「風の歌(2)」





 「……全く、こんな事して肺炎にでもなったらどうするんだ。」
 毛布にくるまり、暖炉の炎を力なく見詰めていたサラは、トーマスのその台詞に決まり悪そうに更に顔をもぞもぞと毛布の中に埋めた。
 服はずぶ濡れになってしまったので、トーマスの寝間着を借りた。案の定上着だけでもぶかぶかだったが、女物の服はないので贅沢は言えなかった。
 指先から、ほのほのと暖かさが伝わって来て、頬にも漸く何時もの桜色が戻った、そんな時に言われた台詞だった。人心地つくと、結局またトーマスに面倒を掛けてしまった、と遣る瀬なさが募った。
 「ほら、これでも飲んで。……熱いから気を付けろよ。」
 トレイに載せた温かいミルクをトーマスに差し出され、サラはおずおずと手を伸ばし、受け取った。
 「――――熱ッ……!」
 ちりっとした痛みが指先に走り、危うくカップを取り落としそうになる。そんなサラを見て、トーマスの口許に苦笑が零れる。
 「……今気を付けろと言ったばかりじゃないか。取っ手を持たないと。……全く、エレンが心配する気持ちも分かる。」
 「………!」
 少女はぐっと唇を噛み締めた。私は――――私は、そんなに頼りないのか?だからといって、シノンから出る事すら許されぬというのか?
 「……嫌だった、のに。」
 気が付くとそんな呟きが洩れていた。トーマスは只黙ってその表情を見守った。
 「……このままじゃ、お姉ちゃんと一緒に何時までもいたんじゃ……、本当に何にも出来ない自分になっちゃいそうで、嫌だっただけなのに。怖かっただけなのに。……私、もう子供じゃないのに………。」
 「……俺に言わせればまだまだ子供だがね。」
 途端に少女の瞳にじわりと涙が滲む。
 「……酷い……トーマスまでそんな事言うの……。」
 青年はふっと吐息を吐いた。そして少女の目線に合わせて屈み込み、正面からじっとその瞳を見詰めて言った。
 「……感情に任せて他人を傷付ける事は、良い『大人』のやる事とは言えないな。」
 「………!!」
 悔しげに頬を震わせて少女は俯いた。そんな彼女の様子を見て、青年は苦笑した。一応反省はしているようだし、意地悪はこの位で良いだろう。そう思い、今度は幾分声を和らげてゆっくりと語りかけた。
 「……サラ。覚えてるか?何時だったか君は言っただろう。雲になりたい、雲は自由だから――――と。」
 サラは瞬間訝しげに首を傾げたが、やがてこっくりと頷いた。あの時は、確かミュルスの市場に行きたいと言ったのに、例によって姉は許してくれなかった。
 「そして俺は言った。『そうとも言えない。』……どういう意味か分かるか?」
 サラはふるふると首を横に振った。
 「――――答えは簡単だ。雲は『自由』なんかじゃない。」
 「――――え………?」
 まるでサラの驚きを代弁するかのように、暖炉の炎がぱちりと爆ぜた。どういう意味?目を丸くして少女は次の言葉を待つ。
 「雲は勝手に流れている訳じゃない。その行き先は風が決めている。……風があって、初めて雲は自分の行くべき方向を定める事が出来るんだ。風がなかったら、雲は何処へ行って良いか分からない。根なし草のように只彷徨うだけだ。……それは『自由』とは言えない。――――サラ、エレンはきっと、君がそうなるのを恐れているんだと思う。君が『雲』になってしまう事を。」
 「――――だったら!!」
 ガタン!と思わずサラは立ち上がった。勢いでカップに注がれたミルクの表面がゆらりと揺れる。
 「だったら私はどうすれば良いの!?トーマスもお姉ちゃんの味方で、私の気持ちは分かってくれないの!?私は雲にも風にもなれないっていうの!?そんなの……そんなの、あんまりじゃない!!!」
 「――――落ち着くんだ、サラ。俺が言いたいのは。」
 座れ、と眼で制する。サラが憮然とした表情で再び座すのを見届けてから、トーマスは更に言葉を紡ぐ。
