「風の歌」





 風が吹いていた。
 心地好い温かみを含みつつそよそよと草木の匂いを運び、それは優しく少女の頬を擽る。
 愛らしい顔をした少女だ。長い棒切れが形のみではあるが半開きの掌に柔らかく収まっている所を見ると、羊を追っていたのかもしれない。青々とした草の上に無防備に仰向けに横たわり、何の夢を見ているのか、可憐な唇に仄かに微笑を浮かべている。とても長閑な光景である。
 何処からか風に乗って蝶が飛んで来た。ぱたぱたと羽を懸命に動かし、やがて蝶は少女の可愛らしい鼻の上にちょこんと留まった。一、二回羽を揺らし――――ぴた、と身を落ち着ける。しかし皮肉な事にやっと落ち着いたその場所も、どうやらその場凌ぎの休憩所に過ぎなかったようである。急な振動を感知し、蝶は再びふわりと舞い上がった。少女がくしゅっ、とくしゃみをしたのである。
 「――――う、ん………?」
 うっすらと目を開けて、未だ夢の続きでも見るようにぼんやりと空を眺める。その時、頭上からくつくつと笑い声がして、少女は今度ははっきりと目を瞬かせ、がば、と起き上がった。
 「だっ、誰っ!?」
 きょろきょろと辺りを見渡す。すると少女の背後から笑みを噛み殺したような声が投げ掛けられた。
 「此処だ、サラ。」
 サラ、と呼ばれた少女が慌てて振り返ると、柵に凭れ掛かって一人の青年がひらひらと手を振っていた。難しそうなタイトルの本を数冊小脇に抱え、眼鏡をかけてにっこりと優雅に微笑むその姿は如何にも学者肌という風情であるが、決してそれだけの男ではないという事を、少女は既に知っている。
 トーマス・ベント――――それがこの青年の名前である。頭は良いがそれを鼻にかける様子もなく、人柄も温厚。如何様な武器も人並みに使いこなし、かと思うと料理や一通りの行儀作法までも心得ているという紳士的な一面もしっかりと持ち合わせており、その所為か、彼はサラやその姉のエレン、幼馴染のユリアンを始めとする開拓民の若者達の中ではリーダーとして特に慕われていた。ベント家は、トーマスの祖父の代に移住して今でこそこのような片田舎・シノンに腰を据えているが、そもそも大国・メッサーナの名族に当たる家柄なのだ。トーマスの人望は、その由緒ある血統に恥じぬよう彼を厳しく育て上げた祖父の努力の賜物とも言えよう。
 「トーマス!!い、何時から其処にいたの!?」
 「ははは、心配するな。さっき来たばかりだから。――――隣、良いか?」
 途端にかあっと頬を染めて縮こまるサラを見て尚も忍び笑いをしつつ、トーマスは柵に足を掛けてサラのいる内側に飛び降り、すたすたと歩いて来て隣に腰を下ろした。
 「トーマスったら酷い。見てないで起こしてくれれば良いのに。」
 ぷんと唇を尖らせて上目遣いに睨む。そんな事されても全然迫力がないな、と思いつつ青年は苦笑した。そう、この娘の姉ならばともかく。
 「おいおい。そういうのを責任転嫁、というんだ。元を正せばこんな所で寝てた君がいけない。あれじゃ『どうぞ見て行って下さい』と言ってるようなもんだ。」
 う、ときまり悪そうに更に顔を赤くして少女は俯いた。だって、ともごもごと何か言い募ろうとする。
 「言いたい事があるならちゃんと言って御覧、サラ。」
 「う……、あ……、あのね………。」
 尚も赤くなりながら、笑わない?と前置きする。どうもこの娘は内気でいけない、と内心苦笑してトーマスは頷いた。
 「あのね……、雲見てたら、何か良いなあって……。それでぼうっとしてたら気持ち良くなってきちゃって………。」
 そう言って空を見上げたサラにつられて、トーマスもふいと見上げる。清々しく澄み渡った、青い青いシノンの空。綿菓子のような白い雲がゆっくりと頭上を流れてゆく。手を伸ばせば届きそうな錯覚を覚えさせるそれを、サラは掌を翳して眩しげに仰いだ。
 「雲は……、良いよね。」
 ぽつりと呟く。トーマスは自分の隣に座している少女を見遣った。トーマスの怪訝な視線に気付いて、サラは恥ずかしそうに微笑んだ。――――ほら?私って、シノンから出た事ないじゃない?
