「………あのおうちでち。」
シャルロットが指差した方向には、確かに小さな掘っ立て小屋が建っていた。五人は緊張した面持ちで頷き合った。
五人はシャルロットに案内され、問題の老婆の家へと来ていた。シャルロットをラビへと変化させた謎の老婆。敵なのか、味方なのか。……その人物を確かめる為、一行は此処にいる。
まず、シャルロットの手を引き、ケヴィンが進んだ。デュランが続こうとした時、まるで静電気でも起きたかのようにばちっと派手な音がし、それと共に彼の身体は一メートル程弾き飛ばされた。
「――――何ッ!?」
「デュラン!?大丈夫!!!」
「デュラン!?」
アンジェラが駆け寄り、ケヴィンが振り向いた。シャルロットは突然の事態に目を丸くするばかりである。アンジェラの手を借り、大丈夫だ、とデュランは身を起こした。大した事はないが、まだ身体の周囲に稲妻が渦巻いているような――――極々弱い、エアブラストを食らったような感覚だった。
「……結界、ね。」
ホークアイが苛立たしげに僅かに唇を歪める。瞬間フェアリーの事が頭を過ったが、すぐにそれは隅へと追い遣った。
確かに彼女なら結界を破れるかもしれないが、フェアリーは今デュランの中で休眠中である。彼女には以後も一同を導いて貰わねばならない。遥かマナの聖域からウェンデルへ向かって渡って来た、それだけでも、かなりの体力を消耗しているのだ。それ故、フェアリーは時々こうして休眠に入るのである。所謂、それは仮眠と似たモノだ。なるべくなら、ゆっくり休ませてやらねばならない。今回は言わばその休眠期を利用しての、物資補給であったのだ。
と、その時鷹揚な声が響いた。
――――その通り。
「――――!!」
一行は辺りを見回した。しかし自分達のみで、辺りに老婆の影はない。だとすればこの声は、彼等の脳に直接語り掛けている。
「この野郎!どういうつもりだテメエッ!!!」
デュランが叫ぶ。思わずアンジェラですらびくりとたじろいだその剣幕にも些かも動じる事なく、老婆の声は静かに続けた。
――――何、アタシは『人間嫌い』なタチでね。それに、生憎全員が入れる程この家は広くはないのさ。……あんた達四人はそこで待っておいで。シャルロットと、そこの金髪の坊。それだけで話す相手は充分だ。
「デュラン……!!」
ケヴィンが見た。
「何だよ。」
苛立ちながら、ぶっきらぼうにデュランは答えた。ケヴィンはほんの少し済まなそうな顔で、しかし決意を秘めた表情で、キッパリと告げた。
「オイラ、行く。」
「……ばかやろ。」
デュランはニヤリと笑った。
「改めて言わなくても分かってら。……全く何てカオしてやがる。とっとと行け!シャルを守るのはお前だ。いいな!?」
「……ウン。」
ケヴィンは微笑んで頷いた。シャルロットと頷き合い、手を繋いで扉のノブに手を掛ける。二人の背にデュランが駄目押し、とばかりに叫ぶ。
「何かあったら大声出せよ!!そんときゃ結界だろうと何だろうと、ブチ破ってやるからな!!!」
「そーよ!!何ならあたしがジンに頼んで家ごと吹っ飛ばしてあげるからッ!!!」
デュランの傍ら、アンジェラまでもが握り拳を作って叫んでいる。
――――何だかんだで息ピッタリじゃねぇかよ……。
――――似た者同士………。
呆れた顔でそれぞれ感想を抱くホークアイとリースだが、それを口に出したりはしない。睡眠不足と疲労に蝕まれたこの身体で剣と魔法の連携攻撃を食らう羽目に陥る程、彼等は愚かではないのだ。――――あと数時間もすれば空が白む。
些か穏やかでないエールを送るデュランとアンジェラに、困ったような笑みを返し、ケヴィンはシャルロットと共に小屋の中へと姿を消した。
薄暗い部屋の中、きい、と音がした。
薄暗いとはいっても、何一つ見えぬという程でもない。まして暗闇の中ですら周囲を見通す事の出来るケヴィンの視覚なら、全く支障のない事である。硬く少女と手を繋ぎ、真っ直ぐ前を見た。目を凝らすまでもない。彼女はそこにいた。安楽椅子に深く腰掛け、ゆったりと身体を揺らしている。その度にきい、きい、と軋むような音が響いた。
普段ならば鼓膜に心地好い音なのかもしれない。だが今、少年にとってそれは耳障りなものでしかなかった。何か言ってやろうと口を開きかけたその時、老婆は呟いた。
「……坊。あんたもヒトじゃないってワケかい。」
「……。………ハンブン……。」
シャルロットがケヴィンを見上げたのは、繋いだ彼の手にぎゅうっと力が込められるのを感じたからである。その時彼は、少し寂しげに微笑んでいた。……だが、その表情も長くは続かなかった。次第に口許はぎゅっと結ばれ、まるで獲物を値踏みするかのように、その暗い瞳がすっと細くなる。
「アンタも、ヒトじゃない。」
――――えッ!?
