「ユメノ、マタユメ。」





 その時誰もが思った。奇跡だ、と。
 「珠魅の為に泣く者、全て石と化す。」――――悠遠の昔よりの、それは半ば伝説化した言い伝え。だが、これを実践した者がいた。それは、とある人間。只――――彼の人は、持っていた。他者を温かく包み込む慈愛に満ちた瞳を。それを見る者を訳もなく恥じ入らせてしまうような、それでいて心強くさせるような、素朴な一輪の花の如き微笑みを。彼の人が流した涙は、涙石と化して珠魅を滅亡から救った。人間から生み出される筈のない涙石を、彼の人は生んだ。彼の人の涙が、無垢なまでに優し過ぎた「こころ」が――――珠魅を救った。
 少女は一度死んだ。彼の人と宝石王との余りに激しい戦い。それに巻き込まれた形となって、無惨にその命を散らせた。――――勿論これは彼の人の望む所ではなかったが――――だが、彼の人が涙を流した時――――珠魅であった彼女は再び現世に蘇った。少女はその時咄嗟に捜し求めていた。「彼」も蘇った筈だ。その想いを、希望を胸に宿して。
 ――――何処に……貴方は何処にいるの。
 その時、一陣の風が少女の栗色の髪を攫った。それは柔らかく、密やかに彼女をふわりと包み込む。ああ、忘れる筈がない。最早狂おしい程に懐かしいその感覚。そのひとの温み。そのひとの吐息。振り返ろうとした刹那に耳許で囁いた、そのひとの声――――。
 ――――心は……貴女の傍に。
 それは一瞬の出来事だった。抱き竦められたと思った次の瞬間には、風は去っていた。駄目、行かないで。その温もりをいとおしむように、逃さぬように――――少女は我が身を強く、強く抱き締める。
 ――――アレク………!
 少女が口にしたそのひとの名は、虚しく仲間たちの歓声に掻き消されて……只、彼女の細い溜息だけが余波の如く其処に揺蕩う。貴方は又、行ってしまうのですね。私を置いて。――――少女は、暗い瞳を上げた。その瞳は最早少女ではなく一人の「女」のものであったかもしれない。



 一面の闇とも思える深閑な森の中を、しずしずとその少女は歩んでゆく。否――――少女という形容は適切ではないかもしれない。何故ならば、彼女は珠魅である。その胸の核さえ傷付く事なければ、悠久の時間さえ持ち得る種族。それが、珠魅。――――そんな彼等であるから、外見年齢のみを問う事は無意味に等しいのである。
 白磁の如く滑らかな頬。今だ稚くも見える唇。歩む毎にゆらゆらと波打つたっぷりとした栗色の髪。おずおずと投げ掛けるあどけない瞳。確かに彼女は少女の風体をしている。只、その瞳には別の光が宿っていた。それは宛ら虚空へ舞う陽炎の如く揺らめいて、艶麗な輝きをその瞳の内に作り出す。其処に居るのは、紛れもなく、美しい一人の「女」――――。
 草を踏み分けて歩いてゆくその姿はこの世ならぬものに導かれている風にも見える。それでいて尚且つ、彼女は珠魅の「姫」である。姫が騎士も連れずに森を独り夢遊病者の如く彷徨う姿は、それは正に異様だと言わねばならないだろう。珠魅狩りは、確かに昔程の勢いはない。だが、それでも完全にそのような不埒な輩がこの世から滅したという訳ではないのだ。姫の独り歩きが危険である事には変わりない。彼女自身それは百も承知している。恐ろしくない、と言えば嘘になる。――――だが。
 ――――だが、それでも。確かめねばならぬ事があった。逢わねばならぬひとが居た。危険を冒しても、尚。……私は、信じる。願いとも誓いともつかぬ想いを抱え、彼女は歩き続けた。さやさやと衣擦れの音のみが湿り気を含んだ大気に溶けて、夜の無言が傍観を気取る。
 不意に視界が開けた事に気付いて、少女は歩みを止めた。其処にあるのは湖であった。青白い月光をその波に反射して鏡のようにきらきらと光る。汀で屈み、魅入られたように湖面を覗き込む。これは、核の煌めきにも似ている。そう思いつつその光を掬い取ると、ぱしゃん、と音がして鏡が揺れた。
 「――――何をしておいでなの?」
 その時咎めるような、それでいて戸惑いを含んだ女の声が響いた。少女はそれを聞いてふっと瞳を閉じた。刹那の沈黙の後、再び眼を開けると、湖面は元の静けさを取り戻していた。自分の顔が映っている。否、それだけではない。もう一つの顔が其処に見える。後方より感じられるもの問いたげな視線。彼女はすっと立ち上がった。淡い笑みが一瞬だけその唇を彩る。
 「漸く会えた。貴方に。サンドラ――――いえ。」
 ゆっくりと振り返って、待ち受けていたかのように――――そう、確かに彼女は待っていた――――眼前の人物を見詰めた。
 「――――アレクサンドル。」
 そう呼ばれた男も又静かに少女を見詰め返していた。



