月はまだ昇らず、街路は暗かった。
立っているだけでも汗ばむような、じっとりとした夜気。わずかに湿った石畳の舗道を、星明かりのみを頼りにカスミは、配下の者数名を従えて危なげない歩調で進んでいた。風は無く、左右に延々と続く煉瓦塀の下にこごる闇も、息をひそめて夜が過ぎ去るのを待っているかのようだった。
トラン共和国がまだ赤月帝国と呼ばれていたころ、このあたりは貴族たちの住まう街だったという。そのため道は広く、大型の馬車二台が悠々すれちがえるほどで、初代皇帝のころに敷かれたという石畳は、幾度かの修復を重ねたためとはいえいまだその用を果たしている。だが、道は当時のままでも、そこに住んでいた人々は、すでに首都グレッグミンスターを去って久しい。解放戦争が終結した後、帝国の富を占有していた貴族たちが没落の果てに姿を消すと、豪奢を極めた館の多くは政府のための公的な施設に変わった。
しかし、マクドール邸だけは違う。
よりそうように歩いていた左手の塀を、カスミはちらりと見やった。大人の背丈の二倍ほどもある、蔦の這う煉瓦塀。その向こうから、甘く、しっとりとした花の香りがただよってくる。塀の影に隠れるようにして道を急いでいた手下の一人が、ようやく通用門にたどりつくと、門扉の鉄格子に手を掛けた。
錠を差し込むと、きしむ音さえなく簡単に開く。彼らはするりと内側にすべりこみ、門を閉めた。
夜の闇に沈んだ庭は、ひどく暗かった。庭の木々はひっそりとうずくまり、荒れているのか、それとも往事のままに整えられているのかすらわからない。じっとしていると、甘い芳香がいっそう濃くただよってきて、わけもなく胸が騒ぐのを感じた。
木々の向こうにマクドール家の屋敷が見えた。他の貴族の館と比べてさして大きくもない館の二階、西翼の端に、明かりのついた窓が見える。
あそこにいらっしゃるのだ、と思った。すでにカスミが行くことは手下が伝えてある。自分が行くのをあの方が待っていらっしゃるのかと思うと、足が震えるようだった。
そっと歩を進め、カスミたちは裏口に向かった。風雨にさらされた木戸を軽く叩くと、待ちかねたように戸が開く。中から顔を出したのは、ロッカクの里のものだった。護衛として、ほかにも数名のものが屋敷に常駐することになっている。
「……お部屋で、お待ちです」
低い、響きのない声でぼそぼそと言う。カスミはうなずいた。
「何人いる?」
短く問う。
「外に五人、庭に三人、屋敷内にも三人おりまする」
「少ないな」
舌打ちするように言うと、男は苦笑のようなものをうかべた。
「追って人数は増やす予定です。イサチ老が近郷にいる者どもを呼び寄せておりますので、遠からず、必要な人数は増やせましょう」
「同盟の間諜どもはどうした」
一行の下働きの中に同盟軍の諜者が混じっていることは、すでに報告されている。カスミが尋ねると、男は凄みのある微笑を浮かべた。
「……あの方の屋敷内で、勝手な真似はさせません。護衛とは別個に、身動きひとつとれぬよう厳重な監視をつけてありますので、どうぞご安心を」
するりと後ろに退き、男は道を空けた。
邸内は、ひっそりと静まりかえっていた。足音を立てずに廊下を行き、階段を昇る。そしてまっすぐに廊下を行き──。
長い通路のつきあたり、部屋の扉がわずかに開いて黄色がかった光がぼんやりと漏れている。
ふたたび胸が騒いだ──が、つとめて平静を装い、後ろをついてくる手下に、所定の位置につくよう身振りで示す。音もなく手下たちは、廊下の暗がりに消えた。万が一同盟の者どもに会話を聞かれぬよう、通路や隣室、天井などのいたるところを見張るのだ。
カスミはゆっくりと、歩を進めた。一歩ごとに明かりは大きくなり、息がしだいにつまっていく。
扉の前で、ふたたび足を止めた。
息が、苦しい。
どきどきと高鳴る心臓の音が廊下中にひびくような気がして、カスミは胸を押さえた。
そっと、すべりこむように部屋に入る。
花の香りが、ふいにただよってきた。窓が開いているらしい。後ろ手にカスミは、静かに扉を閉めた。
そこは、簡素な部屋だった──少なくとも、マクドール家の嫡子のものとしては。
さして広くもなく、無蓋の寝台と、ていねいに使い込まれた古い黒檀の机や戸棚、部屋の中央を少しはずれたところに置かれた小卓と椅子があるだけだ。特に飾りはないが、壁にかけられたいくつかのランプの明かりがその部屋を、居心地よさそうにほんのりと照らし出していた。
大きな窓が半分ほど開かれ──人影が、ひっそりと立っているのが見える。
ぴくりと、身がこわばった。
湿った夜風が、その人の黒い髪をわずかにゆらしている。何を思うのか、暗い夜空をじっと見つめるハシバミ色の瞳。
白いシャツとズボンの上に、足首まで隠れるような長い濃緑の袍をまとい、房飾り付きの細帯を締めている。面立ちはやさしげなのに、弱さは感じさせない──通り過ぎざまに思わず振り返らずにはおれないような、印象的な人。壁にもたれ、腕組みをした姿はすらりとして、少年から大人になりかけたもの独特の伸びやかさを漂わせている。
──変わっていない。
呆然として、そう思った。