少年が発した一言に、シャルロットは驚愕の表情で彼を振り仰いだ。
「ど、どど、どういうコトでちか!?」
「何で。」
ケヴィンはそれに答えなかった。代わりに、口調静かに老婆に問い質した。
「何で、シャルにあんなコトした?」
――――!!!
ぞわり。
シャルロットは身の毛が弥立つのを感じた。凄まじい速度で恐怖が足元から首筋へと這い上がって来る。
少年を見た。その声に表情はない。彼も抑えようとしているのだ、感情を。が、彼の肉体は、流れる獣人の血は、それを潔しとしない。心と裏腹に、その身ははちきれんばかりの殺気を惜しげもなく撒き散らしている。更に剣を帯び始めたその牙も、ざわざわと逆立ち始めたその金色の髪も、獣の毛がじわじわと覆い始めたその肌も。――――そう、月夜は、未だ明け切らぬ。
「――――ダメ…。」
呟いた声が震える。恐ろしいのか――――否、そればかりではない。分かる、感じる。それとは全く矛盾する感情が自分の心の奥底から生まれて来るのを。
嬉しい。
不謹慎な事は分かる。だが、嬉しかった。彼は、本気で怒っている。抑え切れぬ殺気を抱く程に、怒っている。私の為に!!――――恐ろしい、だが、嬉しい。
ふと涙が出そうになって、慌ててシャルロットはケヴィンの腕を掴んだ。
「ダメ、ダメでちケヴィンしゃん!!ちがうんでち、ライラしゃんは……!!!」
「――――らいら?」
漸く少年は少女の方を怪訝な顔で見た。人間の表情に戻っていた。と、その時。
「――――クッ……アハハハハハハハハ!!!」
「――――ッ!??」
老婆が弾かれたように笑い出した。激しく仰け反り、安楽椅子をきいこ、きいこ、と揺らしながら、さも可笑しくて堪らないというように。二人は唖然と老婆を見詰めた。一頻り笑った後、彼女は尚クスクスと忍び笑いを漏らしつつ、言った。
「……そろそろ、この姿のままでは苦しいねえ。」
そう言って顔全体を深く被っていた漆黒のフードを煩そうにばさりと脱いだ。その動き、その声、最早明らかに「老婆」のものではない。――――フードを脱いだ瞬間、月光のような銀髪がふわりと舞い、「女」の肩を柔らかに覆う。骨と皮ばかりと見えたその指も今は、肌理細やかな白い肌に覆われ、形良くすらりと伸びた、たおやかな女のそれである。少しばかり厚い唇の傍には小さな黒子があり、彼女の口許を妖艶に飾る。が、決して気品がない訳ではない。二重で切れ長のその眼は心の中までも見透かしてしまいそうな程に鋭い光を宿し、時に決然とした眼差しで相手を射貫く。顎を心持ち上げながら、見下ろすように、その瞳が笑む。しかし尊大なのではない。誇り高いのだ。――――二人は、そう感じた。
そして、シャルロットには、もう一つ感じた事がある。じっと彼女を観察する内、それは確信へと変わった。
初めてこの女――――ライラに声を掛けられた時に感じた違和感。そう、彼女はシャルロットを「娘さん」と呼んだ。「お嬢ちゃん」とは呼ばずに。
年齢は十五歳ではあっても、ハーフエルフであるシャルロットは、見た目は五、六歳の幼女そのものである。百歩譲って「お嬢さん」と呼ばれる事はあっても、「娘さん」などと呼ばれた事はない。つまり彼女は見抜いていた事になる。シャルロットが「幼女」ではなく、十五才の「娘」であるという事を。
「あんたしゃん……エルフでちね?」
「――――!そうか………!」
シャルロットが呟いたのを受けて、ケヴィンもまた確信する。獣人の鼻は、僅かな違和感までも繊細に嗅ぎ分ける。――――この女、やはりヒトではなかったのだ。
「――――エルフ、とまでは、オイラ分からなかったけど……。」
ああ、そうか。そういう事だったのだ。初めて会った筈の老婆をふと懐かしいと感じてしまったのも、先程「人間嫌い」と言ったのも、全ては――――
気が立っていたとはいえ、何故、あの時に気付かなかったのか。少女は顔から火が出る心地であった。驚く二人を前に、ライラという名の女は優美に笑った。
「何時まで呆けてるんだい?……"ボディチェンジ"の応用さ。そんなに驚く程のモンでもないだろうに。――――時に、シャルロット。」
名を呼ばれ、シャルロットはびくりと顔を上げる。
「あんたの『しもべ』は、なかなか勘の鋭い子だね。」
「ヘッ!?えっ、えっと――――」
「――――何で、わざわざヘンシンしてた?」
しどろもどろなシャルロットとは対照的に、ケヴィンは単刀直入に問うた。分かり易い子は好きだよ、とライラは笑った。ばさりと肩の髪を払う。