 「……試したな、俺を。」
 無表情にも似た紫紺の眼の中に微かに困惑の色を浮かべてそう言った彼に、彼女は只苦笑した。その表情が柔和ながら己を責めているように見えて、アレクサンドルは押し黙り、ふいと視線を逸らす。その瞳が訴えかけていた。だって、こうでもしないと……煌めきの都市の外でないと……貴方は、会ってはくれないでしょう?
 自分が一人になれば、きっと彼は現れる。信じたかった。このひとは未だ自分の騎士であると。――――だから、彼女はその可能性に懸けた。そして、彼は現れた。小さな幸せに、ほんの少しだが……彼女は、胸を酔わせた。だが、彼女は言った。恍惚を断ち切るかの如く。
 「――――アレク。煌めきの都市には……もう、戻るつもりはないのですか……?」
 それは聞いておかねばならぬ事だった。もう貴方は戻っては来ないというのですか。私の傍に。女は唇をきゅっと引き結んで男の返答を待った。これまでに感じた事のない、凛とした強さを含んだ女の言葉に幾分はっとさせられながらも、男は俯くしか術を知らなかった。暫くそうしてから、やがてゆっくりと顔を上げる。
 「………もう、戻れないよ。戻れる筈もない。蛍。」
 「――――どうして………?」
 どうして。思わず少女は――――蛍、と呼ばれたその女は、そう言った。だが心の何処かで予想はしていた。きっと、あのひとはそう言い放つに違いないと。それでも諦め切れなかった。聞かずにはいられなかった。我ながら、愚かだ。そんな想いがちらと胸を掠めていった。
 「――――サンドラの正体については……私やディアナを始めとする一部の珠魅と、『彼の人』しか知りません。……だから、貴方が戻って来ても……何の不都合があるというのです?今回の事は……珠魅一族が皆で背負わなければならぬ問題。それなのに……貴方のみが……貴方がたった独りで……業を、背負うと言うのですか?」
 ――――ああ、嫌。
 蛍姫は直ぐにも背を向けてしまいたい衝動に駆られた。自分は何を口走っているのだろう。飽くまで己に都合のいい解釈に外ならないではないか。私は只、傍に居て欲しいだけだ。繋ぎ留めておきたいだけだ。このひとを。それは畢竟、我侭に過ぎない。たった独りでその罪に耐えようとするアレクサンドル。本当は誰よりも優しかった。只、それだけだった。そんなひとだったからこそ、私は――――。
 「……たとえそうであろうと、同族殺しの罪が消えて無くなる訳でもない。――――これは、俺のけじめだ。……分かってくれ。」
 「――――分かって、くれ………?」
 ――――貴方は分かっているの?それが私にとって、どんなに無慈悲に響く言葉なのかを。
 何時しかその黒々とした瞳は潤みを帯びて、詰問するかの如く男をひたと見詰める。
 ――――蛍。
 男はその瞳に言葉を失う。せめて、正面から受け止めよう。……その責めを。他に何が出来る?この俺に。――――アレクサンドルはぐっと両の拳を握り締めた。そう。何をしてやれる?蛍、お前に。この同族の血に塗れた両手で。
 「そう……何も、してやれないから……。」
 「――――アレク………?」
 独り言のように呟いたその台詞に気付いて、蛍姫はその美しい眉を顰めた。
 「――――何を……、言っているの……?アレク………。」
 あのひとは気付いているか。こんなにも今、震えている私の声に。早鐘のような鼓動が聞こえる。蛍姫は思わず我が身を抱き締めていた。アレクサンドルは絞り出すように更に言葉を紡いでゆく。
 「傍に居る資格など、俺には無い。ましてや、蛍……お前を――――。」
 ――――愛する、事など。
 喉まで出かかったその言葉を、アレクサンドルはすんでのところで噛み殺した。嘗て彼の人が口にした台詞を、今まざまざと思い出す。
 ――――蛍はキレイだ。姿も、「こころ」も。
 分かっている。そんな事は。――――だからこそ。だからこそ、俺がそれを囁いて良い筈がない。俺には、その資格が無い――――。
 その時だった。男の思考を遮るが如く、女が溜息と共に吐き出した言葉は。
 「――――傲慢なひと。」
 「――――!」
 どきりとして見上げた視線の先にいた女は、曇りのない澄んだ瞳で静かに男を見据えていた。責めているようでもあり、憐れんでいるようにも見えるその瞳は、何処までも暗い影を男の心に投げ掛ける。それでも尚清廉なまでに可憐なそのひとの美しさ。戸惑いを覚えながらも、もう視線を逸らす事は出来ない。蛍姫は更に言い募る。――――想うひとの傍に居る事に、貴方は資格を問うのですか。
 「……傲慢なひと。酷いひと。哀しいひと。優しいひと。そして――――。」
 白魚のような指が、そっとアレクサンドルの頬に触れる。触れて初めて知った、そのひとの震え。彼は息を呑んで見詰め返す。
 「――――愛しい、ひと………。」
 「………!!」
