トラン共和国中央政庁は、首都グレッグミンスターを見下ろす小高い丘の上にある。簡明さを尊ぶ共和国政府にしては、国家を象徴する政庁が壮麗かつ巨大な建造物であるのは、かつての赤月帝国宮殿の一部を修理して使っているためだ。
建物が大きいから、当然、庭園も広い。季節ごとに咲き乱れる花を愛で、樺の並木道や、さらさらと流れる小川のほとり、木漏れ日が美しい楓林などを散策していると、いつのまにやら薄暗い木下闇をひとりぽっちで歩いていることに気づく──。
カスミが歩いているのも、そんな、人目につかない一角だった。
よく晴れた夏の午後。白々とした日射しは無雑作に、小道を覆う灰色の石畳に注いでいる。右手の斜面には樺の木が並び、左側には白い花をつけたサンザシやリンボクなどの丈の低い木々が、足下にくっきりとした影を落とす。石畳の両側に生えた芝草が、しっとりと地面を覆い、カスミはその上を灌木によりそうように、ゆったりとした足取りで歩いていた。
何気なく手を伸ばしたカスミは無意識に、房のように垂れ下がるリンボクの花をちぎった。そのままくるくると手でもてあそぶと、甘い芳香がいきなりふわりと匂い立つ。
ふいにカスミは、少し前に突き出た灌木の茂みに、リンボクの花を投げつけた。ぱさっと、小気味よい音を立てて、花房が落ちる。
「──気づいたのなら、そう言わんかい」
ふいにリンボクの茂みが、ざわめいた。わずかに顔をしかめ、カスミは立ち止まった。
「──イサチか」
「ほい、わしじゃ」
からかうように、老人の声がした。
「人を呼びだてしておいて、イサチか──も無いものじゃ」
ざわっと茂みが揺れたかと思うと、小柄な老人が現れた。ざんばらの白髪を首の後ろでぎゅっと結び、下男が着るような、くすんだ茶色の簡素な服に身を包んでいる。
「レパントに呼ばれたそうじゃな。お主の話は、そのことか」
単刀直入に言われて、カスミはうなずいた。
「……同盟への援軍のことで相談があると、言われた」
イサチの目が、わずかに細められる。
「援軍、とな?」
「早耳のイサチ老でも、まだ聞いていないか」
からかうように言うと、老人は顔をしかめた。
「かつての師匠をからかうものではない。戯れ言を並べてないで、さっさと話せ」
ああ、とつぶやくように応えると、カスミは先ほどのレパントとの会話を繰り返した。
「──そろそろあちらを出発したころだろうな」
重々しい声でレパントが言ったのは、ジョウストン都市同盟から同盟軍リーダーを筆頭にした一行が、グレッグミンスターに来訪することを指している。カスミは低い声で、はい、と言った。
現在、共和国政府は、大慌てで歓迎のための用意を薦めているところだった。たとえ一行の目的が、トランとしては迷惑きわまりない更なる援軍要請だとしても、一行を率いるのが同盟軍リーダーその人とあっては、国を挙げて迎え入れねばならない。宿舎となる館や中央政庁は塵一つないほど清められ、グレッグミンスターの市民は、こぞってそれぞれの家の壁や道を洗い、花を窓辺に飾っている。垂れ幕が用意され、一行が到着する日は政府から菓子がふるまわれるとあって、子供たちは今からそれを楽しみにしているのだ。
「──デュナン南部はすでに同盟軍の支配下にあるというから、何の問題もなく到着するだろう。もっとも、同盟軍と呼ばれてはいるが、現実には同盟の名などすでに有名無実のものとなっているがな」
むっつりとして、レパントが言った。特に機嫌が悪いわけではない。トラン共和国初代統領をつとめるレパントは、もともと表情のいかめしい男なのだ。
「……ハイランドの侵攻により、ジョウストン都市同盟の地図はすっかり塗り替えられた。かつて、ミューズ等の市国と衛星都市によって治められていた同盟領は、いまやデュナン南部からトゥーリバーを治める新同盟軍、北部とグリンヒル市国領を支配するハイランド軍に二分され、かつての姿をかろうじて保っているのは、ハイランドに従属することで命脈を保っているマチルダ騎士団領と、未だ旗幟を鮮明にしないティント市国領のみだ」