 「自立したいという志は結構だが、具体的な目的もないまま只ふらふらと旅に出ても危険だ、という事だ。……たった十六歳の女の子が一人で旅に出るって事が実際の話如何に大変か、――――それが理解出来ない程石頭でもないだろう?」
 確かに。モニカ護衛の時はサラの他に頼れる人間が四人もいた。だが一人、となると、道すがら出遭う事になるかもしれない野党や魔物の類と果たして対等に渡り合っていけるかどうか。如何に自慢といえども、その弓の腕前だけでは些か心許ない。また、旅費等、資金の問題もある。途中で何か仕事を請け負いつつ、という考えもあるが、サラのような小娘をすぐに信用して仕事をくれる所があるだろうか。
 ……姉が怒るのも尤もな事だ。頭を冷やして考えてみれば、色んな事が見えて来る。旅に出たいなどという事は、所詮叶わぬ夢に過ぎなかったのか。――――旅に出てしまえば何とかなる、何かと干渉する姉から離れれば何とかなる、などと浅はかな考えを持っていた自分が情けなかった。腹立たしかった。悔しさと、己に対する憤りで再び目の周りが熱くなった。
 私は、何て莫迦だったのだろう。
 「――――だから。」
 その時。毛布に顎を埋めてしゃくりあげそうになっていた少女の頭にふわりと掌が載せられた。その温かさに、濡れた瞳を上げる。――――トーマスが、何時もの優しい笑みを浮かべていた。
 「俺で良かったら、君の風になろう。」
 「――――えッ………。」
 刹那、言われた意味が理解出来ず、サラは目をしばしばと瞬いた。
 「……漸く、決心が着いた。俺も暫く此処を離れる事にする。」
 「……ちょ、一寸待って……それは……。」
 どういう意味?慌ててそう問い掛けたサラに、トーマスは幾分照れ臭そうに言った。
 「御爺様からの言い付けでね。……ピドナに御爺様の古い御友人がいて、でもその方が亡くなってしまってから、その方の娘さんが行方知れずになってしまったらしい。だからその消息を突き止めてくれないかと前から言われていたんだ。……恥ずかしながら、なかなか出立のタイミングが掴めなかったんだが。」
 成る程、とサラは頷いた。トーマスが敬愛して已まぬ祖父の言葉だ。それを彼が無下に出来る筈もない。仲間達には今まで全くそんな素振りは見せなかったけれども、彼も人知れず鬱屈した思いを抱えていたに違いない。
 「――――サラ。」
 不意に名を呼ばれて、少女は再び顔を上げる。
 「来るか?――――……一緒に。」
 手を差し伸べて、青年は問い掛けた。
 サラは震えた。……ピドナ。メッサーナ王国の首都にして世界最大の都。世界経済の中心。遥か昔魔王軍に侵攻されたその名残である魔王殿には、訪れる冒険者達が今も尚後を絶たぬ、という。歴史ある都市・ピドナ――――。其処で何が待ち受けているのか。どんな人達に出会う事になるのか。それを考えた時、サラの胸に言い知れぬ昂揚感がむくむくと湧き上がった。身体中に熱が駆け抜けた。それは、心地好い熱さだった。
 トーマスを見た。にこりと彼は微笑む。……優しい。トーマスは本当に何時も優しい。何時か私も風になりたいと思う。誰かを導く事の出来る風に。揺蕩う雲を震わせる風に――――。
 サラはしっかりと彼のその温かい手を握り締めた。力強くこくりと頷いてトーマスを見上げたその瞳に最早涙はなかった。



 結局その夜はトーマスの家に泊まった。流石にあんな事があった後では、家に帰る事も考えただけで気が滅入ったし、それを察したトーマスも快く自分の部屋のベッドを提供してくれた。彼自身は居間で寝ると言っていた。一緒に旅に出ると決めたからには今後は余りトーマスに迷惑を掛けないように尚更努力しなくては。目覚めた時、サラはその思いを新たに天井を見詰めた。
 昨夜は大分遅くなった所為か、日は大分高く昇っていた。寝過ごしてしまったらしい。サラは慌てて身支度を整えると、階段を下りて居間へと向かった。トーマスは流石にもう起きているだろうか。
 居間のすぐ手前まで来た時、聞き慣れた声が聞こえた。その声の主に思い当たった時、サラは反射的に後退り、壁の後ろに隠れた。――――姉の声だ。
