「STAYIN' ALIVE」





 あなたがくれた一滴
 私はそれだけで幸せになれる
 あなたは嗤うだろうか
 それは余りに安い感情であると



 男は、紅い風を身に纏う。――――否、それはごく小さな紅い粒子だ。ちりちりとその身に纏わり付く火の粉に少しも臆することなく、悠然と構えるその姿は、炎の魔神の如く気高い。或いは、彼が紅蓮の炎そのものなのであろうか。男はこちらが凝視せねば分からぬ程の有るか無きかの微笑を浮かべた。その唇が動く。――――ようこそ、姫。
 そんな男の表情を一瞬でも懐かしいと感じてしまった自分を僅かに嫌悪しつつ、少女はぎり、と奥歯を噛み締めた。その思いが彼女の翠玉の眼に淡い影を落としていた。
 「――――退きなさい、紅蓮ッ!!」
 凛としたその声に宿るのは、王族としての誇り。そして、小さな強がり。男は薄く笑った。今度ははっきりと認められる程に。
 「今更何を仰る。……もう、後戻りは出来ないのですよ。貴女も……そして、私も。」
 後戻りは、出来ない。
 その言葉は、少女を黙させるのに十分であった。男は勝ち誇ったように目を細める。
 「さて、どうします?私を殺さないと、私が貴女を殺しますよ?」
 「あ、あんたにそんな事、出来る訳ないわッ!!」
 「――――そうやって……貴女は何時も私を見下している!!」
 刹那、ぎらりと男の瞳が真っ直ぐに少女を射貫く。目にも止まらぬ程の速さで詠唱する唇。突き出した掌と共に発せられた炎は、真っ直ぐに少女の許へと向かう。
 「あっ――――アンジェラしゃんッ!?」
 仲間の叫びも耳には届かない。只呆然と少女は立ち竦んでいた。殺す?彼が?本気で?あたしを?
 だがその思考は中断せざるを得なかった。乱暴に引き寄せられて彼女の身体は横に跳んでいた。背中から床に滑り込み、その痛みに思わず顔を歪ませながら、少女は標的を失った炎が虚しく空中分解してゆく様を見た。
 「――――あ…………。」
 「――――……っ……ばーろぉッッ!!!」
 次に少女が――――アンジェラが見たものは、自分に覆い被さるようにして共に倒れ込んでいる少年の、怒りの形相であった。彼は強い力でアンジェラの細い両肩を押さえ、返答次第では平手打ちを喰らわせそうな勢いで眼前の少女を睨み付けていた。
 「お前、死にたいのかッ!!ヤツとお前の間に何があったかは知らねぇがな――――俺が、お前を……仲間を目の前で殺されるのを黙って見てられるような、そんな人間だと思ってんのかよ!?」
 「――――デュラン………。」
 「何の為に此処まで来たんだ!?お袋さんを取り戻す為じゃねぇのか!?そうじゃなかったのか!!!」
 「デュランしゃん!!うしろ――――っっ!!!!!」
 「――――!?」
 ハーフエルフの少女――――シャルロットが叫び、デュランが振り返るのと同時に炎がその背中を直撃していた。焼けるような痛みがデュランを激しく抉る。
 「ぐあ………っっ!!!!!」
 「デュラン!?デュラン!!!」
 「ちっ……くしょぉ……ッ。」
 デュランを支えようと両手を彼の背中に回したアンジェラ。その時彼女の掌が感じたのは、指に纏わり付く――――ぬるりとした感触。感覚ではそれを理解している筈なのに、感情が拒否している。「これ」は、「なに」?
 「これでもまだ戦えないと仰る。……貴女の騎士が、死んでしまっても。」
 ――――誰が?
 その時、デュランにヒールライトを施していたシャルロットは見た。アンジェラが焦点の合わない瞳でふらりと立ち上がるのを。
 ――――「だれ」が、「しぬ」って……………?