はい、と大人しくカスミは相づちをうった。
「我が国が同盟軍に援軍を派遣したのは、ルカ・ブライトの猛威がかの地を覆った後は、トランをも征服するだろうという予測がたったからだ。だが、狂皇ルカの危険が去った今は、別の懸念が生じている」
「同盟の地において、かつてのデュナン王国の再建が叫ばれている──との噂ですか」
ささやくように言うと、うむ、とレパントはうなずいた。
「再建と言っても、どうするつもりなのか。王族の血など、とうに途絶えてしまったはずだ、現在ノースウィンドウにおいて同盟軍を掌握しているのは、ハイランド出身のリーダーであるジムスどのと、かつてはトランに在ったこともあるシュウ軍師だけだ。彼らのどちらかが王になることを、同盟領の者たちが簡単に肯んじるとは思えんが……」
しばしの間、レパントはそれについて考え込む様子だったが、やがて同盟からの一行の目的に話題を移した。
「我が国が援軍を撤退すると言えば、必ず何らかの方法で慰留を望むだろうとは思っていたが……。まさか、リーダー自らがこちらに赴き、対ハイランド戦へのさらなる援助を要請しようとはな。ハイランド軍がミューズ市国領まで撤退しているとはいえ、シュウという軍師もずいぶんと大胆な手を打ってくるものだ」
「……先の援軍要請の際にも、リーダーどの自らがこちらに来訪されました。そのときの成功を、彼らは当て込んでいるのでしょう。それに、留守を守るシュウ軍師は利け者です。おいそれとはハイランドに攻め込ませないでしょうし、主を失ったハイランド軍が混乱していることも見越しているのでしょう」
わずかに頭を下げ、静かに答えたカスミに、レパントは歪んだ笑いを向けた。
「事実、我らは援軍の撤退を断念せざるを得なくなった。国家を代表して訪れる同盟軍リーダーからの要請を無視すれば、長年の確執を乗り越えようやく成った同盟との友好条約がつぶれてしまう。とはいえ、こちらも他国に多くの兵を貸す余裕があるわけではない」
苦々しげに、レパントは言った。数年前に赤月帝国を滅ぼした後、新生国家として創立したトラン共和国は、帝国時代から続く外患に今も悩まされているのだ。
東方では剽悍な山岳部族が国境を侵して略奪を図り、西方は鉱山の所有権をめぐり、ゼクセン諸州やティント市国との小競り合いが絶えない。だが、今もっとも憂慮されているのは、南方諸国家が領土の拡大を求めて、トランへと軍を進めていることだ。共和国軍総司令官クワンダ・ロスマンが防衛のために南方へと向かっているが、一歩間違えれば全面戦争になりかねない事態に、共和国政府は日夜対処に追われているのだった。
「正直、今の我らには、同盟を助ける余裕などはない。……それに、今のまま同盟軍が勝利して、ジョウストン都市同盟領とハイランド王国のすべてを覆うような一大国家が建設されでもしたら、我々は北方に、ハルモニア以上の脅威を持つことになる。軒を貸して母屋をとられるような馬鹿げた羽目に陥るのは、どうにかして避けたいものだが……」
ため息まじりにそう言って、レパントは、あの方がこの場にいてくだされば、とつぶやいた。
「ゲランさまが──ですか」
ことさらにその名を、口に出してみた。
「あの方おひとりがいらっしゃれば、苦境を脱することができるわけでもないでしょうに」
「もちろん、そうだ」
驚いたようにまばたきして、レパントがこちらを見た。
「だが、もしゲランどのがこの場にいらっしゃれば、我々の選択肢はいくらでも広がる。たとえば、あの方が軍を率いて東方へ赴けば、蛮族をさっさと蹴散らすことができる。ゲランどのご自身が優れた戦略家である上に、東方の蛮族どもは未だゲランどのの御父君であるテオ・マクドールの恐ろしさを忘れてはおらん。鬼神のごとく怖れられた将軍を、その手で倒した息子が行くとなれば、蛮族どもの士気は格段に衰えることだろう。いや、東方だけではない。解放戦争を勝利に導いたトランの英雄の武威は、未だ国内のみならず、国外にも鳴り響いている。戦力に大いに影響を及ぼす士気が、あの方ひとりの存在で大いに変わってくるのだ」
