、御節介。」
 見送ってぼそりと呟くホークアイ。どうせならもっとさり気なく気遣って欲しいものだ。こんなに露骨では、リースが気の毒――――
 「……?」
 ふとそこまで考えて、彼は薄い笑みを漏らした。俺も偽善者になったもんだな。困っているのは……彼女よりも、自分だろう?
 「………ホークアイ……?」
 リースがおずおずと声を掛けた。気付いて彼はニッコリ笑う。
 「何でもないよ。――――んじゃ、俺達も行こっか、姫さん。」
 「……エエ。」
 歩きかけて、ふとリースは問う。
 「ホークアイ、もし……。」
 もし、シャルロットが見付からなかったら。
 ホークアイは苦笑した。まだ原因が自分にあると思っているのか。本当にこの娘は頑なで、真面目すぎていけない。
 「『見付からなかったら』じゃない。見付けるのさ。…もっと、楽に行こうぜ?」
 「……そう、ですね……。」
 そう言ったものの、表情は未だに暗い。やれやれ、と首を振り、少年はぐい、と少女の腕を取る。そのままブラックマーケットの入口へと歩き始めた彼へと、慌てて少女は声を掛けた。
 「えッ……な、何ですか!?」
 「何って。人込みではぐれちゃ困るでしょ。」
 振り向いてにこりと微笑んだその表情に、少女はかぁっと頬に血が上って行くのが分かった。見られまいと慌てて俯き、ぱっとその手を振り払う。
 「必要、ありません!……行きましょう。時間が勿体ないわ。」
 厳かに輝く金髪を揺らし、するりとその脇を擦り抜けて歩いて行く王女の後ろ姿。少年はクスリと笑う。
 ――――そうそう、その方がキミらしい。
 多少の皮肉を込めて小さく呟き、何もなかったように軽やかな足取りで彼はその背を追った。





 「草木も眠る丑三つ時」という言葉が何処かの国にあるらしい。
 ――――まさに、その通りだな。
 そんな事を思いつつ、デュランは溜息を吐いた。
 とっぷりと日も暮れ、バイゼルの街は密やかに眠りに落ちた。まっとうな暮らしをしている住人なら外出するような時刻ではない。今頃はそれぞれ夢の中へと誘われている筈である。闇の中を人知れず徘徊するモノ、それがあるとすれば、店仕舞をして仮の宿へと歩を急ぐ、闇の商人達くらいのものであろう。
 一通り街中を見回ったデュランとアンジェラは、念の為、と思い街の外まで足を伸ばしていた。余り離れるとアンジェラが文句を言うので、お互いの姿が確認出来る程の距離を保ちつつ、二人は手分けしてシャルロットを探していた。
 静かだった。草の葉を撫でて行く風の音が聞こえる。風の音と雑じって、何処かで呑気に眠りこけているラビの寝息すらも聞こえて来そうな、澄んだ空気である。ぼうっとこんな夜風に吹かれるのも気持ちが良いだろう。……勿論このような時でなければ、だが。
 「――――シャル!何処だ――――ッ!!!」
 多少の近所迷惑になるかもしれないが仕方がない。今は非常事態なのだ。デュランは歩き回りながら声を張り上げた。そして、耳を澄ます。僅かな音すらも聞き漏らすまい。何しろ暗くて視界が悪いと来ている。
 ――――キャッ!?
