雷が鳴っている。
常夜灯の揺らめく薄暗い廊下を一瞬青白く染め上げ、稲光が大空を駆け抜ける。
「あ…ああ…ッ!?」
城全体を揺らすような轟音の後の、一瞬の静寂を引き裂いて甲高い悲鳴が迸った。
「リース?!」
「い、急いで皆を呼んで来てください!」
それは恐怖と衝撃の故か。ヒステリックな叫びに、普段の穏やかな様子は微塵も感じられない。
「ホーク…ホークアイが…ッ!! 急いでッッ!!」
なおも叫ぶその声を、再び轟いた雷鳴が押し潰した。
黒幕は静かに笑う
〜ローラント城殺人事件〜
神獣も残すは闇の神獣のみとなり、一行は連戦続きの身体を休めるためにローラントを訪れていた。ローラント行きを主張したのはリース。なんでもアマゾネスご用達の温泉があるとかで、効能が疲労回復に美肌とくれば休養にはもってこいだろうとのことだった。
フラミーに乗った一行が到着してみれば、一体いつ連絡を受け取ったのか、すっかり用意を整えたライザが入り口で出迎えてくれた。
「申し訳ありません、リース様。使える部屋が離れてしまってまして…」
「いいのよ。ありがとう、ライザ」
ナバール軍に焼かれ、破壊された城内の復旧はまだ完全には終わっていないらしい。比較的破損の少ない部屋を大急ぎで片付けてくれたと知って、一行は恐縮した。
「とりあえず、部屋を分けましょう」
リースは五階に自分の部屋があるので、残りの部屋を5人で分けて使うことになった。
「三つの階に分かれてるのか…これ、浴場かい?」
ホークアイの言葉に、リースは彼の手元の見取り図を覗き込んだ。
「あ、そうです。そっちは男性の浴場ですね」
「じゃあ、俺はこの部屋にするわ。風呂に近い方が、行く時に楽だし」
ホークアイの取った部屋のある三階には、他に使用できる部屋がない。同じく見取り図を覗き込んでいたデュランが、じゃあ、とその下の階の部屋を指した。
「俺はこっちにしようかな。お前ら、どうする?」
デュランの取った部屋は、ホークアイの部屋の真下にあたる。二階にはそこ以外に真ん中の階段を挟んで二部屋空きがあり、娯楽室や図書室もここにある。
「じゃあ、あたしが上の階に行くわ。女湯もリースの部屋も近いし」
アンジェラが四階の一室を指す。残されたケヴィンとシャルロットは顔を見合わせた。
「どうする?」
残っているのは、デュランと同じ階ではあるが少し離れた二部屋。
「シャル、こっちがいいでち。ケヴィンしゃんはそっちでいいでちか?」
「おいら、どこでもいい」
結局、シャルロットが真ん中の部屋を取り、ケヴィンは端っこ、娯楽室の隣の部屋に決まった。ちなみに図書室は突き当たりに位置している。
「つまり、こうか」
ホークアイがさらさらと見取り図に名前を書き込んだ。
一階:食堂
二階:デュラン・シャルロット・ケヴィン・娯楽室・図書室
三階:ホークアイ・男子浴場
四階:女子浴場・アンジェラ
五階:リース
「うーん…見事にバラバラだな」
「しかし風呂場が三、四階って、なんか変わってねぇ?」
デュランのもっともな問いに、リースが苦笑を浮かべた。
「山の斜面に合わせて設計された城なので…。他の部分が三階だから一応三階ってことになってますけど、そこだけ見ると本当は一階なんです。食堂から見ると、岩場に乗っかってるように建ってるのがよく分かりますよ」
「へえ」
ちなみにこの浴場には、温泉が引かれているらしい。四階以上の部屋には、各部屋に小さい風呂場もあるとのことだった。
「では、行きましょうか」
無事に部屋割が決定したところで、一行は荷物を置きがてら城内を案内してもらった。
見れば、ところどころ「立ち入り禁止」の札が下がっているところがある。ホークアイの部屋に一番近い階段も、同様だった。
「うわ。じゃあ、あっちの端の階段しか使えないワケか」
「途中で崩れかけてて危険なので…。間違っても、ロープ乗り越えて入ったりしないでくださいね」
覗き込むホークアイに、ライザがやんわりと釘を刺す。それに、はあい、と良い子の返事を返すと、ホークアイは自分にあてがわれた部屋の扉を開けた。
「あら、良い香り」
「今朝一番に咲いた薔薇です。皆さんのお部屋にも飾ってありますよ」
アンジェラが漂ってくる薔薇の香りに、思わず口元を綻ばせる。それを見て、ライザもにこりと微笑んだ。
「男性用の浴場は、その突き当たりを曲がってまっすぐにあります。すぐにご用意しますか?」
尋ねられて、デュラン達は顔を見合わせた。
「まだ、いいよなあ?」
「では、夕食後で構いませんか?」
三人が頷くのを見て、ライザが、では、と一行を促した。客室がメインのこの階には、他に設備はない。
「本来なら、各階に渡り廊下があって、向こうの塔とつながっているんですけど」
先頭に立って階段を上りながら、リースが苦笑した。