 「……だから、雲が羨ましいって?」
 サラはこくりと頷く。
 「……だって、雲は自由でしょう?誰にも縛られないで、行きたい所へ気ままに漂って行けるじゃない。……私も、あんな風に何処までも行けたらなって。勿論此処も大好きだけど……。」
 「……雲は自由、か。」
 眼鏡を少し指で押し上げて、トーマスは呟いた。考え事をする時の彼の癖だ。
 「一概にそうとも言えないと思うがね、俺は。」
 「え?どうして……?」
 驚いて振り返ったサラに、それは――――、と口を開きかけようとした時、ガラガラと軋むような音が二人の耳に聞こえて来た。良く耳を澄ますと馬の蹄の音も混じっている。荷車を馬に曳かせているのだ。そう思っていると、案の定道の向こうから荷車が一台やって来た。二頭の馬がそれを曳いている。その馬にそれぞれ跨っているのは一組の男女である。彼等は、こちらを見ているサラとトーマスに気付いたらしく、元気に手を振った。
 「あ――――。」
 それが誰だか気付いたサラも手を振り返す。トーマスもぽんぽんと草を払いつつ立ち上がる。やがて馬は二人の目の前で止まった。ポニーテールの娘が馬上より快活な笑みを投げ掛ける。
 「トーマス!奇遇ねこんなトコで。サラは大方また居眠りでもしてたのかしら?」
 「おっ、お姉ちゃん!!」
 狼狽するサラを見て、図星かしら、と苦笑する。内気で物静かなサラと対照的に陽気で男勝りな雰囲気を漂わせるこの娘こそ、サラの姉・エレンである。美人で明るくて気立ても良く、その上スタイルも抜群――――となれば、そんな彼女に憧れる男は多い。彼女の隣に仲良く馬を並べている青年・ユリアンもまたその一人である。ユリアンは姉妹の遣り取りににやにやと笑いつつ、サラへと軽く片手を上げてみせた。
 「よ、サラ。良い夢見れたか?」
 「も、もぉ何よユリアンまで………。」
 ぷくっと頬を膨らませたサラが可笑しくて、ユリアンは馬上からよしよし、と少女の頭を撫でた。彼にとってもサラは妹同然なのであった。その呑気そうな外見からは量り難いが、ユリアンは幼き時分にたった一人の妹を死食で亡くしている。生きていればサラくらいの年頃だな、と嘗て彼はサラに語った。――――彼女を妹のように可愛がるのはそういった理由もあるのだろう。
 「それはそうと、今日はミュルスへ行って来たんだろう?首尾は――――?」
 尋ねるトーマスに、エレンは得意そうにウインクしてみせた。
 「ん、バッチリよ!今年は豊作だったからね――――。お陰で沢山仕入れて来たわよ。ホラホラ見て!」
 そう言って荷台に積んである木箱の一つに覆い被さる布をばさりと捲ってみせる。瞬間、ひやりとした空気が漂い、それと共に様々な種類の魚貝類が顔を出す。中にはサラが書物でしか見た事のないものもいて、少女は思わず覗き込んでわあっと歓声を上げた。
 シノンの開拓民は、主に馬等による農耕、畜産、林業を生業とし、それを定期的に市場にてオーラムに換えたり、或いは物々交換したりする事により生計を立てている。その主な市場となるのがミュルスである。ミュルスは元々は小さな町であり、人口も然程ではないが、港が出来てからはピドナやツヴァイクへの玄関口として訪れる者も多く、殊に各国の行商人が行き交う市場は常に賑わいを見せていた。
 話術にも長け、腕も立つ姉のエレンは、このように市場での交渉役を任される事もトーマスに次いで多く、それをサラは羨ましく思う。自分は、未だ外の世界を知らないというのに。
 言ってみようか?思い切って。ずっと前から考えていた事。――――少女は馬上の姉をじっと見詰めた。
 「あ、あの、お姉ちゃん。――――あのね。」
 「?何?サラ。」
 きょとんとして姉が聞き返す。あのね。小さく深呼吸して、少女は言った。
 「今度市場へ行く時は、私も一緒に行きたい、な――――。」
 「――――。」
 ぽかんとしてエレンとユリアンはサラを見詰めた。何しろこちらがもどかしくなるくらい引っ込み思案なサラである。それ故、そんな彼女から出て来る台詞とも思えなかった。只一人、トーマスだけはふっと眉を顰めて少女を見守っていた。雲は、良いよね。――――そう言っていた、眩しげに雲を眺めていた彼女のその横顔が脳裏に浮かんでいた。