 その時、少女の悲鳴がデュランの耳を劈いた。残念ながらと言おうか、それは今彼が探している少女のものではなかった。
 「――――アンジェラッ!?」
 声の主の名を呼び、駆け出した。幸いそれ程離れている訳ではない。程なく暗闇の中に彼女の姿を発見した。薄墨のような靄の中に、アンジェラの白い肌がぽうっと浮かんでいる。無事な姿に一瞬ほっと胸を撫で下ろし、駆け寄る。
 「何だよ、いきなり妙な声出しやがって。」
 「あ……、デュラン!!」
 心なしかその頬は青褪め、震えていた。たおやかな指が、すっと叢の中の一点を指し示す。
 「……い、今、あそこで何か動いたんだけど。」
 「はぁ?」
 些か間の抜けた声と共に、アンジェラの人差し指の方向を見遣る。すると、ガサリと叢が揺れた。ヒッ、と小さく声を上げ、アンジェラがデュランの背中へと回る。身を硬くし、デュランは闇を凝視した。そっと剣の柄に手を掛け、前方を見据えたまま、下がってろ、と低く呟く。場合が場合なだけに、普段は跳ねっ返りなアンジェラも素直に頷いた。それをきっかけに、デュランは叢へじりじりとにじり寄る。
 そのまま叢と睨み合ってどのくらいの時間が経ったのかは分からない。本当はそれ程経っていないのかもしれない。デュランは気を許す事なく前方を睨め付けていた。しかしいい加減に疲労はじわじわと忍び足でやって来る。首筋を汗がすっと流れ落ちる。――――本当に今日は疲れる事ばかりだ。これ以上こちらの緊張が解れる前に、仕掛けるか?そう思い、すらりと剣を抜き放ったその瞬間、急にザザッと叢が揺れて何かが飛び出した。
 「――――ッ!?」
 咄嗟に顔面を庇った。目を閉じる前に微かに黄色い物体が飛び出して来るのを見た。来るべき衝撃に備えて両足を踏ん張り、ぎっと歯を食い縛る。……しかし、それがやって来る気配は微塵もない。
 「………?」
 そろそろと目を開ける。瞬間、ぎょっとして彼は思わず後退った。
 一メートルと離れていない位置に、巨大な黄色の物体がある。引力に従うように垂れ下がる、小さな耳。口許から覗く、小さいながらも殺傷能力を持ち合わせるげっ歯類のような歯。魔物のそれとは思えぬ程に愛らしい、くりくりと忙しく動く瞳。ふわふわとした、綿毛のような、丸い尻尾。黄色いふかふかの体毛。――――彼等は充分にこの生物が何であるかを知っている。何時の間にかデュランの後ろへ来ていたアンジェラが、呆けたように言った。
 「……ラビ、よね。」
 「……ラビ、だな。」
 そう返す外ない。冒険者達にとって、このラビという魔物は危険度ランクからすれば最下位に位置する程弱い部類である。無論、此処まで幾多の戦闘を潜り抜けてきたデュラン達にとってもそうである。故にそれ程警戒する相手ではない。
 だが、それでも尚斬り掛かるのを踏み止まらせたのは、その大きさであった。亜種であるラビリオンやキングラビよりも、若干大きいような気がする。新種かもしれない。それならば、こちらにとって全く未知の敵という事になる。何か厄介な能力を持っているかもしれない。迂闊に挑むのは危険だ。ゆっくりと剣を構え直す。が、その手に、アンジェラが制するようにそっと触れた。
 「待って、デュラン。」
 「な、何だよ。」
 「……あのコ、あたし達を襲うつもりはないみたい。」
 確かに、殺気を感じない。危害を加える気があるのなら、飛び掛る機会はあった筈だ。それなのに、相手は一定の距離を保ちつつ、こちらの出方を窺うようにじっと見ているのみである。
 こちらも負けじと睨み返す。その内、デュランは何とも奇妙な感覚を覚え始めていた。
 「……俺はどうやら可笑しくなっちまったらしい。」
 「あんたが可笑しいのは何時ものコトでしょ。」
 「オ・マ・エ・な・あ!!!」