 そろそろと覗くと、果たしてエレンとトーマスが何事か話しているのが目に入った。はしたない事だと思いつつも耳を澄ませた。昨日の今日で、しかもこんなに突然、姉の前に出て行く勇気はなかった。サラの耳に、二人の会話が届き始める。
 「……サラが、面倒を掛けているようね。御免なさい。」
 姉の声にサラの心臓がどきんと跳ねた。やはりばれていたか。……確かにユリアンもいない今、姉と喧嘩した時の避難所としてはトーマスの所くらいしかないが、それでも妹の行動パターンなどお見通しだという事か、と思うと些か悔しくもあった。所詮自分は姉の掌の上で踊っているに過ぎぬのか――――そんな気すらしていた。
 「……エレン。昨夜はサラもかなり取り乱していた事だし――――。」
 「分かってるわ。」
 些か鎮痛な面持ちで言い掛けたトーマスの台詞を、エレンはやんわりと遮った。
 「……あの子は、本当に優しい子だもの。あたしと違って、ね。」
 苦笑混じりに呟く。そして己の右手をじっと見詰める。自分は昨夜、この手で妹を――――。
 「あたし、引っ叩いちゃった。」
 くすりとエレンは嗤った。自嘲的な笑みだった。何時もは朗らかな笑顔を周囲に振り撒いているエレンが浮かべた、自らに対する侮蔑と憐憫、そして懺悔の微笑。……それは人一倍強がりな彼女が滅多に他人に見せぬ、否、見せる事を厭う表情であった。良く目を凝らしてみれば、うっすらと目の縁に隈が見て取れる。……一睡もしていないのか。トーマスは微かに眉を顰めた。そんなトーマスに、エレンは告げた。
 「……だって、あの子が言った事は本当なんだもの。図星だったんだもの。」
 「………!!エレン――――!」
 良いの、と疲れたようにエレンは前髪を掻き揚げた。本当は泣き出したいのに、強がるつもりでニッと唇の両端を精一杯吊り上げてみせた。情けない。こんなに哀しい時でも、何故人は笑えるのだろう。何故素直に泣けないのだろう。
 「あの子は大事な妹だから、あたしが姉としてしっかり守らなきゃ、と思うのは本当。でもそれだけじゃないのも本当。……良いお姉さんでいなきゃ、そういう風に見せなきゃ、って思ってた。何処かで褒めて欲しかったのよ。良いお姉さんだねって。自分はこんなにやってるんだ、っていう言い訳が欲しかったのよ。……卑怯よね、そういうの。」
 「………。」
 「ユリアンの事もそう。……あっさりモニカ様とどっか行っちゃってさ。あたし……みっともない話だけどね、心の底では妬いてたんだと思う。そんな事考えたくもなかったけど、今回の事で嫌っていう程分かった。………嫉妬してたのよ、確かに。」
 気が付けば傍にいて何時も支えてくれたユリアン。他愛のない冗談を言っては笑わせてくれたユリアン。……そして、自分を好いてくれていたユリアン。――――恋愛感情は差し引いたとしても、大事な幼馴染だという事実は揺るぎなかった。……そんな彼を突然現れて奪っていったモニカをほんの少し恨んだ。そして同時に、何の相談もなくいきなり遠くへ行ってしまった、新たな道を見付けて自分の助けもなしに歩き始めたユリアンにも嫉妬した。
 「――――それなのに、今度はサラまでがあたしから離れて行くって言うじゃない?だからあたし、頭に来ちゃってさ。……ふふ、どうしようもないわよね。」
 「エレン……。」
 黙って話を聞いていたトーマスはぽんとエレンの右肩に手を置いた。
 「………余り自分を責めるもんじゃない。俺達は聖人君子でも何でもないんだから。」
 そんなトーマスにエレンは微かに笑みを浮かべてみせた。
 「うん、分かってる。………でも、自分が許せないから。だから、決めたの。」
 エレンはそう言って真っ直ぐにトーマスを見上げた。サラと同じ茶色の眼にふと挑戦的な光が灯る。何時ものエレンの顔だ、とトーマスは思った。
 「私も旅に出る事にしたの。……私自身を、見詰め直す為にね。」
 ――――!!