 暫くの間沈黙を守りつつ妹を値踏みするように眺め、エレンはきっぱりと告げた。
 「駄目よ。」
 「えッ――――。」
 「おい、エレン!」
 ユリアンが慌てて姉妹の間に割って入る。
 「良いじゃないか。サラだってもう十六だぜ?俺だってその頃にはもう市場へ出入りしてたし――――。」
 「あんたとウチのサラを一緒にしないでよ!サラはまだ子供よ?それにユリアンと違ってデリケートなんだからね!」
 その言葉に、ユリアンは苦笑しつつ大袈裟に天を仰いでみせる。
 「ああ、ひっでぇなあ、その言い方。」
 「とにかく!」
 ぴしゃりとエレンはサラに言い放つ。その姿は姉と妹というよりは、母と娘のようであった。
 「特に海の男っていうのはね、気の荒い連中が多いの。そんなヤツらがうじゃうじゃいるトコにあんたを連れてくなんてとんでもないわ!危なっかしくて交渉に集中出来ないし、気が気じゃないもの。せめてもう少し大きくなるまで待つ事ね。」
 「………。」
 大きくなるまで?それは一体どのくらいなのだろう。姉は私を子供だ子供だと言うけれど、それじゃあ何時からが大人だと言うのだろう。姉と同じ年になったら、私も大人だと認めてもらえるのだろうか。それでも――――姉と妹の差は永遠に縮まる事はないというのに。……そう、幾ら年を経た所で、自分は姉にとって永遠に「年下」でしかないのだ。
 ――――私は………何時になったら雲になれる?
 項垂れてしまった妹を流石に不憫に思ってか、エレンもきまり悪そうに俯いたが、やがてふと思い出したように懐を探ると、掌に乗るくらいの小さな紙袋を取り出した。
 「――――御土産。……今はこれで我慢して。……ね?サラ。」
 「………?」
 サラは黙ってそれを受け取った。まるで重さは感じなかったが、受け取った拍子にしゃらん、と音が聞こえた。ユリアンがこっそりと少女に耳打ちする。
 「なあサラ。エレンのヤツ、普段は俺に『無駄遣いはするな』とか言ってる癖にさ、それは絶対買って行くって言って聞かなかったんだぜ?……留守番ばっかりだと退屈だろうから、ってさ。きっと――――。」
 更に声を潜める。
 「きっと、サラの気持ちは分かってるんだと思う。それだけは、察してやれよ?」
 その時、馬が突然ひひん、と嘶き、危うくユリアンは馬上よりずり落ちそうになる。エレンが手綱を引いたのだ。
 「何やってんの。行くわよユリアン!そろそろ仕事に戻らなきゃ。」
 「とっと、分かってるって!」
 全く素直じゃないんだからな、と頭を掻きつつ独りごちてから、ユリアンは手を振った。
 「んじゃな!二人共また後で!」
 ガラガラと音が遠去かる。再びその場に残されたサラとトーマスは二人の姿が完全に消えるまでそれを見送っていた。
 「――――サラ。」
 「――――え?」
 姉を見送ったままその場に佇んでいるサラに、トーマスは声を掛けた。
 「……それ、開けてみたらどうだ?」
 「え、あ、うん………そうだね………。」
 ほうっと溜息を吐き、サラは袋の口を開けた。袋を逆さにして振った途端、掌にしゃらんと音を立てて落ちて来たのは――――貝殻で出来た、ブレスレットだった。
 「……………。」
 握り締めて、そっと耳に当ててみた。未だ目にした事のない、海。――――その音の欠片だけでも聞こえて来ないだろうか。潮の匂いを少しでも感じ取れるだろうか。……一時、夢を見るように少女はうっとりと目を閉じていた。やがて再び物憂げな茶色の眼がゆっくりと開かれ、唇からぽつりと洩れ出た言葉は。
 「――――お姉ちゃんは……良いよね。」
 「……雲の次は姉さんか?」
 トーマスは只静かにそれだけを呟いた。サラは一瞬、きゅっと唇を引き結んでから、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
 「……だって、お姉ちゃんは強いし、美人だし、私と違って何でも出来て、何でも任せてもらえて、……それで、男の人にも人気あるし……。」
 その時少女らしく頬に差した朱。それを振り払うように彼女は、不公平だよね、と素っ気なく締めた。
 「あんなスゴイお姉ちゃんと私が姉妹だなんて、神様って酷いよね……。」
 それきり俯いてしまったサラの横顔を、幾分切なげにトーマスは眺め、苦笑する。――――この娘は何も気付いていない。