「…………」
無言でいると、レパントは苦笑をもらした。
「私もこれが、無為な空想だということはわかっている」
己を嘲笑うように、レパントの口の端が上がった。
「だが、無為と知っていてなお、我らはゲランどのの幻影にすがろうとしてしまう。あの方がいらっしゃれば、解放戦争の時のように我らを新しい道に導いてくださるのではないかと、そう思ってしまう。だが──」
自嘲の笑みが、深くなった。
「もしもこの場にゲランどのがいれば、我々をお叱りになるだろうな。英雄の存在になど頼るな、とあのころからよくおっしゃっていた。解放戦争は多くの人々が尽力した結果のものであって、たった一人の英雄に全ての結果を帰結させてしまえば、それはいつの日か独裁制の芽となり、国家の行く末に禍根を残しかねない。共和制とは全国民が国家の運命を担う政治機構であって、英雄に頼りさえすれば全てが解決するなどという依存的な発想は、国家を害するものだ──とな」
ため息をつき、首を振った。
「解放戦争のころ、我々は浅はかにも、帝国さえ倒せば良い時代が来るのだと思っていた。新しい国家への展望を持ち、制度の改正などについて真剣に考えていたのは、ゲランどのと軍師どのだけだった。だが、解放戦争が終結すると同時にマッシュどのは永眠し、ゲランどのも、ようやく制度の基礎がためができたところで──」
そこまで言い、レパントは気がかりそうに周囲を見て、ふいに会話をうちきった。ゲランについて──ことに彼が、四年前に出奔したことについて話すのは、事情を知るごくわずかな数の共和国幹部にとっては禁忌だった。国内の混乱を避けるため、国の内外には、ゲランは病を得てとある場所で静養していることになっているのだ。
今頃どこにいらっしゃるのだろう。
むなしさをこらえ、カスミは思った。
あの方が──ゲランさまが都を出られたのは、四年前の春まだ浅いころだった。あれから季節はめぐり、荒れ果てていた町も復興し、帝国の圧政から逃れた人々は繁栄しつつある新時代を謳歌している。
だのに、あの方だけがいない。生きておられるかどうかも、わからない。
このまま時が過ぎれば、あの方がいらしたことさえ、人々は忘れてしまうのかもしれない。
「──それで?」
カスミの感傷を断ち切るように、老人が言った。
「現在の情勢など、今さら説明されるまでもない。レパントは、それで何を言ったのじゃ?」
老人にせかされ、カスミはわずかに苦笑した。
「……将軍としての私に、命令がくだった。同盟への援軍を率いる将になり、ヴァレリアの後任として同盟の地に赴け、と──」
「ほ、それは、それは」
面白がるように、老人はつぶやいた。カスミはぞんざいに言葉を続けた。
「ただ単に、なれというだけではない。ロッカクの兵五百を率いて、援軍にまぎれこませて連れて行け、との仰せだ」
「ほう?」
ぎょろりと目を光らせて、老人がカスミを見上げる。
「受けたのか」
「まさか」
舌打ちまじりに答えた。
「他の地域から諜者を引いても良い、というならいざしらず、現状のままでそれだけのものを連れて行けば、里の防備ががら空きになる。おいそれとうなずける話ではない」
「帝国が共和国になろうとも、相も変わらず連中は人使いが荒いの」
くつくつと、老人は喉で嗤った。
「私の一存で、このような重大な申し出を受けることはできぬ。一度頭領と連絡をとって──とは言っておいたが、里に戻って頭領からの指示を仰いでいては、同盟からの一行が来てしまう。受けるにせよ、断るにせよ、この場で決めねばならない」
「なるほど、の──」