 思わず声を上げそうになり、サラは慌てて口を押さえた。姉もまた、旅に出る!?
 「……そう、これは私自身の為。サラやユリアン、……勿論トーマス、貴方にも負けてられないから。」
 「……エレン……。」
 「あ、心配しないで。ハリードと一緒だから。いきなり一人で旅立とうなんて無茶な事考えないわよ。だから安心してよね。」
 「ハリードと!?」
 これにはトーマスも少々驚いた。曲刀・カムシーンを手に華麗に舞うその姿は青年の目にも既に拭い去りようもない程深く焼き付いていた。しかし、ハリードといえば、多少金にがめつく、また、己のその強さを頑なに信じるが故に他者を寄せ付けぬような所があった。そんな彼がエレンの道連れを認めたという事は、この間の一件にてエレンの強さを認めたという事だろうか。――――まあ、何にせよハリードが一緒なら確かに安心だ、とトーマスは頷いた。
 「……で、出立は何時だ?」
 腕を組んで尋ねる。
 「明日、日が昇る前には発つわ。」
 「……それは、また急だな。」
 眉を顰めて首を傾げたトーマスに、エレンは苦笑しつつ肩を竦めてみせた。
 「元々、ハリードはこんなに此処に長居するつもりはなかったみたい。ゴドウィンの謀反も、ミカエル様にとってはそりゃあ計算ずくの事だったかもしれないけど、あたし達にとってはアクシデント以外の何物でもなかったものね。――――何か彼にも大きな目的があるみたいだし……ま、そういう訳で先を急ぎたいみたいよ、ハリードは。」
 「――――そうか……。」
 溜息と共に呟くと、暫しの沈黙が訪れた。伝えるべき事は互いに伝えた。只後一つの事を除いては――――。
 「………雲と風、か。詩人よね、トーマスは。」
 「………茶化すなよ。俺の考えを言っただけだ。」
 今一つ、心残りな事。それから逃げ出すように、ふと窓の外を見て小さく笑ったエレンの両肩を掴んで、トーマスは多少強引に彼女を自分の方に向き直らせた。そう、これだけは確かめておかねばならない。例え自分が御節介だと言われようとも。
 「エレン。そういう考えで君が旅に出るならそれも良い。立派だと思う。だがこのまま行ってしまったらサラとは――――。」
 「――――トーマス、貴方ならきっと立派な風になれる。貴方なら、本当にあの子を守ってあげる事が出来る。」
 エレンは言い掛けたトーマスの言葉を打ち消すように凛とした声でそう告げた。彼が言おうとした言葉は分かるつもりだった。……しかし、それを聞いてしまったなら折角の決心が揺らいでしまう気がした。それに、妹はきっと――――。
 きっと、会いたくないだろう。
 脳裏に浮かんだその考えに、思わず震えが全身を駆け抜けた。違う、これは言い訳だ。私は妹に会うのが怖いだけだ。再び拒絶されるのが怖いだけだ。再び「大嫌い」だと言われるのが怖いだけだ。……立派などではない。臆病なだけだ。臆病に、建前を与えようとしているだけだ――――。
 「私の風は強すぎて、あの子を何処かへ吹き飛ばしてしまう。もしかしたら、吹き飛ばすどころか滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。」
 「――――エレン!」
 エレンは頭を振った。だから、良いの。私じゃ風になれないの。――――そう言って、肩を掴んでいたトーマスの両手に、そっと自らの両手を添えた。
 「だから――――ね、お願いよ、トム……。」
 見上げた娘の瞳は潤みを帯び、懇願の色すら浮かぶ。それを間近で見てしまった青年はぐっと言葉を詰まらせ、唇を只噛み締める。
 何時までも、四人一緒じゃいられないものね。
 それが、トーマスの家を出て行った時の、エレンの最後の言葉だった。その時の彼女は異様な程穏やかな微笑を湛えていた。だが、トーマスの目にはとても寂しげで、泣いているようにしか見えなかった――――。



 「聞いていたんだろう?サラ。」