 少女は気付いているのだろうか。その翠玉の眼から既にはらはらと零れ落ちている涙に。
 そして――――その唇が、古代魔法の詠唱を始めているという事に。



 ヴィクターは扉の前で溜息を吐いた。毎日この時間は憂鬱だ。これから起こるであろう事を脳裏に巡らし、彼はその扉の向こうにいるであろう人物の事を思い浮かべた。アルテナ王家第一王女・アンジェラ。――――それがその人物の名前である。短気で我侭で強がりで、それでいて本当はとても繊細で寂しがり屋で――――。そこまで考えてヴィクターはその思いを振り払うように頭をぶんぶんと振った。情けは禁物!自分は教育係としてやるべき事をやらねば。
 「姫様。ホセの魔法授業の御時間です。――――姫様?」
 軽くノックする。返答が無い。分かってはいるのだが。そう思いつつ、彼は苦笑した。今度はどんな手で来るのか。泣き落としか、脅しか、はたまた色仕掛けか――――。勿論そんな手に乗せられる程愚かな教育係ではないから、大抵は彼女の負けで終わる。そんな時、けろりとして彼女は悪態をつく。
 ――――ハイハイ、分かったわよ……ヴィクターの、ケチ!
 負け惜しみの台詞を何度聞かされたことか。いや、寧ろお姫様はその遣り取り自体を楽しんでいる風でもある。そんな他愛のない会話の応酬で少しでも王女の孤独が癒せるのならそれも結構、とヴィクターは思う。些か頭の痛い事ではあるが………。
 ――――それにしても……やけに静かだな。
 まさか、とその考えが及んだ時、ヴィクターは躊躇いもなく扉を開けていた。
 「姫様――――失礼します!!」
 其処で彼が目にしたのは、がらんとした、主のいない部屋。窓が清々しいくらいに開け放たれ、其処からそよそよと入って来る風にカーテンが只規則正しく揺れていた。
 しかも、窓は只無意味に全開だった訳ではない。ベッドの端に結ばれた白いシーツが、その窓を通って外へと長く垂れ下がっている。
 「……古典的な手を…………。」
 流石に呆れ返ってしまうヴィクターであったが、すぐに気を取り直して廊下へと駆けて行った。
 今度の手は、どうやら「脱走」だったようである。



 男にとっての不幸は、この国に生まれた事だった。
 魔法王国アルテナ。その名が示す通り、「魔力」が全てのステータスを決定付ける国。それは、この国の気候が、アルテナの統治者・理の女王只一人の魔力によって支えられているという事情からすれば無理もない帰結であったかもしれない。
 男には魔力が皆無であった。小さな炎を起こすことすらも出来ない。それは、この国ではその存在を否定される事に等しい。故に――――男は生きてきた。誰にも顧みられることなく。誰にも求められることなく。ずっと彼を庇い続けてきた母は、つい先日死の床に就いた。父の顔は知らない。物心付いた時、父の姿は既になかった。だからといって、その事を母に問い詰めたりはしなかった。母の表情が歪むのを、見たくはなかったから。
 魔力のない人間など、この世にごまんといることだろう。しかし、そういった人間がこの国にいること。それ自体が問題であり、彼をして異端為らしめている所以でもあった。近付く者など、いる筈もない。――――いや、実際そうだったのだ。故に彼は訊ねた。何故俺に話を?と。その時、彼女はしれっとしてこう答えたのだ。
 「え?別に……。だって貴方、なかなか好みのタイプだったんだもの。」
 少女はさらりと菖蒲色の髪を払い、翠玉の眼を細めて悪戯っぽく微笑んだ。
 余りの答えに呆気に取られて彼は少女を眺めた。フード付きのマントを羽織っているにもかかわらず、その上からでも成熟した身体のラインが微かに見て取れる。華やかで匂い立つようなその色気とは裏腹に表情には未だ何処か無垢な愛らしさが漂い、危うい魅力すら感じられた。特に真っ直ぐに男を見上げる、その深い翠玉の眼は、今にも吸い込まれそうな錯覚に彼を陥らせる。――――いや、この眼は何処かで。訝しげに彼は訊ねた。
 「……その顔、見覚えがあるような気がするのだが……何処かで会ってないか?」
 「え?ええっ!?……き、気のせいよ、気のせい!!!」