視線を灌木にさまよわせた老人が、ふと、眉をしかめた。
「とはいえ、わしも、たいした助言はできん。せいぜいが数をできるかぎり減らせ、というくらいじゃな。お前も今では、共和国の禄を食む者。命令など受けぬと言うわけにもいかんじゃろう」
「その数について相談したい。何人くらいならば、出せる?」
「…………」
老人は、目を細めた。
「……せいぜいが三百じゃな。もっとも、西方と東方に割いている人員を根こそぎ持っていけるなら、五百も不可能ではないが。解放戦争の前ならば、我らも、五百と言わず七、八百の人数を割けただろうが……」
「三百か」
老人の繰り言を無視して、カスミは脳裏に己が率いるべき軍団の様相を思い浮かべた。同盟軍に怪しまれないよう、各部隊に少しずつ諜者を配置し、同盟の内情について探らせる。そのためにはカスミとしても、三百以上の手勢がほしいところだが、無いものは仕方がない。
「それにしても五百、とはの。レパントはどうやら、このたびの同盟対ハイランドの戦いから別の果実を摘もうという心づもりらしい」
「ただ援助しつづけるほど、トランも裕福なわけではない。同盟との友好を深めて長年の確執に終止符を打つのも良いが、国家間の友情など、いざとなれば簡単に崩れ去る程度のもの。それよりも同盟とハイランドとの戦いが膠着状態に陥るよう画策し、両国を弱体化させて漁夫の利を得たい──と共和国政府は考えているのだろう」
「連中の思惑通りに、事が運ぶかの」
小馬鹿にしたように、老いた諜者は鼻に皺を寄せた。
「第一、北方に色気を出せるほど、この国が強いものかよ」
「統一国家の出現が時代の趨勢と言うものならば、それはそれで仕方がない。だが、現在の国際情勢を鑑み、共和国の国益にいかに結びつけていくかを模索せねば、新生なったばかりのトランも早々と弱体化し、他国に侵略されて滅ぶだろう。そんなことは、させない。あの方が──」
握りしめた拳に、思わず力がこもった。
あの方が、ゲランさまが、ご自身の持つ全てを懸けて創り上げたこの国を、誰にも滅ぼさせはしない。絶対に。
「……形有るものが滅びるは道理じゃ」
謳うように、老人が言う。
「つまり政府の者どもは、どっちに進むにしても情報の収集は欠かせないと言うておるのじゃろ。まさしく正論じゃが……」
「問題があるのか?」
問うと、老人は皮肉げに顔を歪めた。
「ここから同盟の地まで、いかほど離れていると思う。我らがあの地の情勢を探索し、その結果を共和国政府に通報し、それをもとに奴らが議論して、同盟対ハイランドの戦いにおいて共和国が取るべき道を探る。さてさて、何とも迂遠なことじゃの。議員どもがようやっと己の道を定めたころには、戦いなぞ終わっておるわ」
「…………」
「かといって、お主に判断を預けるのは無茶というものじゃ。お主はまだ若く、経験も足りん。そのような大役を仰せつけるにはいかにも頼りなさすぎるからの」
それは事実なので、カスミは反論しなかった。若すぎること、経験が足らぬことをさておくとしても、自分にはそれだけの判断を下す能力が無い。もとよりそのような大役を果たせる者など、国内には何人いることか。もしこの場にあの方がいらっしゃれば、もちろん──。
「それで、レパントはまたもや繰り言でも言ったか。ゲランさまがこの場にいらっしゃれば、などとな。どうやらお主も、かの御仁と同感のようじゃ」
カスミの思いを読みとったかのように、老人が言った。
「──違う」
ぶっきらぼうに、カスミは言った。ひ、ひ、と老人が嗤う。
「空しい望みよの、お主も、レパントも。ここにおられぬ方のことを思うてどうなる?」
「…………」
「……ミューズから先、あの方の足取りは消えた。いくら賢く強い方じゃと言うても、ゲランさまは貴族の御曹司としてお育ちになられた。ひとりで野宿したことはおろか、生活の資を稼いだことさえない方が、グレッグミンスターから遙かミューズにたどり着いたこと自体奇跡というものじゃ。もし生きておられるとしても、今頃はゼクセンか、はたまたさらに遠い異国におられるか──ともかく、この世では二度とお会いすることができぬじゃろう」