変わっていない……四年前と、寸分変わってらっしゃらない。
窓ガラスに映るその人の姿。そしてその向こうに、ぼんやりと立ちつくすひとりの女の姿を見たとき、カスミはぴくりと震えた。
若くはあるけれど、もう少女とは言えない体。
肩も胸も丸みを帯び、顔からは幼さが消え、その人よりは数歳年上に見える。
あれは──私だ。
四年の時を経て、少女から女性へと変化していった、私自身の姿だ。
血の気が引き、足がすくんだ。
思わず息を呑んだ。──そのとき。
窓辺に立つ人が、振り向いた。
「──カスミ?」
なつかしい声が、彼女の名を呼んだ。
どぎまぎと、視線をそらすのが精一杯だった。声もなく立ちすくんだままのカスミを、その人はじっと見つめていたが、やがて微笑を浮かべると歩み寄ってきた。
「その椅子に座るといい。軍務の後だから疲れているだろう?」
いいえ、と、かぼそい声がもれた。里の者が見たら、きっと苦い顔をするだろう。解放軍のころからカスミはゲランの前だと、人が違ってしまったようにうぶで内気な少女になってしまうのだ。
肩にその人の手がふれ、そっとうながされて、目をそらしたままカスミは、小卓のそばの椅子に腰を下ろした。
息が、詰まる。
先ほどまで赤らんでいた頬が、今は青ざめ、血の気を失っている。
膝の上でカスミは、ぎゅっと手を握りしめた。そのときはじめて、手のひらに冷たい汗を掻いているのに気づいた。しっかりしろ、と己を叱咤する。
何を、驚愕しているのだろう──? あの方が年をとらないことなど、とうに知っていたはずなのに。何年も前に、冷たい目をした風使いの少年が、皮肉げに嘲笑ってそう言ったのだ。真の紋章を持つ者は不老の力を得るのだと。
ぎゅっと手を握りしめ、カスミはどうにか気を落ち着かせようとした。動揺してはいけない。ゲランさまが困惑するような真似を、してはならない。
カチャ、と陶器のふれあう音がした。
はっとして顔を上げると、外開き型の小さな白い杯に、その人が取っ手のついた茶壺から澄んだ色のお茶を注いでいるところだった。カスミはあわてて立ち上がった。
「わ──私がやります──」
「座っていて、もう入れ終わるところだから」
穏やかに微笑したその人が、茶の入った杯をカスミの前に置いた。
「冷茶だよ。飲むといい、気分が落ち着く」
はい──と、消え入りそうな声で、カスミはおずおずと腰を下ろした。ほのかな芳香が、鼻先に漂ってくる。上等な茶なのだろうと、ぼんやりと思った。
「どうぞ。茶の入れ方くらいは覚えたから、そう悪い味じゃないと思うよ」
「あ──ええ──」
茶壺を持って立ったままカスミを見下ろすその人が、茶を飲むのを待っているようなので、仕方なく彼女は器を手に取った。そっとすすると、ひんやりとした渋みとともに、かすかな甘みを感じた。
「どう?」
昔のように微笑いながら、たずねてくる。つっかえながらもカスミは、おいしいです、と答えた。うれしそうにその人が微笑する。
そのままその人は、カスミの向かいの席に腰を下ろした。カスミはよけいにどぎまぎとして、顔の火照りを見られないようにうつむいた。数年前は、ゲランさまと同席することなど思いもよらなかったのに、今は同じ卓につき、その人がいれてくださったお茶を飲んでいる。思うだけでも不遜な事態だというのに、目の前のその人は、相変わらず泰然としたしぐさで自分の器に茶を注ぎ、少しすすっている。
何を考えてらっしゃるのだろう。
おずおずと、カスミは顔を上げた。視線を下げ、部屋の隅にわだかまる薄闇に見入っているらしいその人の、湖面のように暗く静かな瞳や口元にうかぶかすかな微笑は何も教えてくれない。
「……夏の夜は短い」
ややあって、その人は言った。
「久しぶりに会うんだから思い出話のひとつもしたいところだけれど、まずは先に、仕事を済ませてしまおう。──レパントから、だいたいのことは聞いたと思うけれど」
うなずくと、その人は話を続けた。
「最初に言っておく。これから僕たちは同じ目的をもって事に当たる同僚となるわけだから、以前のような上下関係は無くなったものと思ってほしい」
驚いて、顔を上げた。真剣な目が、じっとこちらを見ている。
「僕たちに与えられた使命は、ひとつ間違えば共和国の将来に禍をもたらすほど重要なものだ。だから、妙な遠慮などせずに腹をわっていかなければ、とうてい為しえない。──わかるね?」
「──は、はい──でも──」
「とりあえず、幹部の人選だけでも決めた方がいいだろう」
とまどう間もなくその人は、話題を移してしまった。機先を制されてカスミは、黙って話を聞くほかなかった。
「僕の考えとしては、まず、現在同盟領にある兵のうちから志願者を募り、その中から任期に入って間もない者を優先的に選ぼうと思う。兵の輸送に時間をかけるよりは、足りない分を徴収した方が早いだろうから。ところで、ヴァレリアの配下にいる将校は、誰と誰だ?」
いくつかの名をあげると、ゲランは苦笑した。
「いかにもヴァレリアの部下らしい、猛者揃いの顔ぶれだな。だが、このたびの任務では勇猛な戦士よりも思慮深い者の方が役に立つ。ヴァレリアが残留を薦める者がいればそれを受け入れ、後はすべて帰してしまおう」