「何でって?――――煩わしいからさ。このアタシの美貌じゃ、オトコ共が放っておいてくれないだろう?」
「――――オイラ、マジメに訊いてる。」
はぐらかしたような答えに、再びギラリと睨み付けて来るケヴィンを見て、女はくつくつと笑った。
「アタシも真面目に答えているさ。……良く考えて御覧。エルフという事実を隠しながらヒトの世界で共存していくには、今の姿と年老いた婆の姿、どちらが都合が良いと思うかい?」
「――――!」
ハッとして二人は顔を見合わせた。
確かにそうだ。あの美貌では否が応にも目立つ。それだけではない。二、三年もすれば必ず疑い出す者が出て来るだろう。――――あの女は少しも「変わらない」と。あの女は人間ではない、と。老婆の姿の方が、歳の刻み方は緩やかに見える。それでも何十年という単位で同じ箇所に留まる事は出来ぬであろうが、とにかく目立たぬようにと心掛けるならば、恰好の「擬態」であろう。
「こんな――――」
ライラがそう言いつつ顔の前で右袖をサッと翻す。忽ち先程の老婆の顔が現れた。
「こんな汚らしい婆なら、誰も相手にはしないだろう?」
「そ、そんなコトないでち!!シャルロットは、ぜんぜんこわくなかったでちよ!!」
慌てて手を振る少女に、老婆は、有り難うよ、と笑った。今度は左袖を翻す。ライラという女の、真実の顔が現れた。
「――――でも、それはあんたにエルフの血が流れているからだよ、シャルロット。……いいんだ。アタシは……アタシ達エルフとヒトの行末を、只静かに見極めたかっただけなんだから。」
「みきわめる?」
女は苦笑した。
「干渉するつもりなんてなかったさ。でもね、アタシはあんたを放っておけなかった。詰まらない事で悩んでいるあんたを。そして、あんたをそんなに悩ませている『人間』――――」
ライラはちらりとケヴィンを見遣る。
「――――あんたの仲間達とやらを、試してみたくなった。だから、仲間達を困らせたがっているあんたに協力するという形で、あんたの姿をラビに変えた。」
「――――試した?」
聞き捨てならない、とばかりにケヴィンの言葉が鋭くなる。
「なら、もし、あのラビを、誰もシャルロットだと気付かなかったら、どうなってた!?ずっとあのままだったのか!!?アンタ、どうするつもりだった!!」
ライラは些かも動じる事なく、静かにケヴィンを見詰めた。その姿をまるで一枚の絵のようだとケヴィンは思った。それ程に彼女の所作、立居振舞いには無駄がなかった。
「もし誰にも気付かれなくても、夜明けには術の効果が切れるようになっていたさ。……尤も、そうなっていたら、あんた達の許にこの子を返すつもりはなかったがね。」
「――――!!」
ケヴィンがサッとシャルロットとライラの間に身体を滑り込ませる。どういう事だ。そう訊くとライラは口に手を当ててころころと笑った。
「当たり前だろう。この子を悲しませる輩の所に、この子を置いておく訳にはいかないね。」
「アンタ、一体――――」
「ライラしゃん。」
困惑するケヴィンの腕に、大丈夫、とでも言うようにそっと触れ、シャルロットはライラに訊ねた。
「なんで、そんなに、シャルロットにこだわるんでちか……?シャルロットとライラしゃん、あったの、はじめてでち。それなのに。」
「……………。」
ライラは眼を閉じ、一つ溜息を吐いた。そして数瞬の後、ゆっくりと瞼を持ち上げる。長い睫毛が彼女の憂いを代弁するかの如く瞳に影を落とした。シャルロットを見詰めた瞳が優しく細められ、彼女は微笑む。聖母のような笑み、だが、それは何故か寂寂として見える。その時、二人は呟くような女の台詞を聞いた。
――――シャルロット。それは、あんたがアタシの……いや、アタシ達エルフの、希望だからだよ………。
「あんたのような子供を産む事が、アタシの夢だった。でも、出来なかった。それは叶わなかった。」
ライラはふと顔を上げて遠くを見詰めた。その瞳には、嘗て自分が暮らしていた、この世の何処かにあるという、エルフの国を見ているのだろうか。
「アタシは、何かというと閉鎖的なエルフの国が好きじゃなかった。ヒトとは関わるべきじゃない、という長老の考えにも納得出来なかった。……あんなちっぽけな世界で、アタシは一生を終えたくはなかった。広い世界へ、羽ばたきたかった。ヒトの事も、もっと知りたいと思った。――――だから、アタシは国を出た。」
思わぬ昔語りに、二人はじっと耳を傾けた。――――ケヴィンはまだ、完全に警戒を緩めてはいなかったが。