 慌てて少女は否定した。しかし後から考えて見れば当たり前の事だったのだ。その眼、その髪の色。――――それらは、アルテナの王族独特のもの――――確かにその血を伝える証でもあったのだから。しかし、彼は気付かなかった。何故この時気付かなかったのか――――後に彼は狂おしい程に我が身を恨んだ。
 「……まあ、いい。俺には関わらない方がいい。じゃあな。」
 「あ……、ちょ、一寸待ちなさいよ……!」
 ふいと立ち去りかけた男を、少女は思わず呼び止めた。何故、こんなに気になるのだろう。そんな疑問を漠然と抱えながら。男はそれでも足を止めない。大股にすたすたと歩いて行く。むすっとして少女は急ぎ足で後に続く。
 「何よ何よその態度は!?こんなに可愛い女の子が声かけてあげたっていうのにさ!!」
 「別に頼んでなどいない。」
 「あっそう!そっちはそれでいいかもしれませんけどね。『関わらない方がいい』だなんて、そんな意味深な台詞面と向かって吐かれた方は堪ったもんじゃないわよ!!――――そういうの無責任って言わない!?ねぇってば!!」
 「!!――――あのなあっ!」
 何て無茶苦茶な娘だ――――煩そうに振り返った途端、すぐ正面に彼女の顔がぐいと迫って来て、不覚にも彼はたじろいだ。この娘は――――何と真っ直ぐに人を見詰める事が出来るのだろう。何と澄んだ瞳でこちらを見上げている事だろう。
 「――――名前くらい、教えなさいよ。」
 有無を言わせぬ勢いで、ひたと睨め付けるその瞳の光に気圧されて、男は渋々ながら口を開く。
 「――――俺は。」
 少女も気付いてはいなかった。自分はこの時、生涯忘れる事の出来ぬ名を聞いてしまったのだという事に。



 二人はその後、幾度も会うこととなった。約束などしている訳ではない。気が付くと、何方からともなく、出会った場所へとやって来る。少女は男の姿を認めると華やかにふわりと微笑んだ。そんな時男は面映い表情を返す。彼は何時しかこの少女に安らぎを求めている自分を確かに感じていた。
 「……ねえ。訊いてもいいかな。」
 ある時少女は言った。少し遠慮がちに視線を落として。男は怪訝な顔をしてそれに応えた。
 「ほら、この間言ったでしょ?『関わらない方がいい』って。――――あれ、どういう意味なの?」
 「――――その事か………。」
 「どうしてなの………?」
 「………。」
 視線を逸らし、男は虚空を眺めた。少女はじっと答えを待っている。僅かに躊躇いを感じつつも、ゆっくりと彼は口を開く。口に出すのは恐ろしい。だが、真実を知って欲しいと思うのは、彼女の目には傲慢に映るだろうか。――――俺は何時からこんなに饒舌になった?思わず自嘲するような笑みが滲む。
 「俺は……魔法が使えない。」
 声が震えたように感じたのは、気のせいだろうか。少女の瞳が、驚きで大きく見開く。
 「お陰でこの国に俺の居場所は何処にもない。……お前も、俺と話していると同類に見られるぞ。」
 半ば皮肉な笑みを浮かべて少女を振り返った時、彼ははっとして表情を止めた。
 其処に当然あるだろうと思っていた憐憫の眼差しはなかった。驚愕。只、それだけ。呆然と彼は少女の表情を見守った。
 「――――あたしも、なの………。」
 「……………!!」
 その唇から洩れ出た言葉に、男は驚きの色を隠せなかった。
 「使えないの……あたしも、魔法。」
 恥ずかしそうに、彼女は苦笑した。白い指を落ち着きなく組み替えつつ、今初めて、少女は自分自身の話題に言及しようとしていた。当たり障りのない話をして笑って過ごした、既に過ぎ去ったその時間を取り戻すかのように、言葉が溢れ出す。
 「居場所がないのは、あたしも同じ……。口には出さなくても、あたしには分かってる。皆あたしに失望してる。お母様ですら、あんなに冷たい……。思うの。魔法が使えたら、魔力があったら、お母様は、あたしのこと……。」
 「――――馬鹿げた国だ。何時か捨ててやるさ。こんな国など………!」
 舌打ちしてそう言った男を、少女は寂しそうに見詰めた。捨てられた仔猫のような瞳をしていた。
 「そんな……そんな淋しい事、言わないでよ………。」
 「なら、お前はこの国が正常だとでもいうのか。」