 確かにエレンは美しい。間違いなく「美人」の部類に入る娘である。意志の強さが窺える涼やかな目元にきりっとした形の良い眉、筋の通った鼻、その腕っ節の強さとアンバランスな程の華奢な身体つき。流れるような黒髪をすっきりと束ねて颯爽と駆け回る姿に心をときめかせる男は多い。だが。
 サラもまた姉のエレンとは対照的な美を持つ少女ではあるのだ。年齢の所為もあり、「美人」というよりは寧ろ「可愛らしい」という部類であるが、サラには姉にはない可憐さがある。野に咲く花のようないじらしさがある。無邪気さと艶美な影が同居する神秘的なその瞳、ふっくらとした少女らしいその頬、蕾のようなその唇。小首を傾げて恥ずかしげに微笑するその表情は時にトーマスですらハッとさせられる程魅惑的である。そんなサラに密かに心を寄せる者も多いのだという事をトーマスは良く知っている。当人達は知る由もないだろうが、「カーソンの美人姉妹」と言えばこのシノンではなかなかの有名人なのである。
 ――――この娘は、何時気が付くのだろう。
 トーマスは内心溜息を吐く。姉にも決して劣らぬ魅力を、分かっていないのは当の本人だけであろう。それが歯痒い気もし、逆にそれでこそサラ、という気もしないではない。
 ――――だから、青年は只微笑んでみせるしかなかった。
 「良く似合ってるな、それ。」
 それだけを告げて目を細めた。少女は弾かれたように彼を見たが、やがて照れ臭そうに、有り難う、と言った。
 既に日は傾きかけ、青かった空は次第に茜色に染まり始めていた。斜陽を反射してきらりと輝いたブレスレットに視線を落とし、少女は呟いた。
 綺麗ね。
 台詞とは裏腹な寂しげな表情を、青年は只見守っていた。



 少女は思っていた。
 こうして静かに時は流れて行くのだと。この長閑な日々がずっと続いて行くのだと。
 信じて、疑わなかった。
 羽根蒲団にくるまれるように、ひたすら優しい世界で生を送るという運命ならば、……それが己の器だというのならば、仕方のない事だ、とさえ思い始めていた。私は姉とは違うのだから、と。だが。
 ――――転機は、思いの外早く訪れたのである。それは、雷鳴轟く嵐の夜だった。



 その少女はずぶ濡れで駆け込んで来た。――――サラ達開拓民の若者が夜の見回りを終えて、何時ものように行きつけのパブで談笑していた時の事だった。
 余程急いで馬を走らせて来たらしく、駆け込んで来るなり肩膝を付いて、ぜえぜえと肩で息をしていた。その異様な風景に、サラ達は瞬間唖然とした。気を取り直したユリアンが大丈夫か、と少女に駆け寄る。
 その時少女は言った。喘ぐように、息をする間ももどかしく、それでも凛とした張りのある声で告げた。
 「――――馬を。馬を、貸して……!」
 風雨に痛々しく弄ばれて額に、頬に、背中にべったりと張り付いた輝く金色の髪はそれでも尚見事に波を描き、前髪の間から覗いた海の如き紺碧の眼は荘厳な光を放ってその場にいた全員を射抜いた。この娘、只者ではない。しかも何処かで見た事がある。誰もがそんな感想を抱いた。そして、結果的にそれは当を得ていたのである。
 彼女の名はモニカ・アウスバッハ。シノンを含むロアーヌ侯国の姫君にしてその若き君主、ミカエル・アウスバッハの実の妹に当たる。モニカの語る所によれば、先代ロアーヌ侯主にしてモニカの父・フランツの従兄弟であるゴドウィン男爵が兄ミカエルの遠征中に謀反を起こしたという事らしい。それを宿営地の兄に伝える為、こうして嵐の中、馬を飛ばして来たというのだ。しかしその馬も思うように走らず、最後は自らの足で此処まで歩く羽目に陥ったらしい。決して穏やかではないその話に、全員が眉を顰める。
 「この先は野党も出ると聞きます。……正直、私一人では――――。」
 「モニカ様。俺に手伝わせて下さい。」
 モニカの言葉が終わらない内にそう告げたのは人一倍正義感の強いユリアンである。続いて、あたしも手伝うわ、とエレンも大きく頷いた。
 サラには侯家の中で絡み合う複雑な思惑や事情は良く分からない。だが、モニカの様子からして、大変な事が起こっているという事だけは理解出来た。
 ――――お姉ちゃんも、ユリアンも、行ってしまうの……?