「そして、アタシはヒトの男と出逢った。アタシ達は、好き合った。……結婚しようと思った。ヒトもエルフも関係ない、只の女として彼を愛する事が出来ると思った。でも――――それは、甘すぎたのさ。」
「――――どうしてでちか……?」
ライラは微笑した。
「ヒトとエルフが契りを結び、子を成すには、越えなければならない壁がある。……アタシは、それも覚悟の上だった。それくらいあの人の子供が欲しいと思った。でも――――あの人は、そうじゃなかったのさ。だが、恨んじゃいない。そうさ……それが真っ当な決断だろうからね……。無理もない事は、良く分かっていた……。だから、涙ながらに詫びるあの人を、アタシは笑って許すしかなかった。」
「――――かべ………??」
「……ああ、そうか。あんたはまだ知らないんだね。」
ライラはシャルロットの頭を愛しそうに撫でた。
「いずれ、あんたも知る事になるだろう。今アタシが教える事じゃない。……知るべき時が来たら、長老――――妖精王か、光の司祭が全てを明らかにしてくれるだろう。」
結ばれようとする人間とエルフに、何の因果か降り掛かる宿命。それは、試練と呼ぶには余りに過酷で、哀しすぎた。後に、シャルロットはエルフの国ディオールにて、妖精王よりそれを知らされる事となる――――
「大見得切って飛び出しておいて、今更国に戻る事なんて出来ない。…幸いアタシは精霊魔法の研究を生業としていたから、姿を変えながらヒトの世に留まっていた。――――そして数年後、風の噂にシャルロット……あんたが生まれた事を知った。ヒトと、エルフの娘が生まれた、と。そして、長老が完全にヒトの世界からエルフの国を覆い隠してしまった、という事を。」
ライラは自嘲の笑みを浮かべた。
「――――勝手な話だけどね、アタシは随分救われたんだよ。あんたの父親のような、心の強い『人間』がいたのだ、とね。――――ねえ、シャルロット。」
ライラは安楽椅子から立ち上がり、シャルロットの前に屈み込んでその両肩に優しく手を置いた。そして僅かに力を込める。
「シャルロット。アタシには分かる。あんたは望まれて生まれて来たんだ。本当に愛されて生まれて来たんだよ。だから――――」
流れる血を、誇りに思いなさい。
「――――!!」
シャルロットは唖然とライラを見た。見抜かれていたのか。あの時、確かに考えた。何故、私はエルフの血など引いているのだろう、と。そればかりか我が身を呪いさえした。人間なら良かった。エルフの血など、流れていなければ良かった。エルフなど。エルフなど――――
泣かないで。哀しまないで。憎まないで。疑わないで。胸を張って。強く、生きて。その血に懸けて。――――女は、少女をきゅっと抱き締めた。少女の胸に熱いものが込み上げた。小さく、ごめんなさい、と言った。女はその背をぽんぽんと叩いた。
架け橋、という言葉がケヴィンの脳裏を過った。遥か昔、ケヴィンにそう言った人がいた。お前は、獣人と人間の架け橋になるのだ、と。――――この少女もそうなのだろうか。こんなに小さな身体で、こんなに小さな肩で、重い「絆」を背負っているのか。
「――――そして、坊。」
不意に女が声を掛け、彼の思考は途切れた。彼女は言った。
「――――それは、あんたも同じだ。」
「………。」
「異なる種族同士が契りを結ぶ事。それは、並大抵の事じゃない。……あんたも、きっと愛されて生まれて来た筈さ。それを、良く覚えておおき。」
「………どう、かな。」
ケヴィンは曖昧に苦笑してその場を濁した。
母はともかく、父はどうだろうか。――――生憎、そうは思えなかった。父が欲したのは、後継者としての自分だ。ヒトへの復讐の道具としての自分だ。だから、邪魔な母を追い出したのではないのか。だから、親友を殺したのではないのか。
……思うものか。あの男に愛されたいなどと、思うものか。何時か、あの男を越えるのだ。そう、あの男は倒すべき対象でしかない。今はそれしか考えられない。
ケヴィンは疲れたように頭を振った。
「……オイラの事は、どうだっていい。それに、オイラ、『坊』じゃない。――――ケヴィンだ。」
その表情は大人びてはいるものの、拗ねたような口調に漸く少年らしさが見えて、ライラはくすりと笑う。
「覚えておくよ、ケヴィン。」
再び腰掛けると、安楽椅子がきい、と揺れる。それは今や、優しい音色を奏でていた。