「はい──」
「もっともこのたびの人選で何が間違っていると言って、僕の存在を持ち出すほどの間違いはないと思うけれどね。過去の英雄の虚名などに頼らず、君一人では経験が足りないというならばアレンかグレンシールか、いっそのことミルイヒあたりを行かせた方がいいと思うけれど」
「……ミルイヒ将軍は、西方にてゼクセンとの交渉にあたっておいでです」
「知っている。帝国時代から勇名を馳せた彼ならば、武威を示して外交でかたをつけるに最適の人員だ。しかし僕なら、彼を南方に行かせるけれどね。共和国軍の総司令官たるクワンダには都にいてもらい、南方にはミルイヒとアレンを送る。クワンダがいるとなれば東方の蛮族もそうは攻めてこれないし──彼がパンヌ・ヤクタにいたころから、東方の山地に住む者どもは彼を怖れていただろう? アレンは火炎将の名にふさわしい勇猛な武将で、かたやミルイヒは策謀に秀でている。南方諸国の軍も彼らなら一戦で退け、今後十年はトランに手出しする気になれないほど徹底的に痛めつけることができるだろう。そしてゼクセンとの調停には、グレンシールに行ってもらう。彼ならば、国益を損ねることなく調停を良い方向にもっていけるだろう」
「……同盟へは、誰を?」
おずおずと、尋ねてみた。ゲランは肩をすくめ、
「さて、それが問題だ。レパントから今度の話が来て断ろうとしたとき、彼からも同じ質問をされたよ。僕がいかないとしたら、誰を行かせるべきか──とね。カシム・ハジルなら経験と言い武将としての力量と言い適役だが、いかんせん彼は、国境にあって長年ジョウストン都市同盟と戦ってきた。彼が行けば望むと望まざるとにかかわらず軋轢が生じてしまうだろう。ソニアは複雑な策謀向きではないし、第一彼女は水軍の長だ。それに、同盟に赴くのは武将よりも政治家タイプの者の方がいい。兵に信頼されていればなお言うことはないが……」
そこまで言って、苦笑した。
「……つまりそこで、レパントの罠にはまってしまったということさ。どうにも僕が、引き受けざるを得なくなった」
ゲランさまなら適役です──と言おうかと思ったが、おもねるような言葉は嫌いな方だったし、喜んでこのたびの話を受けたわけではないことを考えると、ご機嫌を損じるかもしれない。カスミは黙ったまま、しょうことなしに、茶をすすった。
「思うに共和国は、ひどい人手不足に悩んでいるようだね。ビクトールあたりが生きていれば、彼に行ってもらうところだけれど──」
「生きておいでです」
ほろりと、言葉が出た。
驚いたようにゲランが目をみひらく。
「生きて──いる?」
「はい、現在は傭兵として、同盟軍に雇われているとか」
「…………」
まじまじとカスミを見つめたその人が、ふいに、笑い出した。
「……せっかく解放戦争を生きのびたのに、いまだに戦場を駆け回っているのか。彼らしいな」
声音があたたかい。そういえばゲランさまは、昔からビクトールとは友人のような、それとも兄弟のようなむつまじさでつきあっておられた。
「もともとビクトールどのは、同盟領のノースウィンドウ市出身だったそうです」
「ああ、そうだね、彼がそう言っていた」
なつかしそうに、ゲランが目を細めた。
「……亡きミューズ市長アナベルとは幼なじみだったとかで、その縁からミューズ国境にあった砦を守っていたそうです。ルカ・ブライトの侵攻によって砦が陥落した後、離散した部隊を立て直して、今では傭兵部隊の一翼を担う同盟軍の幹部となっていると聞きました」
「──フリックは?」
ひどく真剣な目をして、わずかに身を乗り出す。生死が知れぬままだった二人のことを、解放戦争の後、この人がひどく気に掛けていたことをカスミは思い出した。ビクトールと一緒に傭兵をやっていると言うと、ほっとして息をつく。
「……そうか、それじゃ、あちらに行ったらあの二人に会えるわけだ。なつかしいな」
「ほかにも、かの地に滞在している方がいらっしゃいます。情報を集め、同盟幹部にそれとなく私たちの意見を及ぼすためにはいいかと存じますが……」
「かえってやりづらいこともある、そうだね、僕もそう思うよ」
軽く、肩をすくめた。
「後で誰がいるか、教えてくれ。人によっては方策を考える必要があるかもしれない」
わかりました、とカスミは答えた。
二人はしばらくの間、新しい援軍の人事について話し合った。現在ノースウィンドにいるものと、国内にいる将校の名をあげ、その中から適任と思われる人物をリストアップしていく。
静かな、けれどはりのある声。
思わずひきこまれそうな、ハシバミ色の印象的な目。
事務的に話を進めながらもカスミは、夢を見ているような気がした。ゲランさまが目の前にいて、自分と話し、微笑っている。四年前と同じように。
「……これくらいでいいだろう」
ややあってゲランが、そう言った。
「諜者をどれくらい集めるかは、君にまかせる。レパントに言って、南方にいる以外のすべての諜者を引き上げさせるから、できるかぎり数は多くしてくれ」
「南方以外──すべてですか?」
思わず聞き返した。
