「STAYIN' ALIVE(2)」





 ――――人間って、嬉しい時にも泣くんだから。
 「――――!?」
 その時突如脳裏に過った光景にはっとして彼は思わず力を弛めた。何故!?呆然と自問する。
 ――――そんな淋しい事、言わないでよ。
 「……やめろ………。」
 ――――居場所がないのは、あたしも同じ。
 「――――やめろおおおッ!!!!!」
 狂ったような怒号を上げて、男は無造作に少女を放り出した。
 「………っ……………げほッ………………!」
 そのまま床に崩れ落ちたアンジェラは激しく咳き込んだ。突然解放されたのは解せなかったが、そんな事を考える余裕はなかった。彼女は呼吸を貪った。やがて呼吸が落ち着いてくると、彼女は改めて男の方を見遣った。――――彼は、居た。壁に背を預け、頭を押さえて。死んだように、気配すら感じさせず、彼は佇んでいた。只、爛爛と輝くその眼が証明している。彼が、確かに生きているという事実を。
 互いの呼吸音だけが二人の空間に響き渡る。探るように絡み合う視線。男に動く様子がない事を確認して、少女はふらりと後退る。――――伝えなければ。誰かに。この、哀しい程に愚かな男の陰謀を。
 「――――妙な事は考えぬ方が身の為ですよ。それをすれば貴女は更に自らの傷口を広げるだけ。」
 「――――!!」
 アンジェラの思考を読み取ったが如くの言葉を、紅蓮の魔導師は呻くように投げ付けた。
 「魔法が使えずに世を拗ねた我侭者の王女と今や女王陛下の側近として全権を委ねられ、信頼をおかれているこの私と。――――果してどちらの言が信用に足る、とお思いですか………?」
 にたり、と嗤う。それを目にした時、弾かれたようにアンジェラは背を向けて走り出した。もう居たくなかった。一分一秒でも早く、この場を離れたかった。ひたすら少女は果てしなく続くようにも見える廊下を駆けて行った。自室に辿り着くまで、只の一度も振り返る事はなかった。
 ――――貴女は只見ているがいい。世界の変貌する様を。
 自分の背中に投げかけられた呪いのようなその台詞も、既に聞いてはいなかった。



 ――――何故、殺さぬ。
 少女の背中を見送る男の脳に、突き上げるように突如声が響いた。何もかも見透かしたように倣岸で、有無を言わせぬ暇も与えぬ程に威圧的なそれに、貴方か、と男は只短く答えただけだった。――――相も変わらず嫌な声だ。そんな思いは欠片も見せずに。
 ――――あの娘、必ずやぬしの前に立ちはだかるであろう。摘んでおけば良かったものを。
 ――――何が出来るというのだ?あのような弱き者に。
 ――――捕まったか?………あの娘の魔性に。
 ――――捕まった?この俺が?
 下卑た笑みが脳裏に浮かぶ。男はそれに向かってふん、と鼻で嗤ってみせた。挑発的に薄く唇を歪める。
 ――――ならば、その魔とやらを我が前に跪かせてみるのも又、一興………。
 ――――ふ、ふ、ふ。
 それは更に嗤った。虫唾が走る程に優しい声だった。
 ――――ぬし。相当に人間が壊れてきたようであるな。
 ――――ニンゲン、だと?
 男は吐き捨てるようにそう言って唇の端を微かに上げた。ふと己の左手に目を移す。こうしている間にも、赤い滴はしとしとと滴り落ちる。赤黒く染まった甲を凝視し、その瞳を細くする。凄絶な紅蓮の光が瞳の内にぽうっと灯った。
 その時だった。シュウ、と音をたてて血が凝固を始めたのは。それは忽ち青白くも見える男の肌に同化し、あれ程痛々しくぱくりと開いていた患部が徐々にその範囲を狭くしてゆく。数十秒も経たぬ内に、男の手は元の色を取り戻した。すっかり元通りになったそれを満足気に眺めつつ、彼は自嘲的な笑みを洩らした。
 ――――もう、人間などではないさ。