「……もしかすると帰っていらっしゃるかもしれない。この国は、あの方の故郷なのだから」
ぽつりと返した言葉が、我ながら弱々しい。ふん、と老人が鼻を鳴らした。
「どこにおられようとも、戻られるおつもりならば、とうにそうしていらっしゃる。だのにその気配もつかめないのは、このまま異国の地で果てることを望んでおいでなのか、それともあの方を知るものがいなくなってから、こっそり戻られるおつもりなのか、はたまたすでに命を落とされたか。──」
「──イサチ」
鋭く遮る。が、老人はそのまま言葉を続けた。
「──今は何処の空の下におられるか、生きておいでかもわしらにはわからぬ。ならば、お亡くなりになったと思うのが一番じゃ」
「よせ、イサチ。これ以上禍言を言うなら、その口を耳まで引き裂いてやる。あの方にどれほど我らが恩を受けたか──今日我らが人がましく生きられるのは、どなたのおかげだ? 我らを道具としてではなく、人として遇してくださったゲランさまへのご恩を忘れたか」
「忘れてはおらぬ」
傲然と、老人は胸をそらした。
「おらぬからこそ、わしは、あの方の望みのままにするべきじゃと申している」
頑固な老人は、口を曲げてカスミを見上げた。
「国を出られたのは、ゲランさまがご自分で選ばれた道じゃ。あの方は、わざと警護の数を減らし、我らが後を追えぬよう十分に準備なさってから姿を消された」
「────」
「もちろん我らも、手をつかねていたわけではない。お主も知るとおり、すぐさま国内の街道と港を押さえ、探索の手を各地に伸ばした。じゃがあの方は、それを見越しておられた。こともあろうに樵すらも立ち寄らぬ西の山地を越えて同盟領に入り、我らがそうと気づいたときにはすでに一年余が経過していた。そうして今も、あの方の行方は知れない」
無言で、カスミは唇を噛んだ。
「政府の連中も、あの方はすでにこの世におられないのではないかと思っておる。一人放浪することがいかに危険であるか、それを知らぬお主ではあるまい」
「だから忘れろ、というのか」
震える声で、叫ぶように言った。
「まだ四年──四年しか経っていない。だのに皆が、あの方を忘れようとしている。あれほど祖国のために尽くし、すべてをなげうって戦われた方を忘れ、己のみが繁栄を楽しもうとしている。そんな忘恩の徒に私もなれと言うのか」
「……仕方あるまい。それが、ゲランさまの願いじゃ」
ぼそりと、老人が言った。
「お前が言うほど、世間のものはあの方のことを忘れているわけではない。いつ戻ってこられても良いようにと、屋敷は常に整えられ、都におられぬあの方のかわりに御父君の墓には毎月花が飾られている。出奔したと知らぬ庶民どもは、病を得て何処かに隠棲しておられるという政府の言を信じて、日に一度はあの方のご回復を神に祈っておるのじゃ」
「だが──」
「もちろん、事情を知るわしらとて同じことじゃ。どうかあの方の行かれる道が安らかであるようにと祈りを捧げぬものは、ひとりもいない。あの方は呪いの紋章により、ふたたびこの国が戦火にまみれぬように一人で旅立びだたれた。その思いを無にせぬためには、二度と戻られぬと思うが一番じゃ」
「──異国の地で、あの方は窮迫しておられるかも知れぬ」
老人から目をそむけ、ささやくようにカスミは言った。
「もし居所さえ知れたなら、我らがお助けすることもできるではないか」
「あの誇り高い方が──か?」
ざらつくような笑いを、老人はもらした。
「たとい物乞いにまで落ちぶれようとも、あの方が我らの助けなど求めようものか。恋情つのるあまりにお助けしたいと思うのはお主の勝手じゃが、それはあの方にとって、余計なお世話というものよ」
「──イサチ」
