ばしゃばしゃと、水たまりを蹴る足音が聞こえた。
我に返り、ゲランは音の方を見た。赤と茶色の二つの影が、ふりしきる雨の中を懸命に、こちらに向かって走ってくる。呆気にとられて見守っている間に、ひとりと一匹は、息を切らして木の下に駆け込んだ。
「まいっちゃうよ! いきなり降ってくるんだもの!」
頭に金色のわっかをつけた同盟軍主が、ほとんど木に体当たりせんばかりの勢いで来たかと思うと、開口一番文句をついた。足元でムササビが、ぶるぶるっと体を振るって四方にしぶきを飛ばす。盛大にくしゃみをしたジムスの髪から、しずくが落ちた。
どうしてここに、と言おうとして、ゲランは口をつぐんだ。聞かないでも、見ればわかる。ムクムクと一緒に城を抜け出し、野原で遊んでいたのだろう。
「今日は晴れるって、みんなが言ってたのにさ」
口をとがらせて、ジムスが空を見た。
「さっきまでは良い天気だったのになあ。こんなことなら、屋上か城壁のすぐそばで遊んでれば良かったよ。――――ゲランさんは? なんでこんなところにいるのさ?」
ようやく他人に気を向けられるようになったらしい。ジムスが、ふしぎそうに顔をのぞきこんできた。
「そういえば、昨日もいなかったよね。どっか出掛けてた?」
「……ちょっと、クスクスにね」
ふうん、とつぶやいた。
「クスクスの街か、いいなあ。自由に動けてうらやましいなあ。僕やナナミも誘ってくれればよかったのに」
「どうしてだい? 僕が連れて行くまでもないだろう? 君はいつでも、好きなようにあちこちの街に出入りしているんだから」
「ええっ、そんなことないよ。僕なんか、いっつも不自由を味わってるんだから」
ジムスが、ふくれ面になった。それほど不自由だったらどうして、こんなところで雨宿りができるのか。そう指摘してやろうかと思ったが、言うだけ無駄であることはわかりきっていたので、ゲランは沈黙を守った。二人の足元で、器用にマントをはずしたムクムクが、しめった毛皮をていねいになめつつ毛づくろいをはじめた。
「昨日も雨だったのにさ、よく降るねえ」
枝越しに空を見上げて、ジムスが言った。
「まだ収穫が済んでないから、あんまり雨ばっかだと困るんだけどな。でも、予想だと、今年は豊作なんだってね。近くの村じゃ、収穫が済んだらお祭りするんだって聞いたよ。僕たちも行けるといいのになあ。僕、お祭りって大好きなんだ」
組んだ手を前につきだし、ジムスは、うんと体をのばした。
「でも、こんなこと言ったなんてシュウさんたちにばらさないでよね。もしも知られたら、また怒られちゃう。――――あーあ、ほんと、軍主なんかなるもんじゃないよね。全然自由がないし、つまらないことばっかでさ」
「…………」
少なくともこの軍主どのには、権力志向などというものはかけらもないらしい。笑いをこらえて、ゲランは思った。運命の神というものが存在するならば、それはきっとひどい皮肉屋に違いない。ルカの蹂躙によって都市同盟が人材難に見舞われていたということは推測できるが、それにしても、三歳児より欲のない天真爛漫な子供を選ばずとも、軍主の地位につきたいと思う人間などいくらでもいただろうに。
いや、いなかったかも知れない。ルカの脅威はそれほどに恐ろしいものだった。たとえ権力を手にできようとも、かの狂った皇子と相対しなければならない軍主の地位につきたいと思うものはそうそういないだろう。少なくとも、かつての同盟軍の英雄に育てられ、自身は真の紋章の継承者であるというジムスの身の上を考えれば、他の誰がなるよりも事は穏やかに運ぶ。
「あ、もしかして誤解してるのかもしれないけどさ、僕、別に城を抜け出してきたんじゃないよ」
ゲランの沈黙を別の意味にとったらしく、聞きもしないのにジムスが言い訳を始めた。
「シュウさんが、今日は夕方まで好きにしていいって言ってくれたんだ。だからさ、ちょっと遠出してみようと思って。最近、あんまりムクムクと遊んであげてなかったしさ。それと、遊んでばっかでもなかったんだよ。畑の手伝いだって、少しはしたんだ」
「…………」
畑の下働きまでする軍主、か。
シュウやリドリーの苦い顔が、ふと浮かんだ。選択肢は限られていたとは言え、威厳などかけらも持たないこの少年を軍主にしたてるにあたっては、並々ならない苦労があるだろう。彼らの立場に自分がいなくて本当に良かったと思ったが、もちろん口にはしなかった。かわりに、合財袋から小さな紙袋を取り出した。
「食べるかい?」