 ――――魔力のない者を人とも思わぬこの国が。
 ――――それは………。
 研ぎ澄まされた刃物の如く鋭利な男の視線が問い詰める。少女は眼を伏せて項垂れるしかなかった。そんな彼女の様子を目にして、男はきまり悪そうに目を逸らした。
 「……すまん。つい、感情的になった。」
 「ううん………いいのよ………。」
 力なく微笑むその表情に、刺すような痛みを覚える。久しく忘れていた感情だった。何時になく優しい言葉をかけてしまうのは、きっとその所為――――。男はふっと表情を和らげて言った。
 「……『要らぬ人材』はいるかもしれん。――――だが、『要らぬ人間』はいない、と俺は思う。だから――――。」
 その時少女の瞳がゆらりと揺れた。静謐な湖面に投じた一石が、ゆっくりと、穏やかに波紋を伝えるように――――翠玉が、揺れた。涙だった。それは少女の白い頬に一筋の軌跡を残した。
 「なっ………何故泣く!?俺は………何かまずい事を言ってしまったのか!?」
 「ふふっ………何よ、知らないの?」
 狼狽する男を見て、少女は涙を拭いつつさも可笑しそうに微笑んだ。
 「人間って、嬉しい時にも泣くんだから。」



 名前くらい、教えなさいよ。――――少女はそう言った。だがその癖、奇妙な事に、自身は未だに名乗る気配がなかった。まるでそれが当然とでも言いたげに。男の方も又、名前を訊こうとはしなかった。そんな事はどうでも良かった。怖いのか。少女に名を与えるという事が。名とはある意味呪縛に等しい。名を与えることでそれは忽ち具体性を帯びる。現実という名の檻は、あの少女には余りに相応しくないという気持ちすらしていた。否。只の願望であったのかもしれない。夢にしておきたい、という、外でもない、彼自身の。だが――――。
 ――――ひた、ひた、ひた……………。
 それは背後から忍び寄る。不気味に、そして静かに。
 現実の足音はすぐ其処まで迫っていた。



 ――――だから、何だというのだ。
 そう小さく呟いて、男は軽く舌打ちした。
 国中が浮き足立っている。至る所に出店が建ち並び、各家々の門にはアルテナの国旗が掲げられ、老若男女、笑顔が溢れている。――――勿論、只一人を除いては、だが。
 今日はアルテナの建国記念日であった。極寒の地・ウインテッド大陸に足を踏み入れ、その強大な魔力によって気候を温暖化し、尚且つ先住民であるサハギン族を退け支配下においたという伝説の女魔道士――――それが、アルテナ王家の始祖たる人物なのだという。今からもう五百年以上も前の話だ。
 冷めた瞳で、まるで自分に無関係なもののように、彼はその喧騒を遠く聞いていた。今日は記念日とあって、一般人も城の敷地内へは自由に出入り可能である。――――勿論警護の兵はいるが。今は正面のバルコニーの下に、続々と民が集まって来ていた。もうすぐ。正午丁度に、このバルコニーに「彼女」が姿を現す。この国の気候を独力で支え、独裁的な権力すら持ち得る、理の女王・ヴァルダ。最早国民の間では、マナの女神に次いで神格化されつつある美しき女帝。刻々と時は迫る。それに比例して次第に高まる興奮。
 ――――愚民共よ、目を覚ませ。あの女は、神などではない。
 その時、わッと歓声が上がった。気付いてはっと顔を上げる。刹那、彼の心臓が凍りついた。
 鐘の音と共にしずしずと現れた理の女王。
 荘厳な笑みを浮かべ、民衆の歓声に軽く手を振って応えるそのひと。
 男は握り締めた拳をわなわなと震わせた。血が流れる程強く、強く唇を噛んだ。
 この世に生れ落ちた時からそうなる事を宿命付けされていたかの如く、胸の奥底で憎悪の灯火をちろちろと灯し続けてきた。外でもない、その対象たるそのひとは――――。
 菖蒲色のその髪。翠玉のその眼。
 余りにも似ていた。似すぎていた。「夢」の中の、あの少女に。
 理の女王には、娘が一人いると聞く。確か、その名は。
 「――――アンジェラ。」
 愛しい少女の名を吐き捨てるように呟いて、男は天を仰いだ。底知れぬ闇が彼の心を覆い始めていた。
 ――――答えろ、マナの女神よ。俺には、夢見る事すら許されぬというのか!