「現時点で共和国がもっとも力を注がねばならないのは、南方の戦いをいかに最小限の損失で終わらせるかと言うことと、同盟対ハイランドの戦いについて共和国が今後どうするかを見極めることだ。西方の鉱山についての調停は、最悪それを手に入れられなくても直接国政には響かない。もともとあのあたりはトランの領土じゃないし、ゼクセンが手に入れたとしてもこちらが挽回する手はいくらでもある。東方の蛮族についても、今すぐどうこうしなければならない問題じゃない。だが、南方と北方についてはそうもいかない」
「──わかりました。集められるだけの人手を集めましょう。レパントさまは、五百の人数をとおっしゃいましたが──」
「まさか、それは無理だろう。君たちは解放戦争のときに、ひどい痛手を受けた。今ここで無理をして、ふたたびロッカクの里を危難に陥れるようなことはできない」
「──はい」
やさしい言葉に、喉がつまった。
「四百はほしいところだけれど、それでは多すぎるだろう。三百いれば、十分だ。できるかぎり無駄な戦いは避けるつもりだが、それでも戦地に出れば人命は失われる」
はい、と答えながらもカスミは、四百か、できれば五百の兵を集めようと決心した。たしかに多い数だけれど、西方や東方、それに首都などで動いているものたちを集めれば余裕は十分にできる。もっとも、自分だけで決定するわけにはいかず、後でイサチ老と話し合う必要があったが。
「……この仕事には、トランが将来的に北方の防備をどうすべきかという問題がかかわっている。僕は同盟領にいたから多少はあの地の雰囲気を知っているが、同盟の辺地に住む一般の人々は、過去のデュナン王国をよみがえらせようなどと思っていないし、ましてや今度の戦いによって統一国家ができるなどとは、夢にも思っていない。だがノースウィンドウあたりではずいぶんと人々の意見も違うだろうし、征服され、父祖の地を失ったミューズ等の市民たちは、ハイランドを滅ぼせと言われれば喜々として従軍するだろう。その結果、統一国家が生じるとなれば、トランの国益にも大いに関わる問題となることは目に見えている」
はい、とカスミはうなずいた。
「僕たちが背負っているものは、皆が考えているよりも重い。だからこそ、同盟領での戦いによっては皆に無理を強いることもあると思う。だがもちろん、功績のあるものは褒賞を惜しまないつもりだし、レパントたちにも一人一人の功績について報告し、それぞれの働きにふさわしい地位が得られるように口添えする。そう全軍に知らせてくれ」
と、ふいにその人が、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「褒賞の元手については、心配しないでもいいよ。この国を出るときにたいがいの財産は処分したつもりだったんだけど、レパントたちがよけいなことをしてくれてね。なんでも僕には、多額の年金がついているそうだ。四年間分、まったく一文も使わないままクレオが管理していてくれたから、資金にはことかかない。どこかに寄付してしまうつもりだったけれど、この際だから全額使い切るつもりで今度の戦いの費用にあてようかと思っている」
「全額──ですか?」
「そう、全額」
にやりと、する。親しげな微笑に、カスミはどぎまぎと視線をそらした。四年前にこの人が、こんな気安げな表情を見せてくださったことは一度もない。
「ひとりで旅をして、多少は働くことも覚えた。年金なぞもらういわれはないし、必要もないからね」
「ですが──」
思わず言葉が口をついてでそうになった。
バナーにいたときゲランさまは、村のはずれにある汚い漁小屋に寝泊まりしていたらしい。屈託のない様子をなさっているけれど、都を出てからの数年間はさぞ苦しい生活だったろうと思う。年金の金を全て使い切ってしまうのなら、この先はどうなさるおつもりなのだろう?
「──ともかくも、今は働くことを覚えたし、無理をしないでもどうにか自分の食い扶持くらいは稼げるようになった。だから年金なんて必要ない」
「…………」
「でも、こういう事態になると、多少は僕の自由になるお金があるというのはありがたいな。予算なんぞを気にしていたら、身動きがとりづらいしね」
「…………」
「──カスミ」
声を掛けられ、思わず顔をあげた。いたわるような目が、じっとこちらを見つめている。
「僕が今まで何をしてきたか、知っているんだね?」
はっと、した。
「わ──私は──」
「少なくともレパントは、僕が数年前にミューズにいたことを知っていた。食い詰めて、ひどい暮らしをしていたであろうということも──ね」
「……後を、追うようにと、命令が……」
言いかけて、口をつぐんだ。誰よりもゲランの居所を知りたかったのは自分自身なのに、それを他者になすりつけるような真似をしては、いっそうこの人に軽蔑されそうな気がする。
「……君を責めているわけじゃないんだ」
なだめるように、その人が言った。