「今使える通路は、ホークアイの部屋のある三階だけなんです。食堂も娯楽室もこちらの塔なんで、帰りまでは不便はないとは思うのですが…」
広間などのある、公的な役目をもつ塔と居住塔を繋ぐ連絡通路。それが三階の通路以外は立ち入り禁止の札が下がっていた。彼らが最初に真ん中の階に位置するホークアイの部屋に案内されたのも、そういう理由あってのことである。
赤く真新しい絨毯を敷き詰めた階段を上り、アンジェラの部屋へ向かう。四階は三階よりも位の高い客向けなのか、部屋数は少ないが広くて立派な部屋が並んでいた。ホークアイの部屋の窓には、狭いベランダがついていたが、ここには大きなバルコニーが設置されている。
「いい眺めね。あっちに見えるのはパロかしら?」
「お船が見えまちよ!」
はしゃぐ仲間達の後ろから空を眺めていたリースは、その蒼天の向こうに薄く黒い雲が広がっているのを見て眉をひそめた。
「厭だわ…嵐が来るかもしれない」
小さな呟きにケヴィンはリースを見たが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
「宝探しをしませんか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべたリースがそう提案をしてきたのは、全員が自分の部屋に荷物を置いて、二階の娯楽室でお茶を楽しんでいた時だった。
「宝探し?」
「そうです」
アンジェラの言葉に、リースはにっこり頷いた。
「この城に、ライザに頼んであるものを隠してもらいました。私も隠し場所は知りません。私を含め、みなさんには見取り図と、ヒントの暗号が配られます。暗号を解いて、宝を探し出してください。見事、宝を見つけた方には、賞品も用意してますよ」
「へえ、本格的じゃないか」
口笛を鳴らすと、ホークアイがティーカップをテーブルに置いた。宝と聞いて、興味が湧いたらしい。
「賞品って、なんでちか?」
シャルロットがわくわくしたように身を乗り出す。デュランも眺めていた雑誌から視線を上げて、彼女の言葉を待っている。
仲間が乗り気なことに満足したか、リースは嬉しそうに微笑んだ。そして、傍らに控えていたライザから紙片を受け取ると、仲間達に見えるように掲げて見せる。
「バストゥーク山温泉、秘湯中の秘湯。名づけて、『アマゾネスと行く美人の湯・ローラント城ロイヤルルーム宿泊二泊三日の旅』。もちろんフラミーの送迎付きです。これにペアでご招待しますよ」
「行く」
はっしと紙切れの端を掴むと、アンジェラがこくこくと頷いた。
「宝でもなんでも探そうじゃないの。絶対行くわよ美人の湯!」
いきなり燃え出したアンジェラにたじたじしつつ、リースは他の四人に目を向けた。
「珍しいな、アンジェラがそういうのに燃えるってのも」
「何言ってるのよ、ローラントの美人湯よ!」
デュランの言葉に、アンジェラがぐりっと振り返った。既に目の色が違っているあたり、気合の入れ方が尋常でない。
「その道ではすっごく有名なんだから! アマゾネスしか行けない秘湯中の秘湯だけど、美肌効果は抜群だって」
「そ…そうなんですか?」
リースが恐る恐るライザを振り返る。ライザは曖昧に笑ってみせた。
「まあ、確かに効果は抜群ですけどね…」
「とりあえず、決まり───だな」
ホークアイの言葉に、全員が頷いた。
「で、いつから始めるんだ?」
「そうですね」
デュランの問いに、リースが少し考え込む。
「もうすぐ夕食ですし、明日の朝からにしましょうか。…でないと、みなさん眠れないでしょう?」
それもそうだ、と皆が納得したところで、アンジェラが立ち上がった。
「アンジェラ?」
「夕食まで自由にやってていいんでしょ? 図書室に行ってるから、食事になったら呼んでちょうだい」
「承知しました。ご案内しましょうか?」
「いいわ、すぐそこだし」
ライザの言葉に鷹揚に手を振ると、アンジェラは娯楽室を出て行った。
「俺も一度部屋に戻って、ちょっとぶらぶらしてようかな」
そう言ってホークアイも立ち上がる。出て行く背中を見送って、シャルロットとケヴィンは顔を見合わせた。それから、デュランを見る。
「デュランしゃん、どうするでち?」
「まだこの雑誌読んでるから、しばらくここにいるよ。お前ら、城の中探検してくれば?」
実はそう言ってもらうのを待っていたように頷くと、シャルロットはソファから飛び降りた。
「そうしまち。ケヴィンしゃんは?」
「おいらも、行く」
慌ててお茶を飲み干すと、ケヴィンもぱたぱたと戸口に向かう。その背に向けて、デュランが柔らかく声をかけた。
「立ち入り禁止のとこには近づくんじゃないぞ。危ないから」
「うん、分かった」
振り返って頷く二人に、気をつけてな、と声をかけると、デュランはリースに目を向けた。
「で、リースはどうするんだ?」