 「ジョウダンよ。で、何。」
 何だってオマエは何時もこんなに突っ掛かる物言いをするんだ。そう言ってやりたいのをぐっと堪え、デュランは言った。
 「……何だかな。あのラビ、どっかで会ったような気がするんだよな。」
 と、アンジェラが目を丸くした。
 「アラ、あんたも?……あたしもさっきから、誰かに似てるような気がしてたのよねー……。妙に親近感が湧くっていうか……。」
 言うまでもなく、魔物に知り合いなんぞいる訳もない。二人で顔を見合わせ考え込んでいると、ぽよん、という妙な音が聞こえた。見ると、問題のラビが方向転換して二人に背を向け、何時の間にやらぴょんぴょんと移動を始めているではないか。しかも図体が大きい割になかなか素早い動きだ。このままでは姿を見失う。
 「……追うぞ、アンジェラ。」
 「ヘッ?何でよ??」
 アンジェラの返事を待たず、既に走り出していたデュランは走るのを止める事なく束の間振り向いて叫んだ。
 「勘だ!悪いか!」
 そのまま前方に向き直り、砂煙を上げそうな勢いで全力疾走して行く。あのラビ、見掛けに寄らず相当速いらしい。あっという間に少年の背が小さくなっていく。ぽつねんとアンジェラ一人がその場に残された。嵐の前ならぬ、嵐の後の静けさである。
 「………別に、悪くはないけどさ。」
 腕を組み、呆れたように呟いた。
 実際、その「勘」とやらにはこれまで何度も助けられて来たのだ。今でこそ慣れっこになったものの、当初は「考えなし」と罵れば逆に「理由なんざ後からついて来る」と如何にも尤もらしい事を言い返され、仲間が総出で止めに入らなければならぬ程の大喧嘩に発展したものだった。
 ――――あれでも、リーダーとしては結構頼もしいのよね。
 思わず口許を綻ばせてから、現状に気付いてハッと我に返る。慌てて彼女も走り出した。
 「ちょっと!!夜中に女のコ一人こんなトコに置いて行かないでよ――――!!!」
 全力で走りながら少女は思った。
 前言撤回。リーダーならば、あのデリカシーのなさだけは何とかして貰わなくてはならない。





 所変わってホークアイ・リース組。
 無事買い物を済ませた二人はとりあえず荷物を宿屋に預け、シャルロットを捜索すべく街中を駆けずり回り、とうとう二手に分かれてそれぞれ街外れにまで捜索範囲を広げていた。
 「………どうでした?」
 合流して開口一番、リースが肩で息をしつつホークアイに問う。ふっと溜息を吐いて彼は答えた。
 「いや。そっちは。」
 「………。」
 その問いに、リースも力なく首を振る。ずしりと重苦しい空気が二人を包んだ。ややあって、ホークアイが辛うじてその空気を破る事を試みた。
 「………そういや、ケヴィン見たか?」
 「ケヴィン?いいえ………。」
 駄目だったか、と少年はかくりと肩を落とす。
 「そっか……どーこ行ってんだかなあ、アイツ………。」
 「本当に………。」
 ほうっと溜息を吐き、リースは俯いた。
 二人共に、ケヴィンの姿はあれから一度たりとも見ていない。帰って来るかと思い、ブラックマーケットの前で暫く待ってみたが、彼は姿を見せなかった。デュランの言葉は聞こえていた筈だが、シャルロット捜索に熱を入れる余りそれは脳裏からキレイに飛んでしまっているのだろう。何しろ、捜索対象の少女とは歳も同じで、最も仲の良かった彼なのだ。
 「アイツの鼻でも駄目となりゃ、難しいよなあ………。」
 天を仰いでホークアイが呟いた時、遠くからその場にそぐわぬ間の抜けた音が聞こえて来た。ぽよん、ぽよん、ぽよん。二人は思わず顔を見合わせた。
 「………何の音かしら……?」
 「………さあ……………。」