紙袋を開いて干し果物を見せると、ジムスとムクムクは歓声を上げた。
「いいの? ありがとう!」
うれしそうに受け取って、ジムスは干しプラムをつまみだすと、ムクムクと自分の口に放りこんだ。三つ四つ食べたところで、不思議そうにゲランを見る。
「それにしてもさ、何で干し果物なんて買ったの?」
濃い茶の瞳が、好奇心に丸くなる。
「ゲランさんて、あんまりご飯とかお菓子とか食べないよね? 誰かにあげるつもりだったのかな」
「ああ、それは――――」
クスクスの市場で、個人的な情報収集をする際に、会話のきっかけとして買ったのだ。そう言おうとして、ふと、いたずら心が頭をもたげた。
「――――どうしてだと思う?」
ことさらに愛想の良い笑みを浮かべて言う。
とたんにジムスが、ひどく疑わしげな顔になった。
「……もしかして、女の子にあげようと思った?」
「そうだとしたら?」
すかさず聞き返し、にっこりと微笑する。うー、うー、と子犬のようにうなったジムスは、手の中の干し果物とゲランとを見比べていたが、やがて、どすんと地面に腰を下ろした。
「食べ物に罪はないもんね!」
何かの宣言でもするかのように、ジムスは言ってのけた。
「要するに、僕とムクムクで全部食べちゃえばいいんだ! そうすれば菓子を悪さに使ったりできなくなるんだから!」
言うなり、腕にすがってムウムウと鳴いているムクムクとともに、すごい勢いで食べ始める。ゲランは微笑して、干しアンズや干しブドウなどのたぐいがあっと言う間に消えていくのを見守った。どうせ、門を入って一番最初に出会ったものにあげようと思っていた菓子だ。ジムスとムクムクが食べてくれるなら、荷物が減ってありがたいくらいだった。
食べるのに集中しているらしく、ジムスが無言になってしまうと、ゲランは、枝の向こうの空に目を移した。いつの間にか重苦しい黒雲は姿を消し、まだ空を覆っている灰色の雲の合間から、青空が透けて見える。小降りになった雨は、光をうけてぱらぱらと地上に降り注ぎ、草原と湖を明るく照らしだしていた。
「じきに雨も止みそうだね」
ゲランが言うと、ジムスが首をのばした。
「あ、ほんとだ。これなら夕方の会議に間に合うように帰れるかな?」
干しブドウをひとつまみ、ムクムクと分け合いながら、ジムスがうれしそうに言う。少しばかりあたたまってきた空気とともに、草と土と雨の匂いが、彼らの足元からほのほのと立ちのぼってきた。
「ごちそうさま!」
元気良くお礼を言ったジムスが、空になった紙袋にふうっと息を吹き込んだ。口を小さくまとめると、隠しから細紐を取り出して縛り、たちまち袋をいびつな形の風船にしてしまう。ぽんぽんと手のひらで打ち上げたジムスは、満足そうな顔になると、まだ雨の残る草むらに飛び出していった。
「ムクムク、おいでよ! 風船のとばしっこして遊ぼう!」
ジムスが呼びかけると、茶色の毛玉のようなからだをもたげたムクムクは、うれしそうに一声鳴いて雨の中に飛び出して行った。ムクムクの赤いマントも、ジムスの履いている編み上げブーツも、泥にまみれてぐしゃぐしゃだ。だが、少年とムササビは、雨も泥汚れもいっさい気にしていなかった。歓声をあげて草の間を駆け回る少年とけものを、ゲランは、腕組みしたまま見守った。
あれはまだ、テッドがそばにいたころ。
ジムスのように自由に草原を駆けた日が、自分にもあった。不安と惑いはあったけれど、世界はまだ単純で、雲間から差す光のように、行く手には明るい何かが待っているような気がした。
「ゲランさーん!」
片手を口に当て、残る片手をぐるぐると大きく振り回したジムスが、跳びはねながら叫んでいる。
「そろそろ帰ろうよ! これっくらいの雨なんか、濡れたってすぐに乾くよ!」
大声で呼ばわるジムス。その横でムクムクが、ぬかるみに落ちて台なしになった即席の紙風船を、うらめしそうに眺めている。ゲランは苦笑し、合財袋と棍を拾い上げた。
樹下から出ると、雨はほとんど小ぶりになっていた。見上げると雲が、まだらに光を透かしながら風に押されて流れていく。頬に当たる雨は弱く、草と土の匂いのする風が、ふわりと彼のバンダナをなびかせた。
「ゲランさんてば! 先に行っちゃうよ!」
ジムスの声に、ゲランは視線を彼に向けた。駆け出したいのを我慢しているような子供の表情に笑いを誘われながらも、ゲランは、ぬかるんだ地面をのんびりと下りていった。
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