「そうですねえ…。私も、図書館に行ってます。デュランも後でどうですか? 蔵書の種類ならフォルセナに負けてませんよ」
「そうだな、これ読んだら。…じゃ、後でな」
「はい」
にこりと笑ってリースが立ち上がる。そして、ふと立ち止まると窓の外に目をやった。
「やっぱり曇ってきましたね。…今晩辺り、嵐になるかもしれません」
「…だな」
頷きつつ、デュランも同じく窓の外を見る。午前中の晴天が嘘のように、厭な黒さの雲が空を覆いつつあった。雨が降り出すのも、時間の問題だろう。
その時、隅に置かれた大時計の鐘が鳴り出した。思わず二人の視線が時計に向かう。
「四時か…」
雑誌を置くとデュランは立ち上がった。そのまま大時計の前に向かう。
「随分でっかい時計だな。飾りも凝ってるし」
「もう、100年以上そこにあるそうですよ」
リースも時計の前まで歩いてきて、同じように時計を見上げた。
「先のナバール侵攻の時にも無事だったのは、奇跡だとじいが言ってました」
「だろうな。これだけ立派な時計、壊されないまでも、持って行かれそうだ」
デュランの身長よりもなお高さのある時計の盤面は、乳白色に輝く白蝶貝というものだろうか。黒く艶やかに光を弾く針、水晶のカバー。そして、ゆっくりと揺れる振り子を収納しているであろう扉には、やや輝きを鈍らせているとはいえ希少品である鏡が嵌め込まれていた。
その鏡と、鏡に映る自分の姿を覗き込みつつデュランは溜息をついた。ちらりと視線を雑誌置き場に走らせる。
「これだけでかけりゃ、シャルくらいなら入っちまうんじゃないか?」
「そうですね」
デュランの危惧に気付いて、リースは、くす、と笑い声を立てた。雑誌置き場に置かれた童話集にも、そういう話が載っている。中に入って遊ばれでもしたら、と心配しているのだろう。
「振り子がありますから、多分大丈夫だと思いますけど。…じゃ、もう行きますね」
「ああ、後で」
扉を開けつつ肩越しに振り返ると、デュランはまだ大時計に見入っていた。
晩餐は七時に始まった。ライザは恐縮していたが、それまで野宿の多かった彼らにしてみれば信じられないご馳走である。六人は大いに心づくしの料理に舌鼓を打ったのだった。
「あ、そうそう。リース」
食後のワインを楽しんでいたホークアイが、ふと思い出したようにリースに声をかけた。
「なんでしょう?」
「図書室にある本で続きが抜けてるのがあるんだけど…」
ホークアイの言ったタイトルに、リースが、ああ、と声を上げた。
「それなら、私の部屋にあったと思います。後で持ってきますね」
「ありがとう。先が気になってね」
ホークアイはにこりと笑うと、ワインの残りを飲み干した。
「どうした? アンジェラ?」
何か考え込んでいる様子のアンジェラに、ケヴィンが問い掛ける。アンジェラは小さく溜息をつくと、少し残念そうに言った。
「雨、降ってきちゃったじゃない。折角の展望風呂なのに、雨の中ってのもちょっとね…」
「アンジェラしゃん、シャルと後で一緒に入るでち。みんなで行けば怖くないでちよう」
どうやら一人で行くのが怖いらしいシャルロットが、早速勧誘に入る。
「そーねー…」
アンジェラはそれに気のない返事を返すと、もう一度小さい溜息を洩らした。
夕方降りだした雨はますます激しく強風と雷を伴い、夜には嵐に変わっていったのである。
「あ…ああっ…!」
口元を押さえ、リースが数歩後ろに下がる。薄暗い照明の中、その顔はひどく青ざめて見えた。どこか虚ろな空色の瞳が、ふっと知性の輝きを取り戻す。
轟く雷鳴の合間を縫うように聞こえてくる足音に気が付いたか、俯き加減の顔を上げた。
「リース! どうしたの?!」
駆け寄ってきたのはケヴィンだ。まだ浴場に辿りついていなかったのか、入浴セットを抱えたままだった。
「ケヴィン…」
彼女の声に激しい緊張を感じて、ケヴィンの表情が硬くなる。それでも、彼女の無事な様子に少し歩調を緩めた。
「リースの悲鳴、聞こえた。どうした?!」
そう尋ねつつ、リースの傍───半開きの扉の前に歩み寄ってくる。それを手で制すると、リースは一層切羽詰まった口調で言った。
「い、急いで皆を呼んで来てください! ホーク…ホークアイが…ッ!! 急いでッッ!!」
「わ、分かった!!」
ややヒステリックな叫びに気圧されて、ケヴィンは慌てて頷くと入浴セットを抱えたまま走り出した。仲間の部屋は、てんでんばらばらに離れてしまっている。仲間を連れて戻ってくるのに、一体何分かかるだろうか。
一瞬走った青白い閃光が、目に映る全てを白く照らし出す。轟音に思わず首を竦めて振り返ると、部屋の中に入ったのかリースの姿は見えなかった。
ケヴィンが仲間を連れて戻ってきた時、リースはホークアイの部屋の中でへたり込んでいた。その膝の先には、力なく床に崩折れたホークアイ。
「リース、ホークは…?!」
デュランの言葉にのろのろと顔を上げると、リースは首を振った。