「四年前に僕は、誰にも何も告げないまま都を出ていった。そのあと皆にどれほど心配をかけ、迷惑をかけたろうと思う。あんな風に乱暴な手段をとらず、自分がどうしたいかを皆に話して、説得してからに旅立つべきだった。後先について何も考えなかったわけじゃないけれど、どんな理由があろうとも、親しい者たちに心配をかけ、君たちを異境の地で──ましてや当時は敵国だったジョウストン都市同盟まで行かねばならない羽目に陥らせるなど、許されることではない。それについては、本当にすまなかったと思う」
「いえ──」
声がつまる。
喉元にこみあげてきた熱いものを、カスミは必死で飲み下した。
「僕がハルモニアまで行ったのは、僕自身がそうしたいと思ったからだけれど、君たちをまきこんでいい理由にはならない。もしも君たちの中に、僕の行方を探すために怪我をしたもの、命を落としたものがいれば、償いをしたい。誰が行ったのか、名前を明かせないのなら仕方がないけれど、せめてその者たちが無事だったかどうかだけでも聞かせてくれないか?」
「──皆、無事に戻ってきました。ゲランさまがご心配なさるようなことは、何一つありませんでした」
つかえながらも、それだけを言った。もちろん異境を旅したのだから多少の傷を負った者もいるが、それ以上のひどいことはなかったのだ。でも、ゲランさまのお言葉は、頭領を通じて皆に伝えよう。やさしい言葉をうれしく思う者が、きっといるだろう。
「……そうか」
沈黙の後、その人が、ようやくつぶやいた。
「──旅の間、いろいろとあったけれど、それらについては後悔していない。僕は自分の力で生きていきたいと思ったし、どうにかそれだけは叶えることができた。でも──」
困ったように、微笑う。
「……あんまり道徳的な生き方をしてこなかったものでね。もしかすると僕がこの四年間にしてきたことで、共和国に迷惑がかかるかもしれない。それを思うと、今回、もう一度国家のために働けるのは多少は償いになるだろう」
「そのために──同盟へ行かれるのですか」
声が、震えた。
「ゲランさまは──あんなに尽くされたのに──」
「それもこれも、自分で選び、望んだからこそしたことだ。誰かに強制されたわけじゃない」
かすかに、微笑った。
「それに、こんなことを言うと軽蔑されるかもしれないけれど、良い機会だという気もする」
「良い──機会?」
「この際だから、自由に動くための下地を作ろうと思うんだ。トランのかつての英雄は平穏な生活に飽きた結果、今は風来坊生活を望み、他国を放浪して歩いている──ということで誰もが納得するための下地をね。できれば“英雄”なんて肩書きも、捨ててしまえるといいな。この国はすでに、僕を必要としていないんだから」
「そんなことはありません!」
思わず、声が高くなった。
「そんな──そんなことは──」
「……僕がいない間も、国家は富み、黄金の都の名も帝国時代と違い、実の有るものとなった」
その人は、静かに微笑し、静かに言った。
「それでいい。僕は、そうなることを望んでいた。皇帝や王や英雄と言った特殊な存在ではなく、国民こそが国家を支える柱となることを。正直、グレッグミンスターに戻り、すっかり復興の済んだ街並みを見たときにはほっとしたよ。もう僕は、本当に自由でいられるんだな、とそう思えて……」
「私たちは、誰も、ゲランさまの功績を忘れはしません。そのような忘恩の徒は、ひとりもおりません」
膝の上で震える手を押さえ、カスミは言いつのった。
「いいんだ、カスミ」
ささやくように、その人は言った。
「僕のことなど、誰もが忘れてしまっていい……この国を創ったのは英雄ではなく、自分たちなのだと、国民の誰もが誇りを持って言ってほしい。それでようやく僕は、自分の役目を終える。マクドール家の嫡子ではなく、解放軍のリーダーでも、トランの英雄としてでもなく、今度こそ自分だけのために生きることができる。四年前、僕が望んだのはそれだった。わがままであることは百も承知で、君たちに黙って、僕が僕として生きるためにこの国を出た。すまなかったとは思うけれど、でももう僕は、自分の生き方を変えるつもりはない。今度の戦いが終われば、また、旅に出るつもりだ」
穏やかに、微笑さえ浮かべて、その人が言った。
「……すまないね、湿っぽい話になってしまって。とりあえず、仕事の話はこれくらいにしておこう」
気持ちを切り替えたように明るい声で言う。はい、と答えるのが精一杯で、カスミはうつむいたままその人の声を聞いていた。
「──もしも今すぐ帰らなくていいのなら、少し話をしていかないか? できれば、解放軍にいた者がどんな風に暮らしているのか教えてほしい。皆は変わりないかい?」
やさしい声にいたわりを感じて、カスミは目の前がぼやけてくるのを感じた。悄然とした彼女の気持ちを気遣ってくれるのがうれしく──また、悲しかった。この方は、変わらない。見かけだけでなく、やさしいお心も変わっていらっしゃらない。自分のために生きるのだと言いつつ、迷惑をかけたのがすまないからと、再び戦いに赴こうとする。ゲランさまにとって、四年の月日は何だったのだろう。時が過ぎれば誰もが変わっていくというのに、この方だけがとり残されていくのか。そう思うと、ひどく悲しい。
「……マリーさんは、相変わらず宿屋を営んでらっしゃいます。近頃はセイラさんを後継者として育てるおつもりだとかで、共同経営者として何事も相談するようにしているとか」