 すると、音のする方向から黄色い物体が近付いて来るのが見えた。見た目によらず動きが速いらしく、その姿はどんどん大きくなって来る。やがてそれをハッキリと確認出来た時、ハッとしてリースが風を切るように槍をぶん、と前方に突き出した。臨戦体制の構えだ。
 「ラビ!?こんな街外れにまで!!!」
 「――――ッ!?姫さん、一寸待った!!!」
 目を凝らしてラビを観察していたホークアイが何を思ったか素早く腰より抜き放ったダガーを一閃、槍の柄を弾き、その軌道を逸らす。槍とダガーではそれが関の山だ。驚いたらしいラビが訳の分からない声を出しながら飛び退る。すかさず回り込んだホークアイがふわりとラビを抱え込んだ。
 「ホークアイ!?何をするんです!!危ないじゃないですかッ!!!」
 「落ち着けってリース!!今のキミは冷静さを欠いてる。……全く敵意のないラビを相手にする程今の俺達は暇じゃないだろう?」
 なあ?そう言ってホークアイはラビを抱き上げた。只のラビにしては大きいような気もするが敵意がないのは間違いない。何しろラビというのは、人を襲う事さえなければそのままペットとしても通用するくらい、見た目は愛らしい生き物なのだ。
 「――――貴方が、冷静すぎるんです。」
 ラビに敵意がないのを今は漸く見て取ったか、槍を収めたリースが少々決まり悪そうにぼそりと呟く。憎らしいくらいに、という言葉は敢えて喉の奥に流し込んだ。
 「俺、真面目さがウリだし。」
 「……何時誰がそんな事を言いました?」
 すっかりヘソを曲げてしまったリースに苦笑し、腕の中にいるラビをじっと見詰めた。考えてみればラビの顔をこんなにも近くでしげしげと観察出来る機会など滅多にあるものではない。見れば見る程愛嬌のある顔をしている。そう――――見れば、見る程。
 「………?」
 ホークアイは首を傾げた。そんな筈はないのだが、奇妙な感覚が湧き上がって来る。両手でひょいと自らの顔の高さまで掲げ、何気なく呟いた。
 「……キミさあ、どっかで俺と会った事ない?」
 言ってから思わず苦笑した。これではまるで行きずりの女達への安い誘い文句のようではないか。同じ事を連想したのか、リースも呆れたようにこちらを見ている。
 「……ラビにまでそういう事を言うんですか?貴方は。」
 ホークアイはそれを聞いてさも楽しそうにニヤニヤと笑った。
 「あっれ〜?もしかして妬いてくれてんの?姫さん。」
 途端にリースはカッと頬を赤らめた。
 「なっ、何で私が妬かなければならないんですか!!」
 「だよなあ。そんな筈ないよな。」
 邪気のない顔でニッコリ微笑み、何もなかったかのように再びラビへと視線を移す。何時もそうなのだ。懐深く斬り込んで来たかと思えばこちらが拍子抜けするくらいあっさりと飛び退ってしまう。
 ――――このひとの本気の境界線は、何処にあるのだろう。
 ふと浮かんだ想いを慌てて振り払う。今はそんな事を考えている場合ではない。それに、不思議な事だが、確かにホークアイの言う通り、ラビの顔に微かな既視感を覚える。一体これはどういう事か――――その時。
 「お――――い!!!!!」
 耳慣れた声がこちらへ向かって来る。気付いて振り向くと、彼等のリーダーである少年の姿が小さく見えた。デュラン?二人は怪訝な表情でそれを見た。デュランはホークアイの腕の中にいる謎のラビを見ると、何処か嬉しそうに、張りのある声で叫んだ。
 「でかしたッホーク!!そいつ放すな――――!!!」
 「………はぁ?何だって??」
 納得しかねる表情をしつつも、ちゃっかりとラビを抱く腕にぐっと力を込める辺り、やはり抜け目のない男ではある。やがてデュランの大分後方より、アンジェラの姿も見えて来た。彼女より一足先にデュランが二人の許に到着する。ぜえぜえと肩で息をする彼に、リースが訊ねた。