「…!」
思わずホークアイの肩を引き起こそうと、デュランが手を伸ばす。それを身体で遮って、リースは激しく首を振った。
「駄目。…もう、硬直が始まってるんです。ライザはいますか?」
デュランが後ろの仲間達を振り返ると、互いの顔を見比べた仲間達が首を振った。
「おいら、呼んでくる!」
慌てて走っていこうとするケヴィンの背に、リースが声をかける。
「ライザは広間の方にいるはずです。そこの渡り廊下から向こうの塔へ渡ってください!」
「分かった!」
たたた、と軽い足音が遠のいていくのを聞きながら、デュランは室内の様子に目を走らせた。内装は特別自分の部屋と変わりがない。部屋の扉の正面の大きな窓もそっくり同じだ。昼間青空の見えていたその窓には、今は激しい雨が叩きつけている。そこから視線をずっと右奥に向けると、天蓋つきのベッドに上着と荷物が無造作に投げ出されているのが見えた。その脇には作りつけの大きなクローゼット。リースの傍らを過ぎると、デュランはそのクロゼットに手を伸ばした。
「デュラン、直接触れないようにしてください」
リースの言葉に、一瞬手を引っ込める。慌ててハンカチを引っ張り出すと、直接取っ手に触れないように注意しながら、クローゼットの扉を引き開けた。
「何も、ないな…」
二、三本のハンガーがぶら下がっているだけで、中には何も入っていない。元通りに扉を閉めると、デュランは再びホークアイの周囲に目を向けた。
テーブルの上には、半分ほどに減った赤ワインの瓶とグラス。これは、美味しかったからと彼が貰っていくのをデュランも見ている。そして、一冊の本。
「デュラン」
アンジェラの声に、デュランは彼女の視線を追いかけた。
「…グラス…?」
毛足の長い絨毯のおかげで割れることを免れたのか、もう一つのグラスが床に転がっていた。少しだけワインが残っているところを見ると、使用済みなのだろう。絨毯にこぼれた様子は見られなかったが。
「ワインに…毒が?」
「分かりません」
アンジェラの問いに、リースが低く答える。俯き加減のその顔の、表情は見えない。
「ホークしゃん…死んじゃってる、でちか…?」
戻ってきたデュランを、シャルロットが不安そうに見上げている。リースが動かないので、彼女にはホークアイの状態が見えないらしい。硬直が始まっている、と言うリースの言葉を信じるならば、シャルロットの出番はない。
さすがの彼女にも、死者を蘇らせる術はないのだから。
答える言葉もないまま少女の頭を撫でると、デュランはアンジェラを見た。彼女の深緑色の瞳は、食い入るように床のグラスを見つめている。
「誰が居たのかしら」
小さな呟きに、デュランはぞっと身を固くした。先ほどから頭に浮かんでいる、けれど口に出すのを怖れている言葉。アンジェラさえ、その先を言うことを躊躇っている。
その沈黙を破ったのはリースだった。
「みなさん、ゆっくりこの部屋から出て。何も触らないように気をつけてください」
「リース…」
「この部屋はこのまま、警備隊が来るまで封鎖します」
リースはゆらりと立ち上がると、デュラン達を振り返った。
「警備隊? じゃあ…」
「ええ」
その瞬間、駆け抜けた稲光に部屋が白く染め上げられた。窓を、塔全体を震わせる轟音の中、逆光で不吉なシルエットと化した彼女の声だけが、はっきりと彼らの耳に届いた。
「これは、殺人事件です」
「今、ライザに彼を見てもらっています。ワインの中身も調べてもらってますから、毒が入っていたかどうかはすぐに分かるでしょう」
昼間と同じ、娯楽室のソファにぐったりと身を沈めた四人に、指示を出し終えて戻ってきたリースが告げた。
「ライザさんが?」
ぼんやりと天井を眺めていたデュランが、訝しげにリースに視線を移した。頷いて、リースはデュランとは向かいのソファに腰を下ろす。
「ライザは警備隊長兼任ですし、医学の心得もありますから。…でも、本隊は嵐のためにパトロールからまだ戻ってきてないそうです」
「え? じゃあ、この嵐の中、まだ外に?」
「いえ。天候が崩れた時のために、山のあちこちに避難所があるんです。雨が来る前に、そちらへ入ったと連絡があったそうですから、そっちは大丈夫」
「そっか…。山の上ってのも、大変なのね」
アンジェラが窓の外に目を向けたまま、溜息をついた。その横顔を、稲光が蒼く照らし出す。
「雷も近いし」
ついで、どどん、と地響きを立てる轟音に、いかにも煩そうに眉をひそめる。
幸いシャルロットもアンジェラも雷をあまり怖れない。ただ、この激しい雷鳴では安眠できるほどでもないが。
「それにしても、一体誰がアイツを…?」
「ワイングラスが二つあったってことは、相手にも勧めたってことよね」
デュランの呟きに、アンジェラが考え考え言った。