 エレンが出て行った後、トーマスは振り返りもせずに言った。
 数秒の沈黙の後、おずおずとサラが顔を出した。まだ心臓が波打っていた。
 「……ご、御免なさい……。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、出て行けなくて……。」
 「それは良い。……で、どうするつもりだ?」
 「えっ………。」
 余りに単刀直入なその問いに、サラは視線を泳がせて俯いた。トーマスは尚も畳み掛ける。
 「このままだと、仲直り出来ないまま、姉さんは行ってしまうよ。」
 「………。」
 「脅かすようだが、このまま仲直りの機会は一生ないかもしれないんだぞ?」
 「………!」
 「――――サラ!!」
 振り向いて強く呼び掛けた。しかし少女は尚も俯いたままだ。組み合わせた両手を硬く握り締め、きつく唇を引き結んで。
 「………姉妹揃って、強情だな………。」
 青年はふっと溜息を吐いた。そのままゆっくりと彼女の許に歩み寄る。
 「………サラ、良く聞くんだ。」
 囁くような声にサラはそろそろと顔を上げる。トーマスは、真面目な面持ちでそっとサラの右手を取った。瞬間腕にきらりと光ったのは、何時かエレンがサラにプレゼントした貝殻のブレスレット。それに目を遣ってから、トーマスは次にじっとサラを見詰めた。穏やかではあるものの、決して妥協を許さぬ厳然としたその瞳は、逃げるな、と諭しているようでもあった。
 「前にも言ったが、このブレスレット、良く似合う。……本当に良く似合っている。」
 「――――!……な、何……突然………?」
 こんな時に突然何を言い出すのだ。思わずかぁっと耳まで赤くなって取られていた手を引っ込めた。どくどくと鼓動が聞こえた。そんなサラに、トーマスは只、落ち着け、と言った。何処までも彼は冷静だった。サラは引っ込めた右手を左手でぎゅっと包み込みながら、上目遣いにトーマスを見た。
 「忘れちゃいけない。……エレンは確かに君を縛っていたかもしれない。だが、君に……自分の妹に一番似合うのは何か、それを知っているのも……君の事を一番良く理解しているのもまた、エレンなんだよ。」
 「――――!」
 刹那、サラは声を詰まらせた。怯えたような眼でトーマスを見詰めた。
 「良く考えて御覧。エレンが君に与えていたものは、束縛だけだったのか?……決してそうじゃなかった筈だろ?」
 ――――私を縛っていたのも姉。私の事を一番理解しているのも姉。それらは相反する事かもしれない。だが、変わらない事実がある。姉は、エレンは、思惑はどうあれ確かに――――私を、大切にしていた。そう、恰も壊れ物でも扱うように。束縛だけ?……それは違う。何時でも守ってくれた。庇ってくれた。
 先程も姉は言った。あんなに酷い事を自分に言われながら、この期に及んで容易く言ってのけたのだ。



 あの子は、「本当に優しい」子だもの。「あたしと違って」、ね………。



 ――――何故。
 トーマスはハッとして少女を見た。透明な涙が、つうと彼女の白い頬を伝っていた。
 ――――何故忘れていたのだろう。そんな簡単な事を。
 呆然と宙を見詰めるサラの涙を指で拭って、トーマスは少女の頭をそっと抱き寄せた。
 それで良い。
 少女の耳に、青年がそう優しく囁くのが届いた。



 翌朝。
 未だ朝靄の煙る中、カーソン姉妹の家の前に佇む四つの影があった。エレンとハリード、二人の出立を見送りに来たトーマスと、そして――――。
 「……サラ、隠れてたら意味がないだろう………。」
 些か呆れたように溜息を吐いたトーマスに背中を押されて、サラは漸く彼の隣に並んだ。
 ……姉がいた。何時までも視線を合わせようとしない妹に、寂しげに微笑んでいた。