 「デュラン?このラビがどうしたんです?シャルロットは??」
 「お前等、こそ、シャル、ロットは――――!?」
 「一寸、デュラン!!!ヒドイじゃ、ないのよ!!置いてくなんて――――」
 デュランが切れ切れに答えている間にアンジェラも又到着。二人の様子にホークアイは、御苦労さん、と苦笑した。
 「……アンジェラ、どういう事です?!」
 「知らない、わよ!ウチのリーダーお得意の、『勘』ってヤツ!」
 「………勘??」
 「オイオイオイデュランちゃん。仰せの通り捕まえておりますが、どうする気だコイツ?」
 それぞれの反応を示す仲間達を見て、デュランはキッパリと告げた。
 「どうするかは……今から決めるッ!!」
 がくりとホークアイが頭を垂れる。
 「オマエ……毎回その『勘』のフォローをしなくちゃならん俺の事も考えろよ………。」
 「でもなあ、気になるだろ?俺もアンジェラも、コイツ見た時何か妙な気分になっちまってさ。」
 「妙な気分?」
 ホークアイとリースが同時に訊き返す。
 「まさか、それって――――」
 「えッ?あんたも??」
 言い掛けたリースにアンジェラの声が重なる。瞬間しん、とその場が静まり返った。夜本来あるべき静寂が、ひと時だけ戻った。デュランが、確認するように全員を見渡した。
 「――――皆、思ったのか?『どっかで見た』とか。」
 神妙な面持ちでアンジェラとリースが頷いた。刹那、ホークアイが何かに気付いたようにハッとしてラビを覗き込んだ。
 「お前、まさか――――」



 「――――シャルロット。」



 「――――!!」
 突然の声に四人は振り返った。
 そこには、何時の間にいたものか、ひっそりとケヴィンが立っていた。金色に瞬く眼でラビをじっと見詰め、何でもない事のように、その唇がゆっくりと繰り返す。
 「――――シャルロット。」
 アンジェラとリースが顔を見合わせる。
 「……お前、何でそう思うんだ?」
 デュランが静かに訊ねた。
 「何でって…?」
 ケヴィンはきょとんとして小首を傾げた。心底不思議そうに四人を見渡し、ラビを指差し、やがてぽつんと言った。
 「――――だって、シャルだろ?」



 大人しくホークアイの腕に抱かれていたラビが、うねうねと暴れ出したのはその時である。
 「あっ、コイツ!!」
 ホークアイが慌てて押さえ込もうとしたが、ラビは器用に身体を左右に震わせ、壺から這い出る鰻のようにするすると抜け出そうとする。
 やがて頭が抜け、胴が抜け、最後にすぽんと尻尾が抜けた。抜けた勢いで空中を舞い、その姿が閃光と共にぱん!と弾けた。
 その眩いばかりの閃光に五人は思わず顔面を覆い、目を瞑った。同時にケヴィンは何かが胸にどさりと覆い被さって来るのを感じた。それは良く知った匂いがした。良く知った小さな、紅葉のような手が少年に縋り付いた――――
 ――――ケヴィンしゃん!!!



 五人が漸く目を開けた時、その少女はいた。
 真夜中に四方八方駆けずり回って捜した、ハーフエルフの、小さな少女。
 我儘でおマセな、でも憎めない、回復魔法の使い手。
 彼女は仲良しの、半獣人の少年の胸にしっかとしがみ付いていた。少年はといえば、呆気に取られて目をぱちくりさせている。
 「――――ケヴィンしゃん。」
 はちきれんばかりの笑顔で、彼女はぽろぽろと涙を零した。
 その時、漸く少年は我に返った。応えるように少女の背に腕を回し、壊れ物でも扱うかのように慎重に、しかし確かな温もりを以って――――きゅっと抱き締めた。
 四人が見守る中、彼は眼を閉じて穏やかに呟いた。
 「――――お帰り、シャルロット。」





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