「あたしのカンなんだけど、瓶の方には毒は入ってないと思う。入れるとしたら、グラスの方よね。でもねえ…毒かぁ…。なんか、ヘンなんだけどなぁ…」
「何がでちか?」
クッションを抱えてすっぽりとデュランとケヴィンの間に収まったシャルロットが、ボンボンの入った器へ手を伸ばした体勢のままアンジェラを見た。
「だって、なんかおかしくない? ホークアイが毒を盛られるなんてさ。アイツが一服盛るなら、まだ分かるんだけど」
「じゃあ、一服盛ろうとして返り討ちにあった、とか?」
デュランの言葉に、全員が一斉にアンジェラを見た。
「なによ」
「あんたしゃん、なんてことするでちかーッ!?」
「あたしじゃないっての!!」
シャルロットの叫びに、負けじとアンジェラが叫ぶ。
「あんたかもしんないじゃないの!」
「シャルはお子ちゃまでちから、ワインは飲めまちぇん」
もっともな反撃に、アンジェラがぐっと詰まる。
「…もといッ! ワインを勧める相手ってのは、あたしに限らないでしょうが! 目を逸らすなそこの二人!!」
びしびしっと指を突きつけられて、デュランとリースが顔を見合わせる。とりあえずワインを飲めない年少コンビは、自分達が容疑圏外にいると分かって安心したのか、興味深げに三人を見比べている。
緊迫した(しかしどこかのん気な)この問答は、ライザの入室によって一旦の終結をみたのだった。
「みなさん、お待たせいたしました。検死の結果がでました」
検死、と聞いて全員の表情が硬くなる。それまでは、まるで現実味を感じていなかったのだ。死んでしまったと聞き、その死体も目にしているはずなのになんとなく冗談か何かのように感じていた。
いや、───今でも。
五人の顔をゆっくりと見回すと、ライザは淡々と調べた結果を述べていった。
「死因は、即効性の毒物です。片方のグラスに毒が残っていました。時間としては、九時から十時頃だと思われます。…そこで、みなさんにお尋ねしたいのですが、みなさんがホークアイさんを最後に見かけたのは何時ごろですか?」
「食堂で別れたのが最後かしら」
アンジェラが頬に手を当てて、思い出しながら答えた。確かにアンジェラは一番最初に食堂を出ている。
「確かお風呂に入るって、言ってましたよね」
リースが頷きながらアンジェラを見た。アンジェラはシャルロットに目を向けた。
「そしたら、シャルが追っかけて来たのよね」
「だってぇ」
シャルロットが口を尖らせる。
「一人で行くのはイヤだったんでちもん。リースしゃんは、まだ入らないって言うし…」
「ごめんなさいね」
シャルロットの言葉に苦笑すると、リースはアンジェラに先を促した。
「で、お互いの部屋に寄って荷物取ってきて、一緒にお風呂へ行ったのよ。お風呂から出た後? 自分の部屋に帰ったわよ。パックしなきゃなんなかったし」
パック、という言葉にケヴィンが少し厭そうな顔をした。呼びに行った時何かあったのか、ケヴィンの表情を見てアンジェラの口元が緩んだ。
「そろそろはがそうって時に、ケヴィンが呼びに来たのよね」
「うう、怖かった…」
少年が消え入りそうな声で呟く。そのコメントに、全員が小さく吹き出した。それを見て、ケヴィンは大きな身体を縮こめた。
「シャルロットはお風呂の後どうしたの?」
「シャルはここに来たんでち。その時は、まだホークしゃんがいまちたよ」
「え? ホークアイが?」
リースが驚いたようにシャルロットを見る。アンジェラやケヴィンもシャルロットを見た。注視を浴びて怯んだシャルロットを庇うように、デュランが口を開いた。
「俺も一緒にいたから、間違いない。…ってか、ホークと俺と、…あの時ケヴィンはいたっけ?」
問われてケヴィンは首を振った。
「おいら、食堂いた…。ココア飲んでた」
「あんたしゃん、姿が見えないと思ってたら…そんないいもん飲んでたでちか」
シャルロットに半眼で迫られて、ケヴィンはたじたじと後退った。
「う、うう…ごめん」
「ケヴィンはひとまずおいといて」
脇道に逸れかけた話題を引き戻そうと、アンジェラが口を挟んだ。
「あんた達は、ここで何してたわけ?」
「俺は雑誌を読んでた。あいつはそこの玉突き台で遊んでたよ。…で、シャルが入ってきて───あ、そうそう。丁度それが八時半だったな」
「なんで分かるのよ?」
アンジェラの問いに、答えたのはシャルロットだった。
「時計が、鳴ったんでちよ」
その言葉に、全員が一斉に時計を見た。まもなく日が変わる。
時計を見つめたまま、シャルロットが悔しそうに続けた。
「で、デュランしゃんてば、シツレーにもこのレディーに向かって、『時計の中で遊ぶなよ』って言ったでちよ!」
「デュラン、本当に気にしてたんですねぇ…」
呆れたようなリースの言葉に、ちょっと赤くなってデュランは頭を掻いた。
「いや、やっぱ一応言っておいた方がいいかなと思ってさ」
その言葉に、シャルロットはますます膨れてみせた。