帰り際、シャルロットは両腕にクッキーの袋を沢山抱えていた。ライラお手製だというそのクッキーは、どうやら余程美味しかったらしい。その状態でライラに手を振ったものだから、手を上げた拍子に袋が数個腕から床へとぽとぽと滑り落ちた。見かねてケヴィンが拾い、持ってってやると言うと、シャルロットは恥ずかしそうにエヘヘ、と笑った。――――もう、大丈夫だろう。その笑顔を見て、訳もなく漠然と、ケヴィンはそう感じた。
シャルロットが、恐らく足踏みして待ち構えているであろうデュラン達の許へと駆けて行った。大丈夫なの、何もされてねえだろうな、何でそんなに菓子持ってんだ、ケヴィンはまだ中にいるのですか――――様々な声が聞こえて来る。少年の口許に自然と淡い笑みが浮かんだ。それはライラも同じだった。じゃあ、と言った時、彼女は満足そうに頷いた。
「――――ケヴィン。」
外へと歩き出そうとして今一度掛けられた声に、ケヴィンは振り返った。ライラが神妙な顔で見ていた。
「大切にしておやり。あの子は、エルフ達の希望の光なんだ――――」
「そんな事、関係ない。」
少年は凛と言い放った。
「シャルロットは、大事な仲間だ。だから、大切にするの、当たり前だ。」
ハーフエルフだからじゃない。シャルロットは、シャルロットだから。
その時ライラはふと考えた。この少年はもしかすると、あの少女と自分の姿を自然と重ね合わせてしまっているのではなかろうか。
ハーフエルフだからじゃない。シャルロットは、シャルロットだから。
半獣人だからじゃない。ケヴィンは、ケヴィンだから。
――――ダカラ、オネガイ。ボクヲ、ウケイレテ――――
そんな声が聞こえたような気がして、女は目を細めた。大丈夫、あんたの願いは、もう既に叶っているのだから――――
「……やっぱりあんたは、あの子の言っていた通りだね。」
「……?」
「『ケヴィンしゃんは、オンナゴコロがわかってない』ってさ。」
きょとんとしたケヴィンを見て、ライラはからからと笑った。
「ごめんなしゃいでちた。」
歩きながら、シャルロットはリースにぴょこりと頭を下げた。
「リースしゃんは、ぜんぜんわるくなかったでち。アレは、かんぜんにシャルロットのやつあたりでちた。…だから、ごめんなしゃいでち。……シャルロットは、ちょっと、イライラしてたんでち。」
リースは安堵したように柔らかく微笑んだ。優しい笑みだ、とシャルロットは思った。そういえばローラントを訪れた時、リースはマナの女神の彫像に雰囲気が似ている、と言っていたアマゾネス兵がいた。ケヴィンも含めて、それがどういう意味合いであれ、この笑顔に心惹かれぬ男などいないだろう。――――無理もない。
ケヴィンと一番「仲良し」なのは自分だと思っていた。でもそれは只の独り善がりだったのかもしれない。ケヴィンが、リースと一番「仲良し」になりたいのならば仕方がない。――――ほんの少しほろ苦さを噛み締め、それでもシャルロットはニッコリ笑った。ふと悪戯心が首を擡げた。
「ねえリースしゃん。シャルロットは、ラビになってるあいだ、いろんなはっけんをしたでちよ。」
「……何ですか?」
「とくべつにおしえてあげるでち。……チョイチョイおみみをはいしゃく、でち。」
「………?」
リースが身を屈める。前を歩くホークアイに気付かれぬようその耳元に小さな掌を寄せて、シャルロットはこそこそと言った。あのね……。
「ホークしゃんのムナイタって、おもったよりあついんでちよぅ〜〜〜?」
「なッ………。」
リースの顔色が変わる。
「とってもあったかくてキモチよかったでち。リースしゃんも、こんど『だっこ』してもらうといいでち。」
「シャ、シャルロットッッ!!!!!」
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!!!」
耳から首まで見事に真っ赤になったリースにむんずと捕獲される前に、シャルロットは前を行くケヴィンの隣へと、素早く逃げた。ゲラゲラと大笑いしながら逃げた。いいだろう、これくらいの意地悪は罪にはなるまい。擦れ違う際ホークアイが怪訝な表情でこちらを見ていた。
「シャルロット、リースに謝って来たのか?」
とてとてと隣へやって来たシャルロットに、ケヴィンが言った。
「あい。バッチリあやまってきたでち。」
ブイサインをして、シャルロットはニィ、と笑ってみせる。そうか、とケヴィンも微笑んだ。歩きながら、何時ものように、どちらからともなく手を繋いだ。
「――――に、しても。」