 その夜、一人の男がこの国から姿を消した。それに気付いたのは只一人の少女だけであった。



 物憂げな瞳を落ち着きなく宙に漂わせて、窓際に頬杖をつきながらアンジェラは溜息を吐いた。此処数日、城内がやけに慌ただしい。何処がどうというのではない。只、その肌が感じているのだ。水面下で確かに何かが進行しつつある、異常なその空気を。言い知れぬ不安が胸に募ってゆく。
 「――――ねえ、何が起こっているの?」
 苛立った姫君の言葉に、ヴィクターは紅茶を入れていた手を止めた。
 「――――何が、とは?」
 「恍けてんじゃないわよ。あたしだって莫迦じゃないんだから。――――何か、変じゃない?ここ最近………慌ただしいっていうか、空気がぴりぴりしてるっていうか………。」
 ヴィクターは肩を竦めてみせ、まず残りの紅茶をティーカップに注いだ。その一連の動作が緩慢に見えたのはアンジェラ自身、焦る気持ちがあったからなのだろう。苛立った面持ちで少女は自分の教育係の青年の行動を見守った。どうぞ、と紅茶を勧めてから、ヴィクターは漸くアンジェラの顔を見た。
 「………戦争ですよ。」
 「――――!!」
 ヴィクターの発した台詞に、アンジェラは一瞬言葉を失った。
 「――――せん、そう?」
 ヴィクターはこくりと頷いた。「戦争」――――その言葉は余りにも衝撃的だった。同時に、アンジェラは一層情けない気持ちに囚われた。自分は全く知らなかった、否、知らされていなかったのだ。戦争という、国家の最重要機密とも言うべき事項を。理の女王の一人娘――――アルテナ王家の第一王女たる、この自分が。――――しかし、いくら女王の娘であっても、その独裁的権力の前には、彼女の実権は無きに等しい。魔法を行使出来ぬ身であれば、それは尚更の事だった。アンジェラは改めて我が身の立場を思い知らされた事になる。――――何処へ?やっとのことで唇が動く。
 「フォルセナです。姫様も御存知でしょう。草原の王国です。」
 草原の王国フォルセナ。ファ・ザード大陸西方、魔法王国アルテナから見ればほぼ南に位置する国である。その大地は肥沃で、気候は温暖。世界で最も住み易い国、とさえいわれている。アルテナのように、たった一人の魔力に頼らずとも、である。彼の国を訪れた者は誰しも、見渡す限りの緑野に思わず息を呑む、という――――。そんな国へ侵攻を決めた、という事は。
 ――――限界に近い、とでもいうの?お母様の魔力が………!?