 アンジェラはまんじりともせず夜を明かした。私はどうしたらいい?何をすべきか?ベッドの上で自分の身体をぎゅっと抱き締め、そればかりを考え続けた。許しておける筈がない。放っておける筈がない。何故なら私は彼の真意を知ってしまったのだから。――――そうだ。このままにしておけるものか。そう決意して腰を浮かす――――。
 だが、その度に浮かんでくる。鮮やかに蘇る泡沫の夢、幻。
 ――――何故思い出してしまうの。こんな時に。
 「何故俺に話を?」心底驚いたように目を丸くしてそう言ったあのひとを。
 「俺は、魔法が使えない。」震える声でそう言ったあのひとを。
 「『要らぬ人材』はいるかもしれん。だが『要らぬ人間』はいない。」私にそう言ってくれたあのひとを――――。
 ――――何が貴方を変えたの?それとも今の貴方が本当の貴方だとでもいうの?
 これで何度目の動作か。少女は折角浮かした腰を虚しく下ろしてしまう。既に、日は昇っていた。隙間から差し込む陽光に気付いて、アンジェラは思い切りカーテンを引いた。瞬間、降り注ぐ朝日が少女の顔を照らす。余りに眩しく、清々しいそれは、皮肉にも彼女の心を尚一層曇らせた。
 この日は、アンジェラにとって運命の日となった。
 この日、理の女王は正式にフォルセナへの侵攻の命を下した。
 そして――――王女・アンジェラの苦難の旅が始まるのである。