頬に血を昇らせたカスミは、じろりと老人を睨んだ。薄ら笑いを浮かべ、老いた諜者が怖れげもなくこちらを見返してくる。
「あきらめろ、あきらめろ。もとよりあの方はお前には高嶺の花じゃ。手を伸ばしても届くはずがない。あきらめて、さっさと里に戻り、子でも為して暮らすがいい」
「黙れ!」
顔を真っ赤にしてカスミが詰め寄るより早く、老人は素早く飛びすさった。そのまま、じりじりと後退していく。
「では、わしは戻る。お主も、あの方が戻られる夢などを追っている暇があったら、さっさと仕事に戻るがいい」
言うなり、するりと茂みの中に消えた。
憮然としたままそこに立ちつくしていたカスミは、やがて、きびすを返してふたたび道を戻っていった。
──忘れられるものか。
ぎりぎりと、歯がみするように思う。
──あの方のことを、忘れられるものか。
ゲランさまは、やさしい方だった。そして、強い方だった。荒くれどもの中にいて、声をあらげたことなど一度もなく、それでいてすべての者があの方に心服していた。人は皆、幸福に生きる権利があるのだとおっしゃっていたけれど、あの方ご自身は、ご自分の幸せなどひとつも省みてはおられなかった。何があろうと、いつも静かに微笑っていらした……。
あれは、御父君をその手にかけた後のこと。闊達でいらしたあの方が、幽鬼のような顔をして廊下に立っていらした。
月の無い暗い夜。夜も更けて歩哨のほかは誰も起きてはいないような時刻に、あの方は外に出たいとおっしゃった。子供のように駄々をこね、自分などいなくてもいいのだと言って。
ずっと、そんな風に考えてらしたのだろうか。
だから一人で、都を出て行ったのだろうか。誰にも告げず、棍だけを頼りに。
今となっては、誰にもわからない。あの方は一人で苦しみ続け、そして黙って姿を消してしまった。
生きておいでかどうかも、わからない。
……息をつき、カスミは足をとめた。
石畳の道がとぎれ、その先に池が見える。ところどころに浮かぶ蓮の花が、夏の光を浴びて白々と光っていた。池の向こうには花園があり、丈の高い、槍兵のように天に向けて茎を突き出した花が、はじけんばかりに咲いているのが見える。
何という花だったろう。
ふっくらとした白い花を、カスミはじっと見つめた。
何となく、気になる。後で誰かに聞いてみようかと思いつつ、カスミは再び歩き始めた。
胸の奥が重く、沈んでいる。
花の名なら、調べればすぐにわかる。けれど、本当に知りたいことはわからない。
あの方はどこにいらっしゃるのか。
ふたたびお会いする日が来るのだろうか。
一瞬でもいい、あの方のお顔をもう一度見られるなら、何を失ってもかまいはしない。
その場で息絶えてもいいのに。
知らせが来たのは、その数日後のことだった。
寝所としている官舎の一部屋。気配に気づいて目を覚ますと、イサチ老人が影のように物陰から現れた。
「──副頭領」
鋭い声に、カスミはすばやく寝台を下りた。何だ、と問う目が、わずかに細められる。老人の顔は、ひどく緊張していた。
「……報告がある。落ち着いて、聞け」
かすれた声で、老人が言った。
「──たった今、国境警備兵として潜入し、同盟辺境部について探索していたヒムカからの連絡が届いた。あの方が──」
はっと、カスミは瞠目した。
「……ゲランさまが、見つかった。今は、ヒムカらとともに、グレッグミンスターへと向かっておられる。数日を待たずして、到着されることだろう」
夜分の、共和国統領公邸への道は暗かった。灯火の消えた街路は、ひたひたと影のように歩くカスミをのぞけば誰の姿もなく、塀の上をのんびりと歩く猫がいるだけだ。
歩く足がなんとはなしにもどかしく、頼りない。もしも自分を害そうとする者がこの場にいたら、一撃の下にうち倒されてしまうような気がする。カスミは歩をゆるめ、胸に手を当てた。どきどきと、心臓がせわしなく鼓動を打っている。