 同じ事を考えているのだろう。ヴィクターも苦渋に満ちた顔を俯かせた。
 「――――御存知ですか?………中庭の花が少しずつ枯れ始めている事を。城下でも同じような事が起こっているようです………。」
 「で、でも……戦争だなんて………。」
 「何でも……最近新しく女王様の側近に上がった魔導師の進言であるとか。飽くまで噂、ですがね……本当の所は、僕にも。」
 「……側近、ですって?」
 ぴくり、と形の良い眉が動く。
 「はい。かなりの遣り手と伺っておりますが。」
 ――――何だろう。この感じは。
 霧が立ち込めるように、アンジェラの胸を言い知れぬ不安が覆い始めていた。気持ち悪い。そうはっきりと意識した時、彼女は既に扉へ向かっていた。
 「あたし……あたし、お母様の所へ行ってくる………!」
 そう言って駆け出して行く王女の後ろ姿を、ヴィクターは只無言で見送るしかなかった。



 アンジェラは滅多に謁見の間に近付く事はない。泰然と玉座に座す理の女王。己の母親。玉座から見下ろす母の眼は、何処までも厳しく、何処までも冷たく――――それは娘の胸に絶えず怯えと不安を与えた。「魔法の使えぬ貴女は、王家の恥晒しです。」――――そう責め苛まれているようで、ひたすら恐ろしかった。何時か、自分は捨てられるのではないか、と。誰が好き好んでそのような視線に晒される事を望むというだろうか。只――――母の余所余所しさばかりに囚われているアンジェラには、母の気持ちに思いを馳せる余裕はなかった、というのも又事実であるが。
 そう。母の態度は余りにも余所余所しい。たった今、この時も。アンジェラの意向を伝える為に門番が中へ消えてから、数分が経過しようとしていた。実の娘が母親に会うのに、何故こうも段取りが必要なのだ?アンジェラは苛立ち、腰まで伸ばした豊かな髪を所在無く弄ぶ。やがて、先程の門番が顔を覗かせ、彼女を中へと招き入れた。
 「――――姫様。どうぞ中へ。」
 「………御苦労様。」
 皮肉を込めて横目で軽く睨んでから、アンジェラは早足で奥へ進む。道なりに敷かれている紺色の絨毯の上を。その先に待ち受けているものは――――。
 「――――お母様。」
 立ち止まり、顔を上げる。理の女王は無表情に娘を見下ろしていた。何時になったら、その瞳は微笑んでくれるのだろう。微かな失望を抱きつつも、娘は母を気丈に見詰め返した。
 「何用ですか。アンジェラ――――。」
 「お母様。戦争が始まるというのは本当なのですか?本気でフォルセナに戦いを――――。」
 「フォル、セナ……………。」
 その時、女王の表情がふっと和らいだ。薄く笑みを浮かべたようにすら見える。アンジェラははっとして視線を落とした。――――女だ。咄嗟にそう思った。アンジェラが未だ咲き切らぬ蕾とすれば、女王はその花弁も麗しき大輪の花。母を見上げる度に自分は思い知らされる。女としても、マジシャンとしても――――到底己が敵う相手ではないのだと。尤も、この時もう少しアンジェラが冷静であったならば或いはこれが微かな正気の発露であるという事に気付いたかもしれない。しかし、残念ながら当時の彼女には未だそれ程の技量は備わっていなかった。
 「フォルセナ……新天地としてこれ程相応しい国があるでしょうか――――?」
 「お母様!!アンジェラは心配なのです!お母様が甘言に乗せられたのではないかと――――。」
 「――――それは、聞き捨てなりませんな。」
 玉座の影から聞こえたその声に、アンジェラは身の毛が逆立つのを感じた。聞いた事がある。この声は、確かに。
 「ふ……女王陛下はフォルセナに何か格別な思い出でもおありと見える。」
 ――――ああ……………。
 女王の背後から現れたそのひと。血のように紅いマントを羽織ったそのひと。この一年余り、忘れた事などなかった顔が、其処にあった。
 「――――久しいですね、姫。」
 彼は婉然と嗤ってみせた。



 謁見の間を出て、二人は一年と数ヶ月ぶりに向き合った。訊きたい事は山程あった。何故母にフォルセナへの侵攻を唆した?何故母の側近となった?今まで何処で何をしていた?何故私の前から姿を消した?何故――――そんなに冷たいかおで、貴方は微笑むの?