 モニカと何やら言葉を交わしている二人を眺めつつ、サラは胸に一点の曇りを抱く。それは靄となって広がり、彼女を更に不安に陥れていった。同時に小さな思いが芽生える。これはチャンスだ、と。そう思った瞬間、どくん、と心臓が鳴った。
 分かってる癖に。「変えよう」としない限り、何も変わらない事。
 ぐっと拳を握り締めた。――――そう、しっかりしなければ。普段密かに弓の鍛錬をしているのは何の為?術の勉強をしているのは何の為?私は努力している。それは姉にも負けない。今こそそれを試す時ではないのか。
 「――――私にも、やらせて!!!」
 悲鳴のようにすら聞こえるその叫びに、皆が一斉にサラの方を向いた。……言った。言ってしまった。もう後戻りは出来ない。少女は覚悟を決めるように唇を噛み締めた。
 「………サラ?」
 姉が半ば呆然とした顔で呟く。
 「本気で言ってるの?」
 姉はそう言ってじっと見詰め――――否、睨み返して来る。明らかに怒っている時の表情だ。本気よ、とサラが言った時、案の定雷が落ちた。
 「何言ってるの!!駄目に決まってるでしょう!!!遊びじゃないんだからね!!!」
 「そんな事分かってるもん!!私も力になりたくて――――!」
 「あんたに何が出来るっていうのよ!?雷一つ怖がる癖に!!」
 「そ、それとこれとは関係ないでしょう!?お姉ちゃんのケチッ!!」
 「あんたこそケチとかそういう問題じゃないでしょう!!」
 「お、おい。二人共――――。」
 延々と続きそうな言い争いを見かねてユリアンが止めに入ろうとした――――が。
 「ユリアンは、黙っててッ!!!」
 姉妹に揃って睨み返されて、思わず後退る。こうなるとユリアンの採るべき行動は一つだ。
 「……トム〜〜……何とかしてくれよ………。」
 お手上げだ、とでも言いたげにカウンターのトーマスを振り返る。トーマスはやれやれ、と溜息を吐き、一旦息をすうっと吸い込んでから、姉妹へ向かって滅多に出さない大声を張り上げた。
 「エレンもサラもいい加減にしろ!!……モニカ様の御前で見苦しいとは思わないのか!」
 普段物静かな人間が偶に大声を出すと思いの外迫力があるものである。姉妹はびくりと肩を揺らして互いに言葉を止めた。そろそろとモニカの方を見遣ると、彼女は困ったように口の前で手を組み合わせ、もじもじと姉妹を見詰めていた。姉妹はすぐに己を恥じた。今一番困っているのはモニカなのに。直ぐにでも兄・ミカエルの許へ飛んで行きたいだろうに。こんな所で時間を食っている場合ではないだろうに。……それなのに自分達ときたら、モニカの気持ちも考えずに見苦しい醜態を演じてしまった。
 「……すみません、モニカ様。」
 「モニカ様……御免なさい……。」
 「え、いえ……そんな………。」
 謝る姉妹へ、モニカは慌てて手を振った。自分が来た所為で、この姉妹を喧嘩させてしまったのなら、申し訳ないのはこちらの方ではないか。そんな気がして彼女は瞳を伏せた。
 場がしんと静まり返る。こんな事をしている場合ではない。事は一刻を争う。――――それが分かるだけに、皆の胸の奥に苛立ちのみが募っていった。やがてその沈黙を破ったのはトーマスであった。――――エレン。静かにそう語りかけた。
 「……サラも、連れて行ってやろう。俺も一緒に行く。……それなら良いだろう?」
 「――――!」
 サラがハッとしてトーマスを見上げた。
 「……トーマス……。」
 ――――良いの?