「それがシツレーだって言うんでち! いくらシャルだって、あんなに───…確かに入れそうでちね…」
「だから入るなと言うのに」
今にも入っていきそうなシャルロットを慌てて押さえると、デュランは溜息をついた。
「ま、ともかく。シャルが入ってきて間もなく、かな。ホークは風呂に行くって出て行ったよ。それが最後かな」
「シャルもでちー」
「その後は、そこのオルゴール聞いたり雑誌読んだりしてた。そのうちシャルがうたた寝始めちまったから、部屋まで連れてって、俺も部屋に戻ったよ。ケヴィンが呼びに来た時には、ちょっと寝てた…かな」
話終えて、デュランが全員の顔を見回す。
「後はケヴィンとリースか…。ケヴィンは? お前そういや、最後まで食堂にいたよな?」
正確には、食堂にディスプレイされていた大きな水中花に見入っていたのだが。
デュランに促されて、ケヴィンがおずおずと話し出した。
「うん…。おいら、あそこのお花、見てた…。そしたら、ライザさん、ココアくれて…。それ飲んで、少し話、してた。それからおいら、三階行った」
「三階?」
アンジェラが思わず眉をひそめる。行動の理由が掴めずに、全員が彼の顔をまじまじと見つめた。ケヴィンは少し怯えたように頷くと、先を続けた。
「あそこにも、水のお花、あった…。あっちには、サカナ入ってる。おいら、それ見てた」
「ああ…」
得心がいったように、リースが声を上げた。アンジェラも頬に手を当てて、廊下の様子を思い出すと頷いた。
「そういえば、突き当たりにそんなのがあったわね…」
「すみません、私がお教えしたんです」
ライザが申し訳なさそうに口を挟んだ。
「随分興味がおありのようでしたので…」
「なるほどな」
頷くと、デュランはケヴィンに先を促した。
「おいら、どのくらいいたか、よく、分からない。でも、そこにいた時、ホークアイ、帰ってきた。これからお風呂、そう言ってた。おいら、その後もうちょっといて…それから、部屋に帰った」
「その時、あいつはまだ風呂にいた?」
デュランの問いに、ケヴィンはこくりと頷いた。
「おいらいたの、お風呂場の前。ホークアイ、まだ入ってた」
「部屋に帰って、それから?」
リースが先を促す。アンジェラがちらりと見ると、リースの傍らでライザがメモを取っているのが見えた。全員の発言をまとめているのだろう。
「おいら、お風呂行くつもり、でも、気が付いたら、寝てた。そのまま寝る、迷った、けど…やっぱり入ろうって…。それで、三階行ったら、リース、いた」
「リースが?」
「ええ…」
皆の注視を浴びて、リースは力なく頷いた。
「ホークアイに頼まれた本を、届けに行ったんです。奥にしまってたんで、すっかり遅くなってしまって…。ケヴィンとは、丁度真ん中の階段辺りだったかしらね?」
確認するようにケヴィンに目を向ける。ケヴィンも少し考えた後、頷いた。
「うん、壊れた階段の、そば。リース、ホークアイに用事。じゃあねって、おいら、そのままお風呂行った。…そしたら、悲鳴、聞こえた…」
その先を思い出したか、ケヴィンが唇を噛み締めるように沈黙した。重苦しい静けさの中、雨が窓を叩く音だけが室内の空気を震わせている。
沈黙を破ったのは、零時を告げる時計の鐘の音だった。その重々しい音はどこか遠くから響いてくるようにこもっていて、まるで彼らの気分を代弁しているかのようだった。
「…ともかく、みなさんお疲れでしょう。日も変わってしまいましたし…もう、おやすみになってください。明日、天候が回復次第、警備本隊も戻ってくるはずですから」
鐘の音が合図になったように、手帳を閉じたライザが全員を見回しながら言った。ライザはこのまま、封鎖された部屋の前に歩哨に立つらしい。三階にいますから、と言い置いて彼女は出て行った。
「とんだ休暇になってしまいましたね…」
疲れきった表情のリースが、重い溜息をついて立ち上がった。
「やすみます。…眠れるかどうか分からないけど。みなさんも、もう…」
「そうだな」
少しの間リースを見つめた後、デュランも立ち上がった。
「もう眠ろう。煮詰まった状態で考え込んでても、仕方がないし…な」
その言葉を皮切りに、皆がぞろぞろと部屋を出る。促しておきながら、まだ部屋の中で考え込んでいるデュランに、アンジェラが声をかけた。
「どうしたのよ?」
「いや」
ふと、我に返ったようにデュランが顔を上げる。慌てて部屋を出ながら、低い声で呟いた。
「なんか、引っかかるんだよな…」
「何がよ?」
聞き咎めて、アンジェラが囁くように問いかける。なんとなく、他の仲間に聞かれることが憚られる気がした。
「いや…なんか分からないけど…何か、引っかかるんだよ…」
自分でも何が引っかかるのか分からないまま、デュランは唸り声を上げた。自分の見た光景、それを思い出すように目を閉じる。