 謝るつもりでいた。絶対に謝らなければと思い、そう決心して、トーマスの後に付いて来た。だが、いざその場に出ると、何を言って良いやら分からなかった。伝えたい事は沢山ある筈なのに――――折角喉に突き上げて来ても、声に出そうとするとそれは虚しく「声」になる手前で儚く萎んでしまうのだった。
 「あ、あの、お姉ちゃん、あのね………。」
 先程から零れ出て来るのはそんな台詞ばかりだった。遂にエレンが口火を切った。
 「………良いのよ、分かってるから。」
 そう言って苦笑した。
 「……色々有り難うトーマス。最後にサラの顔が見られて嬉しかったわ。」
 「……そういう言い方をするもんじゃない。」
 少々機嫌の悪い顔をしたトーマスに、エレンは言葉の文よ、と笑って付け足した。
 「……じゃ、もう行くから……。」
 どくん。
 少女の心臓が大きく跳ね上がった。――――行ってしまう。
 「……気を付けて。」
 トーマスが言った。エレンは頷くと、くるりと回れ右をした。数歩歩いて、そしてぴたりと足を止めた。
 「――――サラ。」
 「――――!」
 俯いたまま、びくりと少女の肩が震えた。今姉はどんな顔をしているのだろう。それすらも怖くて見る事が出来ない。……やがて、エレンはぽつりと呟いた。殆ど囁くような声だったが、その言葉は少女の胸に突き刺さった。
 御免ね。
 「………!!!」
 ――――「御免ね」?
 何を謝っているのだ?謝らなければならないのは私の方なのに。何時も守って貰っていたのは私の方なのに。
 男の子に悪戯されて、泣いていたサラの前にその犯人を引き摺り出し、一発拳骨を食らわせてからしっかり謝らせた時も。
 サラが薬草を採りに行って迷子になった時、夜だというのに大人達の制止も聞かずに飛び出し、最初にサラを見付け出した時も。
 私は何も言っていないのに。只泣いていただけで、「有り難う」すら言っていないのに。「御免ね」の一言で終わらせてしまうのか。そんな無責任な言葉を投げ付けて、貴女は行ってしまうというのか。
 ――――このまま仲直りの機会は一生ないかもしれないんだぞ?
 行ってしまう。姉が行ってしまう。謂れのない謝罪の言葉、只それだけを残して。
 再び踵を返して、エレンは歩き出す。もう立ち止まらない。真っ直ぐに、待っているハリードの許へと歩き出す。
 そんな事は、許さない。絶対に許さない!!



 「嘘だからね!!!」



 後方から泣き叫ぶような声がした。良く知っている声だった。それが妹のものだと分かった時、エレンは思わず驚愕の面持ちで振り返った。果たして其処には、真っ赤な顔をして自分を真っ直ぐに睨み付けている妹の姿があった。
 「嘘だからね!!大嫌いだなんて、嘘だからね!!!」
 「サラ――――!!」
 嫌いだったら憧れたりしない。羨ましがったりしない。後を付いて行ったりしない。その背中を見詰めたりしない。……ああ、そうだ。こんなに簡単な事なのに、何故今まで言えなかったのだろう。こんなに当たり前の事なのに。それに気付いた時、サラは姉の許へ弾かれたように駆け出していた。
 「お姉ちゃん、大好き――――!」
 そのまま抱き付いた。大好き、大好き。うわ言のように何度も繰り返した。何時しか涙が溢れ出ていた。
 「大嫌いだなんて、嘘。私、お姉ちゃんの事――――。」
 「――――莫迦。」
 エレンは尚もしがみ付いてくるサラに応えるように、ふわりと包み込むように抱き締めてやった。
 「知ってるわよ、そんな事。」
 不意に鼻の奥がツンとした事を誤魔化すように、そう言って軽くサラの頭をこつん、と小突いた。サラは尚もぎゅっとしがみ付いた。今だけは子供と言われても構わない。姉の温もりを、慣れ親しんだ温もりを、もう少しだけ――――このひと時だけ、感じていたい。そんな思いが胸一杯に溢れた。
 「御免なさい……御免なさい、お姉ちゃん。私、酷い事を言ったわ。謝らなければならないのは私の方なのに。お姉ちゃんが悪いんじゃないのに。」
 「……良いのよサラ。もう、良いから……。」