 物問いたげなサラの瞳に柔らかく笑みで応えてみせてから、トーマスは尚も言った。
 「サラが毎日弓の鍛錬や、術について勉強している事は、俺も良く知ってる。――――エレン。君も本当は分かってるんだろう?妹も精一杯努力しているんだって事を。」
 「トーマス……でも。」
 「大丈夫。俺もユリアンもいるし、何といってもエレン、君がいるだろう。……サラの安全を保証するのに、それじゃまだ不足なのか?」
 「………。」
 「お姉ちゃん、お願い……。迷惑は掛けないから……頑張るから……。」
 サラは姉に駆け寄って懇願した。エレンはそんな妹に些か困惑した瞳を向ける。文句一つ言わずに自分の背中を追って来た妹。そんな妹が今は「迷惑は掛けない」と言う。迷惑。――――その言葉が何故かずしんと重く圧し掛かった。
 沈黙の後、ふぅっと長い吐息が洩れた。
 「……分かったわよ。」
 弱々しくも聞こえる声だった。対照的にサラの表情がぱっと明るくなる。興奮の為か、頬が紅潮していた。
 「有り難う、お姉ちゃん!」
 そう言って両手で姉の手を握り締める。エレンはそんな妹をじっと見詰め、噛んで含めるように言い聞かせる。
 「サラ、その代わり約束して。……絶対一人で行動しちゃ駄目。常にあたしかトーマスかユリアンの傍にいる事。戦いになったら、無理して前には出ない事。……幸いあんたの武器は弓だから、後ろからでも充分イケる筈だわ。良いわね?」
 「……うん、分かったわ。」
 大真面目な表情で力強く頷き返す。それを確認してから、エレンはトーマスを見遣った。――――これで良かったのか。尚もそれを問い返すが如くに。トーマスはそんなエレンを安心させるように頷いてみせた。
 ――――大丈夫。責任を持って俺が守る。
 ――――有り難う、トム。
 苦笑の域を出ないものではあったが、漸くエレンの口許に儚いながらも笑みが滲んだ。



 トーマスには確信があった。――――エレンが思っている程、サラは頼りない存在ではないと。
 実際、サラは充分な――――否、トーマス達が思っていた以上の働きをした。エレンのように腕力はないが、その代わり姉に勝るとも劣らぬ集中力と器用さで弓の狙いは常に正確無比を誇り、標的を誤る事はなかった。サラが後方から的確な支援をしてくれた事、そしてあの時偶然パブに居合わせ、一悶着あったものの一行に力を貸してくれる事になったハリードという名の冒険者が相当な猛者であったという事もあり、途中でガルダウイングという思わぬ魔物に出遭うというアクシデントはあったものの、一行は無事にモニカをミカエルの宿営地まで送り届ける事が出来たのであった。
 ミカエルより労いの言葉を受けたサラ達は、続いてモニカを更に北のポドールイまで護衛するようにとの命を受けた。乱の鎮圧まで、ポドールイに居を構える吸血鬼のレオニード伯爵の許へと身を寄せる為だ。
 「勿論、モニカが吸血鬼になられては困る。充分注意してくれよ。」
 半ば冗談のようにそう告げると、ミカエルはハリードを連れてロアーヌへと向かった。
 「大丈夫。お前達なら出来るさ。」
 別れ際に言ったハリードの心強い台詞に支えられ、後押しされるように、サラ達は北へと向かった。ハリードの抜けた戦闘は多少苦戦したが、それでも、これまでの戦闘経験を生かして無事に切り抜け、やがて一行は目指すポドールイのレオニード伯爵の城へと辿り着く。凄艶な美しさを湛えた血色の髪の吸血鬼は快く一行を迎え入れ、厚く持て成した。
 やがて乱が鎮圧された、というレオニードの報せにより、一行はモニカを再び護衛しつつロアーヌへと戻る。此処において漸くサラ達は完全にモニカ姫護衛の任をやり遂げた事となったのである。
 「皆、良くやってくれた。」
 ロアーヌ城に入った四人とハリードを見渡し、ミカエルが労う。その時、サラの胸には、無事任務をやり通す事が出来た達成感と、高揚感が渦巻いていた。
 ――――私、やれたんだ。皆の力になれたんだ。
 まだ心臓がどきどきと鳴っていた。あれはほんの少し前の事なのに、姉を羨ましく見詰めていただけの自分が、守られていただけの自分がとても遠くのものに感じていた。
 ――――何だろう、この感じ。世界が広くなった感じ。自分が変わっていく感じ……。
 皆とシノンへの帰路に着くサラの瞳には、新たな光と決意が宿っていた。
 ――――もう、昨日までの私じゃない!!