しかしやがて、諦めたのか軽く頭を振ると苦笑した。
「やっぱ、もう寝るわ。頭が回んねぇ」
部屋の扉を閉めて、ケヴィンは困ったような表情を浮かべた。カーテンの閉まった窓と、テーブルの花瓶を見比べ、溜息をつく。
実際のところ、彼は部屋にたちこめる薔薇の香りに辟易していた。昼間はそれほど感じなかったが、今の雨でこもった空気の中では、彼のように鼻の利く者にはかなり厳しい。先ほどホークアイの部屋に行った時も、この香りのせいで残されたはずの犯人の匂いを捕らえることができなかった。そのことが少し悔しい。
(どうしよう…)
窓を開けようかと傍まで寄りながら、ケヴィンはまだ迷っていた。雨粒が窓を叩く音から、窓を開けばかなり吹き込んでくることは容易に予想できる。部屋を水浸しにするのは、さすがに少々気が引けた。
(外に出せば、少しはましかも)
花瓶を手に部屋を出る。ひんやりした廊下には、雨の匂いこそすれ、花の匂いも人の匂いもまるでない。ケヴィンは廊下を見回して少し考え込むと、デュランの部屋に向かって歩き出した。そして、階段まで来ると立ち止まった。
「ここなら、大丈夫…かな」
立ち入り禁止の札を見やりつつ呟く。途中が崩れかけているという階段ならば、誰も通る心配はない。花瓶を置いておいても大丈夫だろう。ゆるく張られたロープの向こう、階段の端に花瓶をそっと置くと、ケヴィンはほっと溜息をついた。それからデュランの部屋の方をみやり、続いて階段を見上げる。
「ホークアイ、ホントに…?」
まだ信じられない。悲しくないのはそのせいかもしれない。
軽く頭を振ると、ケヴィンはデュランの部屋の扉に目をやった。階段から数えて三つ目の部屋。それはホークアイの部屋の真下にあたる。少し難しい顔で考え込んでいた剣士の顔を思い出して、溜息をつく。
娯楽室を出る時、デュランは何か引っかかることがあると言っていた。尋ねてみたかったが、なんだか近寄りがたくて尋ねられなかった。まだ起きているなら、少し話したい気もする。
だが、さすがに動き回っている気配はない。静寂そのものの扉を見つめたまま、数瞬。
(明日、聞いてみよう)
少し迷った後、そう結論づけて部屋に戻ろうと踵を返す。細く甲高い悲鳴が聞こえたのは、その時だった。
「シャルロット?!」
一瞬で声の主を判別すると、ケヴィンはシャルロットの部屋の扉に駆け寄った。ついで、どんどんと扉を叩く。
「シャルロット、どうした?!」
「けけけ…ケヴィンしゃん…?」
中からの応答にひとまず安堵の吐息をつく。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていないのか、するりと開いた。
「シャルロット、大丈夫、か?」
恐る恐る覗き込むと、目指す相手はすぐに見つかった。窓の前で、腰を抜かして震えつつこちらを振り返っている。
「ままままどのそとにだれかいるぅ〜…」
半べそをかいているシャルロットの傍に駆け寄ると、ケヴィンは勢いよくカーテンを引き開けた。しかし窓にはぼんやりと彼が映りこんでいるだけで、闇の彼方には何も見えない。
「誰も、いないぞ?」
「いいいいたんでち、いたんでちよぅー」
念のために窓を開く。すると、たちまち風にあおられた雨がケヴィンの顔に向かって吹き付けてきた。それにも怯まず、身を乗り出して左右を見回す。ベランダもない窓の外には、足がかりとなるものなど何もない。二階の高さの空中を歩ける人間などいないだろう。
闇を見通すケヴィンの黄金の瞳ですら、見出すことの出来ない人影。
一瞬ぶるっと身を震わせると、ケヴィンは頭を引っ込めて窓を閉めた。
「ど…どうでちか…?」
少し落ち着きを取り戻したシャルロットに首を振ってみせると、ケヴィンは未だ腰を抜かしたままの彼女を抱え上げてソファに座らせた。
「窓の外にいた、どんなヤツ?」
「真っ白い顔で、目と口は穴が空いてるみたいで…」
そこまで言って、シャルロットは怯えたようにカーテンの開いたままの窓に目をやった。視線に気が付いて、ケヴィンは窓のカーテンをしっかりと閉め合わせた。
「最初は、雨の音だと思ったんでち。でも、コンコンって窓を叩いてる音がはっきり聞こえて…。カーテンをめくったら、お、お面みたいな顔が覗いてたんでち〜…!」
「こ、ここ、二階。外、誰も、通れない…」
そう言った後、ケヴィンは妙な音に気がついた。カチカチと鳴るその音が、自分の歯を噛み鳴らす音だと気が付いて、思わずシャルロットを見る。シャルロットも、同じく震えながらケヴィンを見つめていた。
「…」
「…オバケ…?」
「ギャー!! 言うなでち言っちゃ駄目でちぃ〜ッ!!」
耳を塞いで叫ぶシャルロットの声にかぶさるように、遠くから絶叫が聞こえた。
まるで断末魔の叫びのようなその悲鳴は、二人にとっては聞き慣れた声だった。