ゲランさまが、グレッグミンスターに戻られた。
今は、かつてのマクドール家の屋敷におられ、旅の疲れを癒していらっしゃる。そう思うだけで、通い慣れた街角が急に見知らぬものに変わってしまい、迷子のような心細さにが胸の底にわだかまる。しっとりとした夜気を吸いこみ、カスミは、ともすれば騒ぐ胸のうちを鎮めようとした。
レパントの公邸は、もとはどこかの貴族が有していたものらしい。共和国政府を統べるものにふさわしい、広壮な邸宅だ。警護の目を避け屋敷内に忍び込むと、カスミはするりと部屋に入った。
「──来たか」
待ちわびていたらしいレパントが、明かりのない暗い部屋で、さっと彼女をふりかえる。
はい、と軽く拝礼したカスミは、しわのよった壮年の男をちらりと見やった。統領の座も落ち着き、ようやく政治家としての貫禄を見せ始めた男は、いかめしい顔にわずかに疲労の色をうかばせていた。浅黒い顔は顔色がすぐれず、どこかぼんやりとした様子で立ちつくしている。
「ゲランさまが、今朝ほど到着された」
ぼそりと、言う。
「長旅の後でお疲れだとは思ったが、すぐさまこちらへおいでいただき、少しばかりお話をした。……何分、あの方は療養中ということになっている。いきなり姿を現しては、市民が動揺するやもしれん」
「あの方は──」
つい、声が出た。眉を上げてレパントがこちらを見やる。カスミはあわてて頭を下げた。
「失礼いたしました。どうぞ、お話を」
「いや──そうだな、そなたもゲランどののご様子を知りたいことだろう。安心するがいい、ここを出て行かれたときよりも少しお痩せになったようだが、ご病気などなされた様子もなく、とてもお元気だ」
ほっとしたように、レパントが息をついた。
「……もちろん、少しはお変わりになられたところもある。何しろあれから、四年の月日が経っているのだからな」
「────」
声もなく、カスミは軽く頭を下げた。少し上気しているであろう顔を、レパントに見られたくなかった。
「ともかく、用件について話そう。先日、同盟への援軍についてそなたに話したことを覚えているか?」
「援軍の将となれ、というお話なら」
心持ち、視線を上げた。
ふむ、とレパントが顎を撫でる。
「そのときに私が言ったことを覚えているか? もしもこの場にゲランどのがいらしたら、と──」
「──はい」
「あの話が現実のものとなった。──同盟には、ゲランどのとそなたの二人に行ってもらおうと思う」
思わず、目をみひらいた。
「……そのようなこと、あの方がご承諾なさったのですか」
「危急のときだ、どうでも受けていただかねばならん」
レパントはひどく苦い顔になった。
「だがこれで、先に話した通り兵を半数に減らす口実ができる。かつての解放軍を率いたトランの英雄のもとであれば、どの兵士も一騎当千の戦いぶりを示すだろう。となれば、多くの兵を送り貴国の兵糧を無駄に減らすこともない──」
自嘲するように、レパントの頬が歪んだ。
「……というのが、同盟に対し申し入れるつもりの、我らの返答だ」
「──兵の数を減らすかわりに、あの方をふたたび戦場に立たせるつもりですか」
口調が我しらず厳しくなる。レパントは、うなずいた。
「建国の英雄を差し出すのだから、同盟に否やはあるまい。だがそれよりも、我らの真意は別のところにある。──そなたに来てもらったのも、そのためだ」
レパントの表情が、いっそう厳しさを帯びる。
「──共和国政府の命令だ。カスミ、お前はこれより同盟への援軍をゲランどのとともに率い、かの地で諜報を用い、あの地に統一国家が出現するのをできるかぎり阻むのだ。だがもし、戦局を見定めた結果、一大国家がかの地にできるのが時代の趨勢だと思われるなら、それが今後我が国に対し害とならぬような策を取る」
「策──とは?」
「それは、ゲランどのに一任する」
あっさりと、レパントは言った。