転ばないよう前をみながら、シャルロットは首を傾げた。ん?とケヴィンが見下ろす。
「ケヴィンしゃんって、いがいと『りそう』がたかかったんでちねぇ。そんなにリースしゃんのコトがスキだったなんてしらなかったでち。」
「――――エ?」
ケヴィンはきょとんとしてシャルロットを見た。ほほう、この期に及んで恍けるか。シャルロットは更に言い募る。
「でも、いくらスキでも、アレはちっとヒドかったでちねぇ。シャルロットのコトかんぜんムシして、いつもとちがうカッコしてるからって、リースしゃんばっかりみて、あのときのケヴィンしゃん、カガミでみせてあげたかったでち。だっらしないカオしてたでちよぅー。」
「――――!!」
どうやら思い当たったらしい。ケヴィンの顔面が急にぼっ、と朱に染まった。シャルロットはそれを見てケラケラと笑った。
「そんなーてれなくたってイイんでちよー?うっふっふ。」
「えッ、ち、チガウ!あれは、あれは――――」
両手をわたわたと動かし、ウウウと唸りながら頭を抱えて縮こまった。ややあって、ボソボソと呟く声が聞こえた。
「チガウ、あれは、似てたから――――」
「――――?」
シャルロットは相変わらず真っ赤な顔をしている少年を覗き込んだ。
「……にてたから?」
「――――!」
しまった、とばかりにばふっと自らの口を押さえるケヴィン。そんな彼を見てはますます追及したくなって来るのが人情というものだ。
「にてたって?いったいだれににてたんでちか?ねえねえケヴィンしゃんてば。」
ねえ、ねえ、ねえ。しつこく繰り返し、その腕にぶら下がる。
「おしえてくれたら、ライラしゃんのクッキー、はんぶんあげるでちよー。」
「………。」
あれだけの量を一人占めするつもりだったのか、という突っ込みをする余裕は今の彼にはなかった。シャルロットはといえば、第一次作戦は失敗か、とばかりに次の手を考えている。これしきで諦める気はさらさらないらしい。やがて、良い手を思い付いたのか、彼女はぽむと手を打ってニヤリと笑った。
「ケヴィンしゃん、おしえてくれなかったら――――」
「………???」
少年は恐る恐るシャルロットを見た。
「おしえてくれなかったら………シャルロットをカンゼンムシ!したコト、『いっしょう』ネにもってやるでちよ〜〜〜〜……………。」
「う、ううう………。」
更に頭を抱えるケヴィン。自分の何倍も小さな少女にやり込められているその姿は、全く、先程「謎の女」相手に凄んでいた少年と同一人物とは到底思えない。
やがて、漸く観念したらしく、少年は蚊の鳴くような声でぽそぽそと言った。
「………笑わない、か?」
少女はぱっと眼を輝かせてこくこくと勢い良く頷いた。少年は長い溜息を一つ吐いた。
「――――かあ、さ、ん。」
「――――……ヘッ?」
思ってもいない台詞に、シャルロットは目を丸くした。
「でも、ケヴィンしゃんはたしか、『まま』のカオはしらないって――――」
「だから、絵。」
「――――『え』?」
「昔、あった。アイツの部屋に。」
「……じゅうじんおう、しゃん?」
「確かめてない。けど、あれは、多分――――」
恥ずかしそうに押し黙ったケヴィンを見て、シャルロットはナルホドと頷く。
「そう………だったんでちか。そんなにケヴィンしゃんのままは、リースしゃんににてるでちか。」
だが、折角納得しかけたシャルロットに、不可解な台詞が届く。
「いや、似てない。」
「――――はぁ?」
訳が分からずに、少女は顔を曲げた。似ていると言ったり、似てないと言ったり、彼の話は一向に要領を得ない。
「だから、服の色とか、髪の色とか、似てた。フンイキだけ。それだけ。だから、リースに似てるってワケじゃない。」
「?????」
シャルロットの脳裏に疑問符がどっと雪崩れ込む。このままでは頭がパンクしてしまいそうだ。いい加減苛立ちを覚え、彼女はびしっと少年に指を突きつけ、叫んだ。
「あ――――っうっとうしいでちねぇ!!!ケヴィンしゃんはその『え』をみたんじゃないんでちか!!そうじゃないんでちか!?みれば、『まま』なのかそうでないのか、リースしゃんに、にてるとかにてないとか、わかるハズでちょうッ!!!」
その時少女は更に意外な台詞を聞いたのである。思いの外静かな声で。
「――――見て、ない。」
「――――エ?」
「――――見てない。カオ……見てないんだ。」
呆気に取られたシャルロットを見て、少年は恥ずかしそうに苦笑した。