 「あんたそれ本気で言ってるの!?」
 ばん!と壊れそうな程激しく机を叩いて思わず立ち上がり、エレンは目の前の妹を鋭く見据えた。妹は、彼女にとって到底信じられない台詞を言ったのだ。
 「……本気よ。冗談でこんな事言う訳ないじゃない。」
 サラはそんな姉を真っ直ぐに見詰めて言った。今言った言葉に偽りや後悔はない。その思いが語調を強くした。そんなサラの姿は、確かに今までの彼女と違った。
 サラ達がモニカの護衛を完遂し、ミカエルに労いの言葉を掛けられたあの日から早数日が経過していた。一時穏やかな時が流れていたが、サラにはずっと考えていた事があった。――――それは、自分を試す事。自分の世界をもっと広げる事。……そう、サラはエレンに告白したのだ。旅に出たい、と。
 「……この間の事でいい気になってるんだったら、頭を冷やす事ね。あんた一人でどうにかなるなんて、世の中そんなに甘いモンじゃないんだから!」
 「そんな事思ってないもん!!……只、自分の力でどれだけの事が出来るか、試してみたいだけだもん!!!……お姉ちゃんが考えているような、無茶とは違うわ。自分の限界以上の事に手を出すつもりはないもの。今を逃したら、二度とこんな機会はないような気がするの。ねえ、お願いお姉ちゃん。行かせて欲しいの。」
 「自分の力で!?……この間の事だって、自分だけの力で出来たなんて思ってないでしょうね?あの時はトーマスやユリアンやハリードや、モニカ様が手伝ってくれたからこそあそこまで出来たのよ!……確かにサラがいてくれた事で助かった部分もあるけど、だからって思い上がるもんじゃないわ!!」
 「だからそんな事思ってないってば!!!」
 頭を振りつつサラも立ち上がる。このままでは平行線だ。何故、何故分かってくれない?同様の思いを抱え、胸の奥底からちりちりと燻って来るような苛立ちを感じつつも、姉妹は互いに目を逸らす事はしなかった。譲る気は双方共になかったのだから。
 「……違うわね。思ってるからこそ、そういう大それた台詞が出て来るのよ。一人で何でも出来るなんて思い上がって、周囲の気持ちなんて全く考えてないのよ。実際は一人じゃ何にも出来ない癖に。」
 「――――!」
 ヒトリジャナンニモデキナイクセニ。
 エレンのその言葉はサラの胸をぐさりと貫いた。黒い感情が胸を覆ってゆく。どんなに払い除けようともそれは執拗なまでにねっとりと――――競り上がってくる。どうして決め付けるの。どうして認めてくれないの。どうして。



 ……どうして、「放して」くれないの。



 「ねえサラ、分かって頂戴。」
 幾分声を和らげて、エレンは俯いて黙りこくってしまったサラの肩にそっと手を置いた。
 「……あたしは、姉として、あんたが心配なだけなのよ。サラ、あんたは大事な妹だから。……あたしには、あんたを守る義務があるから。分かってくれるわよね?サラ。」
 「……分からないわ。」
 エレンはその刹那、ぴくりと動きを止めた。信じられぬ思いで妹を凝視した。尚も俯いているその表情は窺い知る事が出来ない。だからこそ余計に異様に響いたのだ。……その、思いの外静かな、不気味な程に冷静な妹の声音が。お姉ちゃん、御免なさい。そういう答えが返って来ると思っていた。その筈だった。何時もの妹ならそう言う筈だった。しかし妹ははっきりと言ったのだ。分からないわ、と。
 「心配?……違うでしょう?」
 妹はそう言って顔を上げた。……嗤っていた。泣いているようにも見えた。普段は無邪気な色を湛えた茶色の眼が、今は鋭利な刃物の如く何者をも寄せ付けぬ冷ややかさを以って、蔑んだようにエレンを見詰めていた。見た事もない表情だった。――――妹は、こんな表情も出来たのだな。凡そ場違いな思考が脳裏をちらと過った。
 「お姉ちゃんは、自分の思い通りになる『人形』が欲しいだけよ。」
 「――――!」
 思いもしなかった台詞だった。サラの声は静かながらも次第に熱を含んでじわじわとエレンの胸を締め付けてゆく。
 「……そうやって、何時も誰かを見下ろしていたいだけよ。守るとか心配だとかいう言葉で自分の全てを正当化したいだけよ。自分はこんなに偉いんだって、褒めて欲しいだけよ!!そんなの偽善なんだから!!!」
 「……あんた……そんな事思ってたの?」
 微かに姉のその呟きは震えていた。サラはごくりと唾を飲んだ。もう、何を口走っているのか分からない。しかし喉の奥から噴水の如く溢れ出して来る言葉は自分でも止め様がなかった。完全に頭に血が上っていた。――――只全て吐き出してしまいたかった。この苛立ちを。この虚しさを。この嘆きを。私は、姉の管理する籠の鳥ではない!!