 言葉を探すアンジェラを見下すかのように、紅蓮の魔導師は目を細めて先に沈黙を破って見せた。
 「又一段とお美しくなられた………。」
 「………貴方はそんな事言う人じゃなかったわ………!」
 他人を小馬鹿にしたような口調に神経を逆撫でされて、アンジェラは思わず彼を睨み上げる。おやおや、と紅蓮の魔導師は大袈裟に肩を竦めてみせた。その飄々とした態度は更に彼女を苛立たせる。
 「そうやってはぐらかすつもりなら……こっちから訊くわ。貴方がいなくなったのは、あたしの正体に気付いたから?そうなんでしょ?」
 彼は何も言わない。只面白いものでも眺めるように、彼女を見ていた。
 「……ホントの事言わなかったのは、あたしも悪かったとは思ってる。でも、それは、あたしがホントの事を言ったら、話なんかして貰えないと思ったから。あたしはこんな、魔法もロクに使えない、出来損ないの王女だから!ひとがこれ以上離れていくのは嫌だったから!!――――そして、貴方は……現に、ホントの事を知った貴方は、あたしから離れていった!!!」
 一気に気持ちを吐き出して、アンジェラは息をついた。そして気が付いた。自分も所詮現実から逃げていたに過ぎないと。傷を舐め合う相手を欲していたに過ぎないと。だから、紅蓮の魔導師が勝手なひとだ、とぽつりと洩らした時、アンジェラはそうね、と強く頷いた。今の己の姿は何だ。まるで玩具を取り上げられた童のようだ。でも――――それでも、思わずにはいられなかった。
 「でも――――それは貴方も同じ事でしょう!?何故なら。」
 ――――何故なら、貴方は何も訊こうとはしなかった!!
 何て嫌な女だろう。自らの思考に、少女は反吐が出そうだ、とさえ思った。
 「そう――――関係などなかった。貴女が誰であろうと。しかし、ものには限度がある。」
 アンジェラの思考を読んだのか、紅蓮の魔導師は刺すような視線を向けてそう言った。その顔は最早嗤ってはいなかった。
 「貴女が悪いのではない。――――貴女の罪。それは、貴女が貴女であるという事。」
 「あたしの………、罪?」
 「――――そう。貴女の罪。それは。」
 「――――!!」
 びくりと少女は後退った。男が徐に懐から懐剣を取り出したからである。じっとりと冷汗を浮かべる彼女を尻目に、男はその鞘を放り捨てる。ぎらりと白刃が輝く。妖しいまでに冷たく澄んだそれに、彼女は眩暈すら覚える。
 ニヤリと男が嗤う。少女がはっとしたその刹那、彼は手にした懐剣を自らの甲にずぶりと突き立てた。
 「………っ!!」
 忽ち鮮血が飛び散り、その赤は男の手を紅蓮に染め上げ、床へと滴り落ちる。ぽたり、ぽたり……。後から後から流れ出す血潮。顔を歪める事すらせずにそれを無表情に凝視する男の顔を正視出来ずに、少女はぎゅっと眼を瞑り顔を背けた。やがて、男の微かな呟きが耳に届いた。
 「――――血、ですよ………。」
 「………ッ!?」
 「血が――――血が憎い。貴女に流れるアルテナ王家の血が………!!」
 男は血に塗れた拳を固く握り締めた。ぶるぶるとその拳が震えた。思わず少女は叫んでいた。
 「貴方――――矛盾してるわ!あの時、貴方確かに言ったじゃない!!」
 ――――この国が正常だとでもいうのか。魔力のない者を人とも思わぬこの国が。
 「今の貴方……何が違うっていうのよ。」
 何時しかその声は震え、その瞳は潤みを帯び始める。
 「血筋で人を判断する貴方と、魔力で人を判断する人達と、一体何処が違うっていうのよ――――!!!」
 「――――!!」
 その時男は懐剣を勢いよく引き抜いた。血飛沫が飛び散り、それは男の端正な頬をも濡らした。それでもその表情は少しも変わる事はない。只、その眼は血走っているようにも見えた。血に染まっても尚表情一つ変わらぬその姿はまるで夜叉のようだった。
 「貴女に――――王家の人間などに、何が分かる!?この身に――――私と母が受けてきた屈辱!侮蔑!!貴女に理解出来る筈がないッ!!!」
 男の腕が素早く伸びて、その手が少女の白い首を捕らえる。余りの勢いに彼女は背中を壁に強かに打ち付けた。