顔は見てない。だから、分からない。そのひとが母であるのか、そうでないのか、それすらも。
――――怖かったのかな。
仄かに苦笑を浮かべたまま瞳を逸らし、少年は呟いた。
被せられた赤いビロードの布が、きっちりと正方形を象っていた。
ケヴィンが両腕にやっと抱えられる程の大きさであった。
何故か胸騒ぎを覚え、少年はそろそろとそれに手を伸ばした。
裾をチョンと摘み、少し捲った。淑やかに組み合わされた、女の手が見えた。
更に捲った。モスグリーンの清楚なドレスと、細い肩、そして、その肩から背中を柔らかく覆う、緩やかに弧を描いた金色の髪が見えた。
ドキドキと胸が高鳴った。ビロードの布を掴んだ指がぶるぶると震えた。
まさか、と思った。胸が締め付けられた。金縛りにかけられたかのように、少年の動きがぴたりと止まる。裾を掴んだ手は、それ以上動く事はない。否、動けない。
この女は、誰だ。
白々しい。分かっている癖に。
勿体ぶって。御丁寧に布などで隠して。飾り物など似合わぬこの部屋で。
…そうか、そういう事か。ケヴィンは嗤おうとした。だが、出来なかった。
何を遠慮する事がある?ここぞとばかりに思い切り嗤ってやれば良いのだ。蔑んで、罵ってやれば良いのだ。あんたも結局、ひとの温もりを捨てる事が出来ないのだろう?いなくなって初めて、その女への愛しさに気付いたのだろう?己の過ちに、気付いているのだろう?まだ未練を断ち切る事が出来ないのだろう?
そのひとを。貴方の妻であったひとを。
その絵が、本当にそのひとなら。
本当に、僕の母親であったなら。
――――母親で、あったなら?
ぞくり。
そこまで思いが至った刹那、少年は怯えたように眼を見開き、震えた。カタカタと指先が揺れた。――――本当に、母の絵だったら。
その時彼の心をちりちりと焦がし始めたのは、父への蔑みではなかった。それは、嫉妬であった。憎しみであった。哀しみであった。
自分を差し置いて、一人だけのうのうと母の甘い思い出に浸る事など、許さない。
あんたは、そんなに女々しい男だったのか?出て行った女の肖像画を何時までも未練がましく己の部屋に飾り、眺め呆けているような、女々しい男だったのか?あんたはそんなに弱い男なのか?自分が倒そうとしている男は、そんなに情けない男なのか?――――否、否、否!!!
少年は首を振った。ぎりっと歯を食い縛った。
あってはならぬのだ、そんな事は。
強くなければならぬ。強い男で、強い父親でなければならぬ。自分が倒すべき男は、強くなければならぬのだ。強いあんたを倒してこそ、意味がある。その時こそ、大声で嗤ってやるのだ。そして言ってやる。母に詫びよ、と。
――――だから。
だから、止めさせないで。
貴方を憎む事を、止めさせないで。
貴方を。貴方を憎めなくなったら。
今までの私は。貴方を倒す為だけに、想像を絶する痛みに耐えて来たこの私は。
怖い。憎めなくなる事が――――私は、怖い。
――――故に、認めぬ。
この女は、母ではない。母の絵であってはならない。
嘘は嫌いだ。だから、見ない。
見てしまえば、きっと母だとこの目で認める事になる。
確信してしまうくらいなら、見ないでおいてやる。
見ずにいる間は、それは「確信」ではない。他愛のない、只の「想像」で済むのだから………。
「……そう、カアサンじゃ、ナイ。」
掠れた声で呟き、少年は漸く解放されたように、裾から手を離した。絵に背を向けて、フラリと歩き出した。カールが心配そうに鼻を鳴らして、付いて来た。
何故か可笑しくて、ククッと笑った。そして、何時しか頬を一筋伝っていたモノをぐいと腕で拭った。立ち止まる事なく、大股でずんずん歩いて行った。濡れた頬に感じた風は、刺すように冷たかった。
もう、少年が振り向く事はなかった。
「……ケヴィンしゃん?ケヴィンしゃんてば。」
少女の心配そうな声に、少年はハッと我に返った。ぐいと腕を引き、眉根を寄せて少女は言った。
「どうしたんでちか?またぼーっとして………。」
「ゴメン。」
またこの少女を無視してしまう所だった。少年はニコリと微笑んだ。
「何でも、ないんだ。」
「………。」
その笑顔からは最早、何も窺い知る事は出来ない。只、少女は知っていた。
少年の目は、遥か遠くを見ていた。懐かしいものを見るように、遠い昔置いて来た何かを捜し出そうとしているかのように。
澄んだ、綺麗な瞳だった。それでいて、とても哀しそうで、寂しそうだった。