「な、なんでち?」
「デュラン?!」
一瞬竦みあがった二人は、顔を見合わせるなり慌てて部屋を飛び出した。何の打ち合わせもなく、ケヴィンの背中にシャルロットが背負われている辺りが二人の日常を物語っているが、本人達に互いをツッコむだけの余裕はない。数歩走ったところで、後ろから駆けて来る足音に気が付いた。
「ちょっと、何の騒ぎよ?」
「アンジェラしゃん、どーしてここに?」
追いついてきたアンジェラに、シャルロットが訝しげな視線を送る。それもそのはず、アンジェラの部屋は二つ上の階なのだ。悲鳴を聞いたにしては登場が早すぎる。
「あれからずっと図書室に居たのよ。そしたらあんた達が大騒ぎしてるわ、ヘンな悲鳴は聞こえるわ…」
立ち入り禁止の階段の前を通り過ぎ、三人は不安げに立ち止まった。悲鳴の主と思われる剣士の部屋は、不気味なほどに静まり返っている。
「あれって…デュランしゃん、でちよね…?」
確認を取るように、廊下の床に下りたシャルロットが二人の顔を見回した。
「そうでなくても、あれだけの騒ぎで出てこないって…変じゃない?」
アンジェラが恐る恐る扉をノックした。コンコン、という乾いた音が妙に大きく聞こえる。
「デュラン、どうしたの? …デュラン?」
いつもならばすぐに返って来る応えが、全くない。どころか、中で人の動く気配すらなかった。
奇妙なまでの静寂に、三人の不安が募っていく。試しにドアノブに手をかけると、鍵がかかっているのかびくともしなかった。
「デュランってば、どうしたのよ! 開けてよ!」
「デュランしゃんー!」
ドンドン、とやや乱暴に扉を叩くと、アンジェラはケヴィンを振り返った。
「ちょっと、上に行ってライザさんを…。…いいわ、あたしが行く。ついでにリースも呼んでくるから、あんた達はここにいなさい。中の音に注意してて。いいわね?」
「わ、分かった…気をつけて」
ケヴィンとシャルロットが頷くのを見て、アンジェラは駆け出した。が、数歩で立ち止まる。
既に異変に気が付いたライザとリースが、向こうから駆けて来るのが見えたからだ。
「みなさん、どうしたんです?!」
「今の叫び声はなんですか?」
口々にそう叫びつつ駆け寄ってくる二人に、アンジェラは右手を差し出した。
「デュランが出てこないのよ。この部屋の鍵を貸して」
慌ててライザが鍵束を差し出す。それを受け取るアンジェラに、リースが恐る恐る尋ねた。
「さっきのあれ…デュラン、ですよね…? まさか…」
「分からない。その前にシャルロット達が騒いでたから、その絡みかもしれないし、単に寝ぼけてるだけかも」
そう言う彼女の表情は楽観的な言葉と裏腹に、酷く暗かった。少し震える手で鍵を選び出すと、ふとリースに深緑色の瞳を向ける。そして、少し笑った。
「なんて格好してるの、リース。石鹸、ついてるわよ?」
「あ…その」
自分の格好を見下ろして、リースは少し頬を赤らめた。入浴途中で飛び出してきたのだろうか、彼女は槍こそ持ってはいるが、その濡れた髪には石鹸の泡がこびりつき、バスローブから覗く足はスリッパも履いていないという真にもってあられもない格好を晒していた。
「あのお風呂場で良く聞こえたわね」
女子の浴場は男子浴場の上の階にあたる。いくら夜は音が通るとはいっても、そこまで離れたところまで聞こえるものだろうか。しかも、雨の中である。
言外にそんな響きを感じたか、ケヴィンとシャルロットは顔を見合わせた。リースはもっともだ、と言いたげに頷くと薄く笑った。
「あっちの大浴場ではなく、部屋のお風呂に入ってたんです。でも、窓を開けてなかったら、聞こえなかったでしょうね」
「なるほどね」
ようやく見つけた鍵を鍵穴に差し込みつつ、アンジェラが頷く。その様子に、なんとなくほっとした空気が流れた。
「デュラン…?」
微かに軋む音を立てて、扉が開く。その影に隠れるように身を隠しつつ、アンジェラはそっと呼びかけた。油断なく身構えたケヴィンが注意深く中に踏み込み、同じく室内用の短い槍を構えたライザが続く。
室内は真っ暗で、常夜灯すら消えている。聞こえるのは雨の音と部屋に踏み込んだ二人の微かな呼吸音。本来なら聞こえる部屋の主の寝息は聞こえない。それが闇の深さと相まって、不安を一層煽り立てた。
「すみません、灯りを…」
とりあえず侵入者の気配はないとみて、ライザがアンジェラ達を振り返った。夜目の利くケヴィンは、そのまま奥へと進んでいく。そして、ある一点で立ち止まった。
「…デュラン…?」
自分で呟いたことすら気付いてないように、ケヴィンはもう一度剣士の名を呼んだ。
そして、激しく震えだした。
その足元では、呼ぶ声にもはや答えることもない青年が、無残な姿を晒していたのだった。
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