 妹の両肩に手を置き、そっと引き離す。
 「……頑張るのよ、サラ。」
 確かな微笑を浮かべた姉に、サラは只こっくりと頷き返す。エレンはそれを確認すると、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
 「あたしも、負けないからね。……あたしにも姉としてのプライドってものがあるんだから。あんたみたいな泣き虫に、そうそう追い越されて堪るもんですか。」
 「――――なっ………!!」
 思わぬ宣戦布告を受けて、サラはかぁっと赤くなり、涙をごしごしと拭って頬を膨らませた。
 「なっ、何よ!!お姉ちゃんだって泣いてる癖に――――!!」
 「泣いてないわよぅだ。」
 「泣いてるじゃ――――むぐッ!?」
 その先は言えなかった。エレンがサラの頭を急に自分の胸に引き寄せ、ばふっと押し付けたからである。これでは姉の顔が見えない。サラはばたばたと暴れたが、エレンは尚もぎゅっと押し付けて離さなかった。
 「お姉ちゃん、狡い!狡い!!」
 抵抗するサラにエレンは、あはは、と声を上げて笑った。笑いながら泣いた。――――不思議だった。哀しい時はなかなか泣けなかったのに、嬉しい時にはこんなに素直に泣ける。不思議だったが、幸せな気分だった。
 大好きよ、サラ。
 それ以上涙が落ちて来ないように思い切り上を向いて、瞳をしっかりと閉じて。エレンは、噛み締めるように言った。
 腕の中で、妹がこくんと頷くのが分かった。



 こうしてエレンはハリードと共に旅立った。
 じゃあね!――――そうにっこりと笑って、見送る二人に手を振ったかと思うと、ずんずん歩いて行った。只の一度も振り返る事はなかった。
 「――――お姉ちゃん!!」
 サラは一度だけ呼び掛けた。エレンはその時立ち止まり、前を向いたまま親指を立てた左手をぐっと空高く突き上げた。そしてその掌をぱっと開き、ひらひらと手を振ると、再び颯爽と歩き出した。
 グッド・ラック!
 とても姉らしいメッセージだ。サラはそう思ってくすくすと笑った。
 すっと伸びた背筋。揺れるポニーテール。少しも躊躇わずに前を向いて真っ直ぐに歩いて行くその後ろ姿は、まさしく――――少女の大好きな、姉のそれであった。



 サラとトーマスは、二人の影が消えるまで見送っていた。
 何時しか空がほのぼのと白み、小鳥の囀りがちらほらと聞こえて来た。朝が来たのだ。新しい一日が始まったのだ。――――そう、「新しい」一日。希望と微かな不安。その果てにあるものが一体何であるのか。新たな旅立ちが彼等に齎すものは何であるのか。……それは、誰にも知り得ぬ事だ。だが、「不安」は感じても、それを「恐れ」はしない。変化を恐れていては何も始まらない。その事を、彼等は既に知っているのだから。
 そう、旅立つのだ。新たな自分を探して。新たな自分に出逢うその為に。
 「――――サラ!」
 呼ばれてサラは振り返った。何時の間にか、トーマスが先に立って歩き出していた。
 「そろそろ帰るぞ。発つ前に、片付けておかなければならない事が色々残っている。……勿論、手伝ってくれるんだろ?」
 「あ、うん、待って――――。」
 慌てて後を追って駆けて来るサラに、トーマスはふわりと微笑んで手を差し出す。サラもまた、それに応えて手を伸ばす。
 走りながら手を伸ばした拍子に、少女のブレスレットがしゃらんと音を立てて揺れた。それにふと視線を落として微笑む少女の顔を、何時しか顔を出した朝日が清々しく照らし出す。……それはトーマスも久々に目にする、春風のように晴れやかな笑顔であった。
 「待って、トーマス――――!」
 その声に立ち止まった青年は、さも可笑しそうにくつくつと笑った。
 シノンの風は、今日も優しい。





FIN.


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