そんな顔をして物思いに耽っている時。この少年は決まって彼の父親――――獣人王の事を考えているのだ。少女は既にその事を知っていた。そして、父親の事となると、元々無口な彼が更に輪を掛けて口が重くなるのだという事も。だから、それ以上は何も言えなかった。代わりに繋ぐ手にきゅっと力を込めて、ニコリと笑った。
「……じゃあ、ケヴィンしゃんのきんいろのかみは、『まま』からもらったモノかもしれないでちね。」
「………えっ…。」
少年は目を丸くした。
「……母さんにもらった?オイラの髪?」
「あい。」
少女はこっくりと頷いた。
「だって、じゅうじんおうしゃんのウワサはよくウェンデルにきこえてきまちけど、キンパツってウワサはきかないでちもん。」
「……ウン、違う。アイツの髪は。」
それは、息子の金色とは対を成す黒銀。漆黒にも似た、深い、深い銀色。
闇に近くありながら同化を潔しとしない、孤高と荘厳に彩られた無慈悲な銀色。
自分の髪の色とは、似ても似つかない。
「もらった――――か。」
少年がぽつりと言った。
「シャルロットって、やっぱりスゴイな。」
「――――エッ?」
今度はシャルロットが目を丸くする番だった。ケヴィンはふわりと微笑んだ。
「オイラ、今までそんな風に考えた事、なかった。」
「…………エヘ。」
少年が漸く再び笑った事が嬉しいのか、褒められた事が照れ臭かったのか、少女はぽりぽりと頭を掻いた。何だか恥ずかしくなって、ふざけるように少年の腕にぶら下がった。少年は慣れた仕草で一旦少女を胸に抱き取り、それからすとんと肩の上に乗せた。ふとあの女の言葉が胸を過った。
あんたは望まれて生まれて来たんだ。本当に愛されて生まれて来たんだよ。
それは、坊――――あんたも同じだ。
その言葉全てを肯定する訳ではない。全てを信じられる訳ではない。だがその言葉は今、冷え切った掌を焚火に翳した時のように、じわりと胸に染み入っていた。――――母は、思い掛けない程傍に居たのだ。
「――――あ。」
その時少年の頭上で素っ頓狂な声がした。肩車をされたシャルロットがぴたりとケヴィンの頭を抱え、首を傾げる。
「そういえば、シャルロットはもうひとつだけ、どーしてもわからんコトがあるでち。」
「……何だ?」
「……むぅ。」
シャルロットはケヴィンの頭の上で頬杖をついて言った。
「シャルロットがラビになったとき、なんですぐシャルロットだとわかったんでちか?」
「――――何だ、そんなコトか?」
ケヴィンはニッコリ笑った。
「――――眼だ。」
「――――『め』?」
何時、何処で拾った物かすら定かではない。だが、それは確かに彼の宝物だった。
何時の頃からかそれで良く遊んでいた。カールと出逢うまでは、他に遊び相手などなかった。
……小さな、空色のガラス玉。
白い月光に透かして空を見上げるのが好きだった。ガラス玉を両手に包み、目の位置まで持ち上げて月の光の許へ行くと、光を吸い取ったかのようにそれは淡い蒼を放った。とろりと眠りに誘うような、優しい色だった。
同じように、陽の光の許でそれを見たかった。太陽の下で、空色がどんな風に煌めくのか、見てみたかった。きっと、月の下で見るそれとは、違った表情を見せてくれるに違いない。
それは宝物だった。だが、今は手許にはない。親友の墓に、一緒に埋めて来てしまった。あのちび狼も又、あの空色を気に入っていたから。
しかし、思いは叶った。同じ空色の眼をした少女が、目の前にいるから。
分かる。陽光を浴びて、その少女が無邪気に笑う度に。――――それは、心の澱をすっかり取り去ってしまう、清々しい空色。まるで、雲一つない、快晴の空のように。
きっとあのガラス玉も、そんな風に輝くのだろう。
「――――ガラス玉みたいにキレイな、オイラの大好きなシャルロットの眼だ。」
「………!」
少女の頬がさっとピンク色に染まった。
キレイ。大好き。――――この言葉が少女にとって、どんなに心蕩かす魔法であるか、少年はまだ知る事はない。
ありがとしゃんでち。少女が呟いた。清々しい朝日に眼を細め、空を仰いだ。
空は高く、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。大きく伸びをして、少女は空に満面の笑顔を見せた。空と、空が出逢った。
「きょうも、いいおてんきでちねぇ。」
少女の瞳の中で、空が優しく、晴晴と笑っていた。
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