 時を経て男と少女は再び向かい合う。但し、あの時とは立場は逆である。立ち尽くしているのは少女の方、床に崩れ折れているのは男の方――――。
 只呆然と彼女は佇む。自分の唱えた古代魔法の引き起こした惨劇の跡をその翠玉の眼に焼き付けて。虚空を眺めていたアンジェラの表情に色が戻ったのは、男が――――紅蓮の魔導師が、がくがくと身体を震わせつつ上半身をゆっくりと起こしたからである。反射的に杖を掲げて後退るアンジェラを、デュランは無言で制した。そのまま黙って首を横に振る。少年の剣士としての眼は既に見抜いていた。この男に最早戦う気力など残ってはいないという事を。
 その時男がくっくっと嗤った。顔を俯かせたまま、肩が揺れていた。やはり。彼はそう言った。
 「――――竜帝の言った通りだった………姫、やはり貴女は、私の前に立ちはだかりましたね。」
 「……………。」
 何も答えられなかった。少女は只黙って、不気味な程に落ち着き払った静かなその声を聞いていた。
 「あの時殺しておくべきでした。貴女を。ひと思いに、この手に力を込めるべきでした――――。」
 今はもう叶わぬその願い。空と共に失った時まで掴み取ろうとするかのように、彼は今や血と埃に塗れた拳をぐっと握り締めた。だが、何故だろう。不思議と心の海が凪いでいるのは。自分はもしや心の奥底でこうなる事を願っていたのか?――――ふいに出現した感情に只彼は苦笑してみせるしかなかった。
 「――――どうしてよ………。」
 ぽつりとアンジェラが呟いた。
 「どうして……どうして、こんな事になっちゃったのよ――――!!」
 両手で顔を覆い、少女は哭いた。余りに赤裸々な叫びだった。デュランは精悍な唇を噛み締め、シャルロットは丸い瞳を潤ませた。紅蓮の魔導師は眼を伏せた。
 「――――只一人。心から愛しいと思った少女がいた。遥か昔……………。」
 ふいに洩れ出た言葉に、ぴくん、と少女の動きが止まる。その声の主は思いの外安らかな表情で天を仰いでいた。懐かしいものでも見るように、うっとりと微笑を浮かべ。彼の周囲にだけ、別の空間が存在し、別の時間が流れているかのようだった。
 「――――昔……私はある少女と出逢った。………彼女は真っ直ぐで………清らかで………満足な魔力も持たぬ故に蔑まれ続けてきたこの私に、些かの偏見もなく、接してくれた………。その少女といる時だけは心が安らぐのを感じた………。彼女の方もそうであればいい、と私は祈った………。」
 「そ……それ……は………!」
 ハッと息を呑むアンジェラに、彼は苦笑した。――――何、未だ名すら知らぬとある少女の話です。そう嘯いてみせた。
 「その少女も私と同様魔法が使えぬということだった……居場所がないと彼女は悩みを打ち明けた。……自分は頼られている……信頼されていると感じた………彼女だけは信じられる……そう思った………だが!!」
 再び男の眼に冷たい光が宿る。残酷なまでに美しいそれは、少女の胸をぐさりと貫く。
 「漸く力を得て帰って来た時……この国を動かしてみせると言った時……彼女は私に言った。出来る訳がないと!!――――出来る訳がない………そう言って彼女は私を見下したのだ!!拒んだのだ!!……信じてくれていると思っていたその少女までが、只一人心を許した彼女までが、私を拒んだ!!魔法が使えずに拠り所を求めて彷徨っていた……そんな弱き少女にすら、私は蔑まれた!!――――その瞬間、私は決めた。この少女を――――永遠に殺しておく事を………!」
 「――――!!………っ……違う……違うッ………!!」
 少女は狂ったように首を横に振りながらふらふらと男の許へと歩み寄る。彼の膝元まで辿り着いた彼女は、ぺたりとその場に崩れた。そして、違う、ともう一度確かな口調で言った。
 「………そういう意味じゃ、なかった………貴方は、優しいひとだから!本当に純粋なひとだと思ったから!!――――ホント……哀しいくらい……切ないくらい……心のキレイなひとだと思ったから………そんな大それた事、貴方が耐えられる筈がないと思ったから、だから――――!!!」
 「………。」
 泣きじゃくりながらそう訴える少女を、男は淡い笑みを浮かべて只見詰めていた。その笑みが示すものは果して侮蔑なのか。悔恨なのか。慈悲なのか。――――何れにせよ、男の表情からその答えを推し量る事は不可能であろう。それは本人にしか知り得ぬ事。否。笑みを浮かべた事にすら気付いていないかもしれない。それ程までにその笑みは儚く、すぐにも唇の端から消え入りそうな予感さえ覚えさせた。
 「シャルロット………お願い。」
 「えッ………。」
 突如呼ばれた自分の名前に、ハーフエルフの少女はびくりと顔を上げた。お願い。アンジェラはそう言った。自分にこの類の言葉が吐かれる時、それが何を意味するのか。――――三人で続けてきた旅。その中で培ってきた信頼、経験。それらの事から、この小さな少女は十分過ぎる程理解していた。今自分に求められている事。それは何かという事を。それでも尚、シャルロットは怯えた。