なるべく、明るい話題にしようと思った。ゲランさまが、笑ってくださるようなこと。他者を気遣っての微笑ではなく、心からの笑みをみせてくださるようなことを。
「シルビナさんとキルキスさんは結婚なさいました……、お子さんは、まだですけれど。ベルさんは──まだ、生涯の伴侶が見つかっていないようです」
「ベル?」
ちょっと目を丸くしたゲランが、何を思い出したのか、にやっとした。
「──彼女の夢は、まだ、『きれいなお嫁さんになること』なのかい?」
「そちらの予定はいまのところ未定ですが、煉瓦割りは、以前よりもずっと技が上がったそうです。何でも、五個重ねた煉瓦の、一番上だけを無傷にして後の四つはこなごなに粉砕できるとか」
「すごいな、たとえ夫が見つからなくても、大道芸で食べていけそうだ。──ああ、そうそう、結婚で思い出したけれど、ヒックスとテンガアールは?」
「あのお二人も、同盟軍に参加してノースウィンドウにいらっしゃいます。ヒックスさんの修行がまだ済んでいないとか」
「まだそんなことを? てっきり、とっくに戦士の村に戻って、子供の一人もいるかと思っていたのに」
楽しそうな笑顔。でも、本当に楽しんでくださっているのだろうか。この方は昔から、心の内を誰にも読ませなかった。たとえ心がぎりぎりと苛まれていても、穏やかに微笑することができる方なのだ。
「それから──ロックさんはドワーフの族長のところに行っています。どのような技をもってしても破られない金庫を作るのだと言って」
ふいに涙がこぼれそうになって、カスミはあわてて言葉をついだ。
「金庫?」
なつかしそうに、その人がつぶやいた。
「そういえば、そんな話が持ち上がっていたのを聞いたことがあったな。結局行ったのか。彼は大柄だから、ドワーフの街ではさぞかし目立つことだろうね」
「噂では、楽しく暮らしているそうです。族長がかなりあの人を気に入って、このまま永住するんじゃないかと皆が言っていますけれど」
「ドワーフのお嫁さんでももらうのかな。ともあれ、永住の地を見つけたのは良かったね。彼の生まれた村は、解放戦争のときに死に絶えてしまっただろう。コウアンには結構長く住んでいたらしいけど、レパントの一族もほぼあそこから出てグレッグミンスターに移ってしまったし。都は、彼にはあまり居心地が良くないようだった。これからどうするつもりかな、と思っていたんだ」
「ええ──」
「皆が、それぞれの居場所を見つけたのなら、なによりだ。もっとも放浪する方が性にあっている者もいるだろうけどね」
「そう──ですね」
「シーナなんか、そういうタイプだったな。彼はどうしている? あいかわらず放蕩暮らしで、レパントを悩ませているのかい?」
「…………」
「……カスミ?」
うつむき、カスミは涙をこらえた。もっと話をしなければ、と思ったが、声が出ない。
内乱が終わって、この国には平穏が訪れた。人々は、心ののぞむままに、あるいはどこかに永住し、あるいは、新たな何かを求めて旅に出る。そうして皆、同じ時の流れの中で生き、年老いていくのだ。
でも、この人は、その輪の中にはいない。同じ時を生きた人々がやがて人生を終えて死んでいった後、すべてを捧げて創り上げたこの国が、いつか滅びの時を迎えても、十六歳のままなのだ。
ついていきたい、と思った。
この方が、時の果てで孤独を感じずにすむよう、どこまでもついていってあげたい。永遠の時の流れに、ともに封じ込まれてしまいたい。
「カスミ──」
立ち上がり、その人がそばに来る。肩に手が触れ、暖かみに、涙がこぼれそうになった。あわてて立ち上がり、カスミは顔をそむけた。
「私──私、そろそろ失礼しなくては──」
「──カスミ」
静かな、声。
思わず顔を向けた。
底のない闇をたたえたハシバミ色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
しびれたように、体が動かなくなった。
すくんだ足から力が抜け、よろけるようにカスミは、その人の腕の中に抱きすくめられた。
「──ごめんよ」
耳元で囁く声がした。
「……ごめんよ、カスミ」
優しい声に、膝が震える。
抱きしめる腕に力がこもり、カスミは、その人の肩に顔を寄せた。頬にあたるその人の肩の、少年めいた細さの名残が、まだ育ちきらない体の感触が、悲しかった。
こらえようとした涙が、こぼれてしまう。
彼の肩に顔を乗せ、カスミは嗚咽をもらした。ごめん、と、その人が、もう一度ささやくのが聞こえた。
どれほどそうしていたのか。
涙が止まり、心が凪いでくる。カスミは吐息をもらした。
今、私は、あの方の腕の中にいる。
夢のように、そのことを思った。
肩に押しつけた耳に、鼓動が聞こえてくる。静かな息づかいが、ぴったりと重なった体の感触が伝わってくる。
このまま世界が終わってしまえばいい。
今このときに、何もかも消えてしまえばいいのに。
「──カスミ?」
低い声が、ささやいた。
「……はい……?」
夢心地で答えた。
「涙は止まったかい?」
──涙?