「本国に一々指示を仰いでいては、この役目は果たせん。状況に応じ、最良と思われる策を取ってほしい。そのため援軍の将には、外交と戦略に関するすべての権力を与えるものとする」
「…………」
「ゲランどのなら、この大任を果たしてくださるだろう。だが、あの方も、政治の場を離れて久しい。従って、カスミ、お前はゲランどのの助けとなり、共和国にとってよりよき道が見つかるよう手足となって働くのだ。──もっとも、同盟に対しては、あくまでもお前が兵を率いる将軍であり、ゲランどのは、助言者としてそこにいらっしゃることになるが」
「──なぜです?」
いかめしい顔が、滑稽なほど渋くなった。
「ゲランどのが、我らの申し出を何とお願いしても受け入れてくださらん。自分はもう一線を退いた身だ、ましてやこのたびの戦いに自分が加われば、共和国民に英雄の存在をふたたび印象づけることになる。それでは君主制を廃した意味がない、とおっしゃるのだ。国家の苦難に必ず英雄が現れて人民を救うと言ったような誤った考えが、万が一植え付けられるようなことになれば、独裁制の種子を蒔くことにもなりかねないと──」
「────」
……あの方らしいおっしゃりようだ。
なつかしさに、胸の奥が騒いだ。
解放戦争の頃にも、あの方はよくおっしゃっていた。新国家設立の功績は個人に与えられるべきではなく、ましてや英雄などというあやふやな存在によるものではなく、この戦いに加わったすべての者に帰するべきなのだ、と──。
本当に帰っていらしたのだ。
ふいに、息詰まるように、そのことを思った。
「だが、お前の助言者として赴くことには同意してくださった。その方が自由に動けるし、うまくことを成し遂げた後は功績をお前のものとすれば、将軍としての名声も上がり、ロッカクの民のさらなる地位向上にもつながる、というのがあの方のご意見だ」
「…………」
胸が、つまった。
相変わらずゲランさまは、我らの行く末を案じてくださっているのだ。そう思うと、涙が出そうになるほどうれしく、また、悲しかった。あの方は今でも、ご自分のことよりも、他者を優先なさるのか。
「人選は、まかせる。兵は、現在同盟の地に赴いているヴァレリア将軍の軍を引き継いでもいいし、新たに徴収してもよい。ただし数は、現在の半数とする。適うことならばさらに減らしたいところだが、さすがにそれでは同盟が納得せんだろう。ゲランどのとよく相談して、今後のことを決めるように」
少し言葉を切り、いっときレパントは、奇妙な目でカスミを見た。
「そなたは、どうする? 引き受けるか? もっとも将軍の地位を持つものとして、共和国政府の決定に否を唱えることは許されんが──」
カスミは背筋を伸ばし、ことさらに表情を消した。
「もちろん、お受けします。お話はそれだけですか」
「いや──」
ためらうように言葉をとぎらせたレパントは、咳払いした。
「……否やがなければ、今からでもマクドール邸に向かうがよい。今後の相談などもあろうし、まずはご挨拶などもせねばな。ゲランどのも久しぶりにそなたに会うのを楽しみにしておられた」
「──わかりました」
声が、ふるえそうになった。
あの方に会える、あの方に会える、今すぐ──。
「……それでは、これよりゲランさまの元に向かいます。何かご伝言など、ありましょうか」
いや、とレパントは首を振った。
「特にはない。それよりも、すでに聞いているとは思うが、マクドール邸には同盟軍リーダーのジムスどのもその配下の者たちも滞在している。どうしてもゲランどのに会いたいとジムスどのが申されるのでな、宿舎をマクドール邸に変えたのだが、言動には十分注意を──」
言いかけて、笑った。
「……言わずもがなだな。ともあれ、注意してくれ」
はい、とだけ答えると、カスミはふたたび拝礼し、音もなく部屋を立ち去った。
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