 「で、でも………。」
 「いいから、早くッ――――!!」
 峻烈なまでのその一喝に、シャルロットは思わずアンジェラの表情を仰ぎ見た。確かな意思を宿したその瞳。それを目にした時、シャルロットは瞬時に悟った。この判断は、決して一時の情に流されて行われた頼りないものではない、と。デュランはそんなシャルロットの肩にぽんと手を置いた。肩に感じた確かな温み。それに勇気付けられて、こくりと頷き、シャルロットは歩き出す。ちょこちょこと男の前まで歩いて立ち止まり、だらりと力なくぶら下がるその腕を取り、小さな掌でそっと触れる。蕾のような可愛らしい唇がぼそぼそと動き、やがて少女の手が白い光を帯び始めた。彼女の得意とする治癒魔法・ヒールライトだ。
 「………姫………これは一体どういうつもりですかな。」
 ふんと苦笑する彼に、アンジェラはふわりと微笑んでみせた。涙の痕跡が、逆に傷々しく目に映った。
 「――――やり直せるよ……何度だって……やり直せるよ…………。」
 「………!」
 「終わりじゃないよ……終わる『とき』まで、そうでしょ?……だって、誰でもない、自分のことだもん、ね………。」
 目を丸くして強張ったようにこちらを見詰め返してくるそのひとへ、少女はゆっくりと手を差し伸べる。
 「――――還ろう?………一緒に。」
 「――――………俺は。」
 男の唇から掠れた声が絞り出された、その時――――その場の全員が聞いた。ハーフエルフの少女の、余りに悲痛な嘆きの言葉を。
 「――――どうしてでちか………。」
 それを耳にした時、男はああ、と呻くように呟いて瞳を閉じた。恰も全てを悟り切ったように、耐え難きものを耐えるように――――そのまま静かに空を見上げるその姿は、諦観の風すら漂わせていた。その呻きを聞いたシャルロットは更にヒステリックに喚いた。
 「どうして!?――――どうしてヒールライトがきかないでちかッ!!!」
 「――――!!」
 アンジェラとデュランは呆然とその絶叫を聞いていた。治癒魔法が効かない?そんな馬鹿な!――――それ以上の思考が働かない。冷静になればなろうとする程、それは虚しく空回りするばかり――――。
 やがて、シャルロットは何かに思い当たったかのようにすっと青ざめた。カタカタと、男の腕を掴んでいる、彼女の小さな白い指が震えていた。
 「あ、あんたしゃん、まさか………ッ。」
 「――――ほう。流石は光の司祭の孫娘。よく気付いたものだな。」
 ふっと瞼を開いた男はシャルロットに満足気な笑みを向ける。この瞬間、彼女の予感は確信へと変貌した。望まぬ結果が、両腕を大きく広げて待ち構えていた。その腕にきつく抱き留められたが最後、二度と戻っては来られぬのだろうか。――――絶望という名の深淵から。――――それでも。大切な仲間達の物問いたげな視線に応えるべく、真実を告げるべく、この少女は気丈にも重々しく口を開いた。
 治癒魔法が効かぬ理由。シャルロット程の精神の持ち主ですら治癒の効果を齎さぬ理由。畢竟、それは只ひとつしか考えられない。
 ――――アンデッド。
 シャルロットは只ぽつりとそれだけ零した。アンジェラの表情を垣間見るのが恐ろしくて、苦渋に満ちた顔を俯かせた。竜帝との愚かな取引で命の半分を彼に捧げた紅蓮の魔導師。命を、そして心を捧げたその瞬間、彼は不死人へと身を堕とした。その身体にもう温度が宿ることはない。精霊の祝福も受けることはない。永遠に。――――莫迦野郎、そう呟いてデュランは拳を床に叩き付けた。そうでもしないと、遣り場のない怒りに狂ってしまいそうだった。そして、アンジェラは。
 「――――お分かりでしょう。私の『とき』は既に凍りついてしまっている………。」
 そう言って彼が儚い笑みを浮かべ、その少女を見遣った時。彼女は口を押さえて座り込んでいた。釘を打たれたかのようにぴくりとも動かず、只ひたと男の眼を凝視していた。睨み付けていると言っても過言ではない程、その翠玉は頑なな色をしていた。それを眩しそうに、刹那の間眼を細めて眺めてから、――――後にこの時の彼はとても優しい顔でアンジェラを見ていた、とシャルロットは語った――――男はきっ、と唇を結んだ。
 「ヤツは聖域だ。もう時間がない。」
 「――――!?」
 デュランはその声にはっとして顔を上げた。男は少年を見ていた。それはほんの一瞬の事であったのかもしれない。だが少年には数分の刻にも思われた。男の唇が動く。声には出していない。だが一語一語を区切るように、それは確かにある言葉を紡ぎ出した。それを見た刹那、ある嫌な考えが、予感が、ちらと彼の脳裏を掠める。――――まさか。思わずそう独りごちた時、男は微笑した。血に濡れた頬に流れ伝う一筋の滴。それを目にした瞬間、デュランは迷いもなく声を張り上げていた。
 「アンジェラ、シャルッ!!!離れろッ!!!!!」
 そう叫んでデュランが乱暴に二人を引き寄せて地に伏せたのと、耳を切り裂くような轟音と共に彼等と男との間に紅蓮の火柱が上がったのはほぼ同時の出来事だった。