 「くっ……………!」
 思わず呻き声を洩らし、一瞬その痛みに気を失いそうになりながらも少女は今はすぐ目の前に迫った男の顔を負けじと睨め付ける。美しい、夜叉。余りにも場違いな感想に、少女は戸惑いを覚えた。だから、なの?――――掠れた声で彼女はそう言った。
 「だから、戦争を仕掛けるの?勝ったとしても、多くの人が死ぬわ。これが復讐なの?貴方は――――何が、狙いなの?」
 くっくっと彼は嗤った。幾らか冷静さは取り戻しているように見えた。
 「フォルセナへの侵攻の事ですか。――――確かに進言したのは私ですが、……姫はどうやら勘違いをなさっておいでのようだ。侵攻を決断したのは外でもない、女王陛下の御意志。明日にでも正式に陛下から命が下される事でしょう。」
 「………!!そ、――――んな。」
 愕然とアンジェラは呟いた。母が、何よりも――――娘の私よりも――――民を愛するあの母が自分の意志で!?嘘だ。嘘に違いない。私は騙されているのだ、この男に。だが己に言い聞かせるその台詞すら、白白しく、虚しく脳裏に谺するばかり。嘘。最後に口にしたその言葉は、自分でも聞き取れない程に力なく、か細いものだった。
 理の女王は、自らの意志でフォルセナへの侵攻を決めた。
 紅蓮の魔導師のその台詞は、結果的に見れば真実とも嘘とも言える。この時、理の女王の心が紅蓮の魔導師によって支配されていたのは紛れもない事実である。だが、どんな人間とて闇の部分は存在するというもの。理の女王とて、それは例外ではない。彼は巧みに利用したのだ。彼女の心の奥底に潜む、フォルセナという国への嫉妬と羨望を。地盤さえあれば、応用は幾らでも利くというものだ。
 「何が狙い、と仰いましたね。………そう、復讐ですよ。貴女一人に?そんな小さなものではありませんよ………これはこの国全体への復讐。嘗て私を拒んだこの故郷への怒り。――――ふ、しかし結果的に見れば復讐にはならないかもしれませんね。……フォルセナへの侵攻が首尾よくいったならば、このような辺鄙な極寒の地で気候操作せずとも安穏と暮らす事が出来るのですから。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないというもの。」
 如何にも楽しくて堪らない、とでもいうように彼はからからと笑った。一頻りそうやって笑った後で、彼は再びアンジェラに視線を戻す。
 「――――ほんとにこの国の連中は面白い。嘗てはあれ程拒絶した人間を、魔力が秀でているというだけで、掌を返したように重用する。可愛いものです。そして、そのような人間が掌の上で国を動かす。――――く、く、く。実に愉快だ。生殺与奪、全てこの手の中にある………!」
 「貴方に……あんたに、そんな事出来る訳ないわッ!!!」
 「――――何とお言いですか。」
 刹那、男の眼がぎらりと瞬く。飢えた野獣の如き殺気と、狂惑の光すらその瞳に浮かび上がらせて、紅蓮の魔導師はアンジェラの首に置いた手に、指に、更に力を込めた。
 「ア、うッ……………!」
 「私はあの頃の私とは違う。力を手に入れたのだ。何物にも代え難い力を、私は手に入れたッ!!!」
 何という力か。これが人間の力か?アンジェラは為す術もなく首を締め上げられる。
 「だ、誰か………っ。」
 「無駄ですよ。結界が張ってあります。外からは何も見えやしませんし、入って来る事も不可能。只、こちらから出る事は可能ですがね………。全く――――何処までも見下されたものですな。私がそのような初歩的なミスを犯すとでもお思いか。」
 「おね、………め………、………し………て………ッ。」
 ぎりぎりと首が締め上げられる。男の爪が白い肌に食い込み、呼吸が覚束ない。徐々に息が細くなる。意識が朦朧としてきた。誰にも愛されることなく、私は死ぬのか。閉じかけた瞳から、涙が溢れ出す。





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