 愛しい。今の言葉は己の願望が生んだ幻聴か。只、アレクサンドルは目を見張った。深深と降り積もる雪のように、それは彼の胸にひそやかに触れて……滲んで、溶けた。
 ――――でも。
 瞳が囁きかけている。上から下へ――――頬の線を、白い指先がなぞる。
 ――――貴方は、そうではないのですね。言ってはくれないのですね。全ては自分の我侭だと。
 ――――何を………。
 ――――許してはくれないのですね。少しの自惚れも。
 ――――………!
 「――――分かりました。」
 呟いて、女はくるりと背を向けた。互いの胸を切り裂くような、その言葉と共に。一瞬何が起きたのか分からずに、男は愕然と目を瞬いた。――――「分かった」?一体何が分かったというのだ?
 「……無理に、戻れとは最早言いません。私には貴方を束縛する権利などないのですから。貴方は……アレキサンドライト。空に浮かぶ雲のように、捉えどころのない……。騎士であるとか……姫であるとか……珠魅の、掟などに縛られるべきひとではないの……貴方は。生きて……どうか――――。」
 ――――どうか、自由に。
 そう呟いて、蛍姫は一歩を踏み出した。アレキサンドライト――――その輝きは何処までも移ろい易く、何処までも奔放……。核とはやはり、宿命なのか。
 待て。――――表情の無い蛍姫の言葉に、アレクサンドルは思わずそう漏らしていた。
 「――――蛍。」
 「――――!!……来ないでッ………!!」
 一歩その背に近付いたアレクサンドルを、悲鳴のような鋭い叫びが制した。
 「こ、来ないで……このまま、行かせて……これ以上此処に居たら、私は……私は、何を口走るか分からない………!!」
 「………!!」
 ぎり、と男は奥歯を噛み締めた。構わず女の二の腕を掴んだ。俺が見逃すとでも思っているのか、お前のその肩の震えを。――――男は指に力を込める。そして囁く。その声も又、微かに波打っていたかもしれない。
 「――――こっちを向け、蛍………。」
 「………。」
 小さく震えながらその美しいひとは頑なに顔を背けて。だから彼は堪らず声を荒げた。
 「こっちを向くんだ!!蛍ッ!!」
 そう言って無理矢理振り向かせた。強情にも尚俯こうとするその頤を持ち上げ、強引にこちらを向かせる。その瞬間、お互いの瞳が出会う。尤も、女は直ぐに瞳を閉じてしまって、後には男の遣り切れぬ表情だけが残ったのだから――――それは刹那の間でしかなかったのだが。しかし、確かに見た。在りし日、恥じらいつつも優美に微笑みかけてくれたそのひとの眼は……どのくらいそれに耐えていたのか、今や赤みすら差していた。閉じた瞼と睫毛の間からはらはらと零れ落ちる幾つもの滴。それは頬を伝い、淡雪のように白い光を滲ませて――――涙石となって落ちてゆく。
 「泣くな……泣くな、蛍。」
 涙石。それは珠魅の命そのもの。とめどなく、文字通り溢れ出てゆくその命を前にして、「泣くな」――――只そう言ってやる事しか出来ない歯痒さにアレクサンドルは唇を噛んだ。
 「――――放し、て。」
 瞳を閉じたまま、くぐもった声で懇願したそのか細い声は消え入る直前の炎の揺らめきにも似て。それは彼の心を激しく揺さぶる。俺が望んでいたのは、こんな光景か?――――違う!只、笑っていて欲しかった。只、生きていて欲しかった。一族の存続の為に柱になるなどという、馬鹿げた理由でその命を吸われたくはなかった。それは俺の我侭だというのか。そう思う奴等には、思わせておけばいい。後悔などしていない。たとえそれがお前の心を抉る程の無慈悲な行為であろうとも――――。
 何時の事であったか、偶然「彼等」と出会ってしまった時があった。
 ラピスラズリの騎士が咎めるように言った。
 ――――アンタが都市に戻らん事には、蛍は救われないんだぞ。
 苦笑するしかなかった。分かっている、そんな事は。お前のような青二才に言われずとも。
 白真珠の姫が哀しげな眼をして言った。
 ――――お互いを必要としない騎士と姫なんて、あり得ないでしょ………?
 分かっている。あのひとがどう思っているのかは知らない。だが、俺には必要だった。もしも居なくなったなら。――――それを思うと胸を掻き毟られる心地すらした。
 だから、生きていて欲しかった。その為には憎まれようと一向に構わない。そう思っていた。思っていた、筈だったのに。……今は、こんなにも苦しい。こんなにも辛い。こんなにも歯痒い。
 蛍。――――玉石の姫よ。
 貴女は知らないだろう。玉石の座に就き、礼服を纏った貴女を見て、余りの眩しさに溜息すら忘れた愚かな男が居た事を。
 貴女は知らないだろう。あのレディパールから騎士を引き継ぎ、貴女をこの手で守る事が出来る喜悦に、密かに酔いしれた男が居た事を。
 ずっと触れたかった。その小さな掌に、その甘い髪に、その愛らしい頬に、そして、――――その、赤い唇に。……ああ、そうだ。認めよう。忘れた事などなかった。何時だって想っていた。
 ――――蛍姫。貴女を。