 泣いてくれるのですか。私の為に。
 何故泣く。何故、そんなに哀しい顔を。
 私が、泣いていたから。
 貴女はもう泣かなくていい。哀しまなくてもいい。
 貴女が教えてくれたのです。
 人間は、嬉しい時にも泣くのだと。
 そうだ。私は嬉しいのだ。
 何故なら、これでやっと辿り着けるのだから。
 永遠の、安らぎに。



 ああ……、そうか。



 俺はまだ、人間だったのだな。



 「あああああああああッ!!!!!」
 両手で頬を覆い金切り声を上げるシャルロットの額をデュランは自分の胸に精一杯強く押し付けた。
 「見るな………!見るな!!」
 そう何度も呟きながら彼はシャルロットをぎゅっと抱き締めた。そうしながら彼自身は燃え盛る炎を凝視し続けていた。俺は忘れまい。あの男を、あの炎の色を一生忘れまい。瞼の裏にしっかりと焼き付けておけるように、少年は目を修羅の如くかっと見開いていた。頬を嬲る熱風の熱ささえ忘れて。
 そして――――アンジェラも、又。微動だにせず、只呆然と炎を見ていた。翠玉の眼の中で、紅蓮の炎が妖艶に、軽やかに舞い狂っていた。



 血のように紅い布の切れ端。其処に彼が居た事の、余りに微弱な証明の欠片。アンジェラがそろそろと右手を伸ばすと、それは無慈悲な風に弄ばれて脆くも崩れ、塵と化した。行き場を失った右手をぴくりと止め、左手でそれを慰めるようにそっと包んで少女は只立ち尽くしていた。二人の仲間は、その背を黙って見詰めた。
 「見下してなんか、いなかった……何て優しいひとなんだろうって、思ってた………。」
 ホントよ?――――震える声で少女は繰り返す。その背中に少年は言った。
 「……分かっていたさ、アイツも。……分かっていたから余計、許せなかったんだ。――――自分自身の弱さってヤツが………。」
 「分かってた!?――――何でそんな事があんたに分かるってのよ!!!」
 背を向けたまま、力一杯吐き出すようにアンジェラは言った。デュランは気休めなど言う男ではない。そんな器用な事の出来る男ではない。それはこれまでの旅で十分過ぎる程に理解している。だが、それでも尚、気休めにしか聞こえなくなっていた。自己の胸に底無しの闇の如く広がる嫌悪感。少女はそれと必死で闘った。少年はそんな彼女を労るように精一杯穏やかな声で告げた。
 「……アイツは言った。お前のこと、『頼む』って――――そう言っていた。」
 「………!!」
 あの時。火柱があの男を覆うその直前。それはほんの刹那に過ぎなかったが、彼は確かにデュランを見た。彼は笑った。笑って、涙を流した。そして、言った。ひ、め、を、た、の、ん、だ。――――確かにそう言った。
 アンジェラは声を詰まらせて口を両手で覆った。ともすれば大声で哭き叫びそうになるそれを必死で押さえ付けた。だが、身体の震えだけは如何ともし難く、それはデュランにも、――――勿論シャルロットにも、はっきりと見て取れた。
 「――――ねえ、デュラン。」
 やがて彼女は言った。思いの外静かな声だった。
 「あたし……、聖域に着いたら、ちゃんと戦うからさあ……、だから――――。」
 ふわりと少女は振り返る。
 「だから――――もう少し、泣いててもいいかなあ……………?」
 その間にもはらはらと頬に零れかかる涙。吹き抜ける風に惜しみなくその菖蒲色の髪を遊ばせ、それが白い頬に、か細い肩に乱れかかるのを払おうともせず、少女は問いかける。哀願の色を湛えた瞳が微かに震え、縋るように少年を見詰める。唇に浮かんだ笑みが余りに儚くて、余りに優美で。少年は一瞬息を呑んだ。刹那の沈黙の後、彼はきっぱりと告げた。――――好きにしろ、と。
 「ただし――――。」
 デュランがそう言いつつ自分の方へずかずかと大股で歩いて来たので、アンジェラは不思議そうな顔で首を傾げた。アンジェラの前までやって来たデュランは、何を思ったかそのままふわっと彼女を抱き上げた。
 「あ………っ!?」
 余りの突然の出来事に涙を溜めたまま目を白黒させているアンジェラに、デュランは真摯な表情をぐいと近付けた。間近に見た彼の澄んだ菫色に、どくん、と心臓が跳ね上がる。
 「時間がねえのも事実だ。アイツもそう言ってた。――――これから俺達は此処を出てフラミーを呼ぶ。それまでこうしててやっから、その間にさっさと泣き切っちまえ。……いいな!?」
 「――――デュラン………。」
 「………頼りにしてるからな。」
 拗ねたように視線を逸らしてぼそりと呟き、デュランはきっ、と顔を上げた。
 「行くぞ!!遅れるなよ、シャルッ!!!」
 そう言うが早いか、アンジェラを抱えたままデュランは走り出した。それまで呆気に取られて二人を眺めていたシャルロットははっと我に返って慌ててそれを追って駆け出す。
 「あッ――――ま、まってでち――――!」
 疾風のように後方へ流れてゆく景色。自分を抱いて走る少年の日に焼けた精悍な横顔を見上げて、少女は、自分は何と幸せなのだろう、と思った。今は、その不器用な優しさが嬉しかった。救いだった。堪らず彼女は少年の鎧の胸当てに強く頬を押し当てた。無慈悲なまでの鎧の冷たい温度が、逆にとても心地好いと感じた。
 ゆっくりと瞼を閉じると、鮮やかに甦るあの瞬間。天へと余りに性急に、真っ直ぐに立ち上ってゆく紅蓮の炎。それは彼の散華を彩るものに相応しい色をしていた。峻烈で、凄絶にすら見える紅。瞼の裏で、それは艶美に舞い揺れる。夕闇迫る仄暗い茜色の空を背景にして。それすら、外でもない、男の死の演出であったように思えて。余りにも残酷で、それでいて郷愁すら覚える程にそれは――――
 ――――美しかった。
 それに気付いた時、少女は再び嗚咽した。





FIN.


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