 「知ってるわ。お姉ちゃんが私を行かせたくない理由。」
 「――――何ですって?」
 「……ユリアンの事よ。」
 すっとエレンの頬が色を失う。
 「……何でユリアンが此処に出て来るのよ。」
 サラは不敵に微笑してみせた。知ってる癖に。そう言ってすっと眼を細めた。
 「お城からモニカ様と一緒にいなくなっちゃったそうじゃない。……村の皆が噂してるわ。ユリアンはお姫様と駆け落ちしたって!!」
 「――――!!」
 エレンの背筋に悪寒が走る。むかむかと突き上げて来るその感情は、決して認めたくないものであった。――――数日前、ミカエルから直々に王女護衛隊に任ぜられ城へ上がったユリアンが、モニカとツヴァイク公の子息との縁談を前に、当のモニカと共に忽然と姿を消した事は、エレンの耳にも既に入っていた。
 「……ユリアンがいなくなったから、余計に私を手放したくないんでしょう。私がいなくなったら、傍で世話を焼いて、優越感に浸れる相手がいなくなるものね。」
 「………止めなさい、サラ。」
 「元々ユリアンの気持ちに応える気なんてなかった癖に。いざ彼がいなくなったら惜しくなったのよ。それでそんな自分を認めたくないから、知られたくないから、私で気を紛らわせようとしてるだけなのよ。」
 「止めて。」
 「狡いわよ。卑怯よ。置いて行かれたからって、私を巻き込まないでよ――――!!!」
 「――――サラッ!!!」
 ――――パン!
 乾いた音が部屋に響き渡った。
 しんと静まり返った冷えた空気の中で、エレンは己の息遣いのみを耳にした。掌がじんじんと痺れていた。ゆっくりと瞳を上げると、左の頬を押さえて倒れ込んでいる妹が見えた。ハッとしてそろそろと手を伸ばす。
 「………サ、ラ。」
 「………触らないでよ。」
 サラはよろよろと立ち上がった。初めて、姉に叩かれた。
 「――――お姉ちゃん、なんか。」
 「サラ、聞いて。」
 サラはぶんぶんと頭を振った。結局最後は力か。力で捻じ伏せるのか。そう思うと最早何も耳に入らなかった。
 「――――お姉ちゃんなんか、大っ嫌いッ!!!!!」
 そのまま部屋を飛び出した。後方で姉が何か叫んでいるのが聞こえたが、もう関係なかった。
 外へ出た瞬間、強風と豪雨が顔面を激しく叩き付けた。涙と雨が入り混じってサラの頬を濡らした。 ――――そうだった。今夜もまた嵐だった。あの日のように。
 丁度良い。気の済むまで私を責めれば良い。
 サラはそのまま走った。何処へ向かうのか自分でも判然とせぬまま、只ひたすら走った。
 大っ嫌い?「お姉ちゃん」なんか?……何て傲慢なのだろう。何て身勝手なのだろう。怒りに任せて、私は何を言った?姉の最も触れられたくないであろう部分に土足で踏み込んだ。大嫌い?よくもそんな事が言えたものだ。本当に嫌いなのは、消してしまいたかったのは。
 ――――大嫌いなのは、私自身なのに。
 鳴り響く雷鳴すら、今のサラには遠かった。



 ふと物音が聞こえたような気がして、トーマスは本のページをめくりかけていたその手をぴたりと止めた。
 「――――?」
 そのまま本を閉じて立ち上がり、玄関へと向かう。誰かいるのか?と呼び掛けつつ、扉を開けた。
 「!!」
 瞬間、青年は声を失った。其処に立っていたのは濡れ鼠のようになったサラであった。風雨に晒されて、綺麗に整えられていた髪もリボンも痛々しい程に萎れ、絡み付き、普段の春風の如き爽やかな風情は何処にも見当たらなかった。
 「………サラ………?どうしたんだ、こんな………。」
 漸く声を絞り出す。すると少女はゆっくりと顔を上げた。虚ろな瞳。ほんの少し開いた紫色の唇。青白い頬。トーマスは思わずサラの手を取った。ひやりとした感覚が痛い程に伝わって来た。氷のようだと思った。
 「……こんなに、冷たくなって。」
 その時、少女の幽鬼のような面が僅かに歪んだ。
 「……トーマス……私……。」
 少女はよろよろと近付き、とん、と額を青年の胸に押し付けた。
 「………うぅ………っ。」
 そのまま泣きじゃくり始めた少女のか細い肩を、青年は只唖然と支えるしかなかった。





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