言われたとたんに、先ほどの自分の姿が思い浮かんだ。年端もいかぬ少女のように、しゃくりあげ、泣いていた自分の姿が。
かあっと、頬が火照った。あわててカスミはもがき、二人の間にわずかにすきまができた。
「あ、あの──」
「何?」
やさしい声に、穏やかだった鼓動がいきなり激しくなった。
「申しわけ──申しわけありません。無礼をいたしまして──」
「無礼?」
ちょっとびっくりしたように、その人が目を丸くする。
「無礼って、何が?」
「その──」
どぎまぎと、うつむいた。ああ、と言って、その人が微笑った。
「泣いたことかい? 泣かせるようなことを言ってしまったんだから、どう考えてもこの場合無礼だったのは僕の方だろう」
くすくすと、笑い声がもれる。
「どうする? もう夜も遅いし、今夜は泊まっていくかい?」
「──えっ?」
思わず、声が裏返った。見上げるとその人は、いつもどおりに穏やかに微笑っている。
「良ければ、部屋を用意させるよ。ずいぶんとこの町も治安が良くなったし、君の強さは重々承知しているつもりだけれど、それでも女の子が一人で夜中に出歩くのは良くない」
「あ──いえ」
急に、気が抜けた。
──なんだ、そういう意味か。
そう思ったとたん、それでは一体どういう意味だと思ったのか、と問う声がした。己の大胆な考えに、額や首筋から胸元まで真っ赤にして、カスミはあわてて首を振った。
「い、いえ、大丈夫です。手下が──手下のものも、おりますし……」
「それじゃ、門のところまで送ろう」
背中にまわっていた腕がはなれ、肩をうながすように押された。体がはなれたとたん、妙に肌寒いもの寂しいような気分におそわれる。
「明日も来る?」
「……ええ、はい、そうお望みなら──」
「明日はもう少し、具体的な話をしようか。あちらで暮らしていたから同盟の現状について多少は知っているけれど、庶民が耳にできる程度のことでしかない。同盟の現状について、君が知る限りの詳細を聞かせてくれ」
「……はい、承知いたしました、ゲランさま」
ようやく落ち着いた声が出せて、カスミはほっとした。これからしばらくの間おそばにいられるのかと思うと幸せすぎて目眩がするが、こんな調子で果たして仕事をこなせるかどうか、自信がなくなってしまいそうだ。少なくとも、浮かれてこの方の足をひっぱるような真似だけは何があってもするまいと、彼女は固く決心した。
連れだって、廊下に出る。
そのとたん、衛兵のなりをしたロッカクの諜者が、東翼から足早に向かって来るのが見えた。やや後ろに小柄な少年の姿が見え、意外そうにゲランがまばたきする。
「ジムス?」
不思議そうに、つぶやいた。するとあの少年が、同盟軍リーダーというわけか。まだ幼いとは聞いていたけれど、遠目からだとほんの子供にしか見えない。
立ち止まると、男はうやうやしく一礼した。
「……同盟軍主ジムスさまが、よろしければゲランさまとお話を、とおっしゃっております。閣下とのご歓談中だと申し上げたのでございますが、もしや、そろそろお話もお済みであろうかと思いまして──」
「ごめんね、ゲランさん、こんな夜更けに」
男の後ろで少年が、少し困ったような顔をしている。顔立ちによく合った、かわいらしい声だった。
「お客さまが来てるなんて、知らなかったから。なんだか寝つけないし、少し話ができたらなあって思っただけなんだ」
「いいよ、もう彼女との話は済んだから」
苦笑するように、笑う。
「こちらにおいで、君にこの人を紹介しよう」
言われると、少年ははずむような足取りで駆けてきた。遠目では十一、二歳くらいに見えたが、近寄ってみるともう少し年がいっているのがわかる。同盟軍のリーダーは十六歳だと聞いていたが、たぶん、内外に箔を付けるために少しばかりさばよんでいるのだろう。実際は十四歳くらいだろうか。子犬のような目をして、地味だけれどかわいらしい顔立ちをしている。
「この人は、カスミという。まだ若いけれど、これでもトランの将軍さまなんだよ」
子供の目が丸くなった──と思ったら、にこっと、無邪気な笑顔になった。
「すごいなあ、ナナミがここにいたら、きっとびっくりするよ。ヴァレリアさんもそうだけど、トランには女の将軍さんがたくさんいるの?」
「あと一人、水軍を預かっている将軍がいる。今は任地に赴いているから、君が会う機会はないと思うけれどね」
ふーん、とつぶやいた子供は、赤ん坊のような笑顔でカスミに笑いかけた。
「よろしくね、カスミさん」
「お初にお目もじいたします、ジムスさま」
笑顔で挨拶をした──つもりだが、当のジムスは目を丸くした。首をかしげ、困ったように少年がゲランを見上げる。苦笑してゲランは、
「……カスミはね、はじめましてって言ったんだよ」
「あ、何だ、そっか」
「カスミ、ジムスどのは、敬語を好まれない。なるべく──簡潔な言葉で話すように」
面白がるように目を輝かせたゲランが、ことさらに丁寧な口調で言った。
「はい、気が利きませず、申しわけありませんでした」
笑いをかみころして頭を下げる。目の前の少年は、ぱっと手を出した。
「じゃあもう一回。よろしくね、カスミさん」
握手を求めているのだ、と知って、少しめんくらった。国主に等しい身分にある者が、目下のものにする仕草ではない。困惑してゲランを見上げると、面白がっているような笑みをうかべて、わずかにうなずいた。
「──はい。よろしくお願いいたします。ジムスさま」
手を握ると、意外としっかりとして固い手のひらだった。得物はたしかトンファーだと聞いていたが、指のつけねあたりに固いたこがあるのがわかる。血の汚れなど何一つ知らぬげな無邪気な少年に見えようと、この子供はルカ・ブライトを倒した歴戦の勇士なのだと、そのときはじめて思った。
ふと、廊下の向こうで足音がした。誰何の声が重なり、こちらに近づいてくる。たぶん、同盟の者たちが主を捜しているのだろう。思えばよくも、同盟軍を束ねる身にある者が、たったひとりで供も付けずにふらふら出歩いていたものだ。お付きの者たちは、一体何をしているのだろう?