 ふいに襲った温かい感触。びくりと眼を見開く。男の唇が、女のそれを塞いでいた。ざあっと頭に血が上り、泣く事すら忘れて、只女は呆然と目を見張る。やがてその唇を僅かに離して、男は囁いた。熱を含んだ吐息が女の頬を擽ってゆく。――――これは夢だよ、蛍。
 「ゆ……め………?」
 「――――そう、夢だ。明日になれば……全て夢であったと分かる。」
 「……これが、夢だというのなら。」
 再びその眼は光を帯びて。それでいてひたと男を見上げる。
 「……私は……永遠に、夢の住人でいたい………!」
 「……蛍………!」
 男は瞼に口づけてその涙を吸った。涙が石へと変わる前に。女の命を、貪るように。――――蛍、蛍……。熱に浮かされたように、男は何度もそう呼びかける。幼子のよう。男の両手の中で、女の瞳が微かに笑う。それが愛しくて、男は再び唇を重ねた。そして、真っ直ぐに見詰める。その紫紺の眼に、僅かな怯えと戸惑いを滲ませて。
 「……ならば……蛍。今夜……この時だけでいい。……俺だけのものに、なってくれるか。お前の生を――――俺に、くれるか?」
 震えている。こんなにも、声が。それに気付いて、目の周囲が熱くなる。……俺は、泣いているのか?――――その時、男の背に回された白い指に、きゅっと力が込められる。はっとして瞳を上げる。其処には、恥じらいつつも聖母のように微笑んだ、そのひとの笑顔。――――そうだ、その眼だ。……それが、答えなのか。それがお前の答えなのか、蛍――――。
 頬に触れた唇は、首筋を伝って胸元の核へと滑り落ちる。女は微かに肢体を震わせて……再び、ゆっくりと瞼を閉じた。



 遥か頭上より見下ろす月。こんな夜には似つかわしくない程に賑やかな満天の星空。仄白く降り注いで、その光は淡く恋人達の姿を照らし出す。彼等だけが知っている。これが紛れもない、現実であるという事を。――――これは、夢だ。男の声が耳許で囁く。繰り返し、繰り返し。
 アレキサンドライトの何時になく優しい、甘い煌めきに包まれて、蛍石は只静かに――――陶然と身を任せる。
 それは、泡沫の幻。――――夢の、又、夢の出来事。





FIN.


あとがき読みます?



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