「──ゲランさま、同盟の方々が──」
目配せすると、その人はうなずいた。
「僕から事情を話そう。君は、もう帰った方がいい」
「え?なに?どうしたの?」
きょときょとと、一段低いところでジムスが、ゲランとカスミとを見比べている。それには答えずカスミは、ていねいに頭を下げた。
「それでは、失礼いたします、ジムスさま」
「あ──うん」
「明日もまた参りますので、そのときはご都合さえよろしければ、トラン各地の珍しい物語などいたしましょう。いつまでこちらにいらっしゃるのですか?」
「えー、わかんないや。フィッチャーやクラウスがトランの人たちと話をつけたら、すぐに帰るんじゃないかなあ」
まことに頼りない答えが返ってきた。カスミは一礼し、すべるように廊下を通り抜け、階段を下りていった。
外に出ると、月が煌々と庭を照らしていた。先ほどの甘い香りは今も漂い、闇の中にケヤキの大木や遅咲きのバラなどがうずくまっているのが見える。
「──カスミ」
低い声に、ついと、首だけ向けた。木立の影に、イサチ老の姿が見える。
「……とりあえず十人を集めた。我らはこれより、ゲランさまの警護をする」
わかった、とカスミはつぶやくように言った。
「手はず通り、あの方に気づかれぬようよく注意して。ゲランさまは、束縛を嫌われる方だ」
「わかっておる。言われるまでもないわ」
舌打ちするように、老人は言った。
「それで、帰路はどうする?」
「帰路?」
老人の口が、揶揄に歪む。
「先ほどあの方に言っておったじゃろう。手下とともに帰るから心配はいらない──とな」
「…………」
聞いていたのか、などと無駄な言葉は言わなかった。かわりにじろりと、闇に沈む老人を睨みつける。
「それとも、もしも連れが欲しいと言うなら、この爺が供をしてやろうか」
「いらぬ。それよりも、ゲランさまのおそばを離れるな」
「──承知」
言うなり、姿が消えた。
カスミは息をつくと歩き出した。門へは向かわず、花の匂いに誘われるように庭の奥へと入っていく。
背中にあたる視線が、何をしているのかと問うているのがわかった。庭に潜むロッカクの諜者が、カスミの行動を見守っているのだろう。先ほど、あの方の部屋にいる間も、どこからか見ていたものがいるはずだ。
だが、かまうものか。
むくむくと反抗心が、わきあがってくる。
どうせ、あと数年もしたら里に呼ばれ、一族のうちから適当な男を選ばされてその者の子供を産まねばならぬ定めなのだ。解放戦争により、ロッカクの民はその数を半数に減らしてしまった。諜者の生業として欠かすことのできぬ技能も、いくつかは失われ、取り戻す術もない。だからこそ、ロッカクの民として生まれた女は、なるべく多くの子を産み育てることを期待されている。
だが、その前に、自分には時間がある。
同盟領での戦いが終わるまでの、わずかな時間。あのかたのそばで過ごす、かけがえのない時間が。
立ち止まり、カスミは夜空に煌々と輝く月を見上げた。
しんとした夜気の中にただよう甘い香りが、先ほどの、夢のようなひとときを思い出させる。
気づいただろうか──あの方は。
私の想いに、気づいてくださっただろうか。
四年前は、かけらも気づいてはくださらなかった。もちろん私も、それで良いのだと思っていた。イサチ老の言いぐさではないけれど、あの方と私では身分が違いすぎる。生まれなど問題にならない社会をつくるのだと、あの方はいつもおっしゃっていたけれど、それでも身分という壁を乗り越えることはできないと思っていた。
今は──どうなのだろう。
幹にもたれ、カスミは小さくため息をついた。満月に近い月が、まぶしいほどに輝いて庭を照らし出す。足下に伸びる木の陰が、芝草に縞模様を描いていた。
何かが違う……と思う。
以前とは、何かが少し違っている。
四年前のカスミは、あの方の前で感情をさらけだすようなことはできなかった。あの方も、先ほどのように、気さくに話しかけてくださったことはない。四年の月日が、私たちを少しずつ変えたのだ。
樹下の薄暗い闇を、カスミは見すえた。闇に慣れた目であっても、見通すことのできない暗がりがあるように、あの方と自分との明日に何があるのかはわからない。
それでも、もう二度と会えないと思っていた人に、もう一度会えたのだ。
なつかしい声を聞き、あのまなざしを見上げた。
あの方の腕の中が、どれほど温かいかを知った。
戦いが終わればあの方は、ふたたび何処かへ行ってしまわれるのだろう。でも、再会の時は始まったばかり、私とあの方との間には、次の別離に至る前の長い道程がある。
目をとじ、カスミはゆっくりと息を吸った。甘い花の香りは今も、木々の合間をただよっている。
あの方の部屋の窓は、まだ開いているだろうか。
開いているといい──と、思った。同じ花の香りを、今、あの方もかいでいるのだと、そう思いたい。
ほのかな香りが風に途絶えるように、あの方と私とのつながりもまた、はかない。あの方は、今も昔も私がおそばにいることなどご存じないだろう。
それでもいい。私だけが感じている絆でも、何一つつながりのなかった昨日よりは、ずっといい。
かぼそい糸をかばうように、そっとカスミは、自分の胸を抱きしめた。湿った夜気の中のあまやかな香りが、髪に、体に、しっとりとしみこんでいくようだった。
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