花を買った。
きっかけはたった一本だった。アーデルハイド城下近くの森で見付けたものだが、特に花を求める目的で入ったのではない。街で泣いていた少女に探して欲しいと頼まれた後、偶然その逃げ出した子犬を見かけ追ううち踏み込んだそこで足許に咲いていた。けばけばしくもなければ毒々しい彩りでもなく、一般的な表現を取るならば薄い黄色といったところだろうか。背も高くなく、ささやかな花びらを緑苔の株に紛れながら広げている。
歩み寄ると傍らにしゃがみ腰を落とす。ある夜の月にも似た色を帯びたそれは、てのひらに包み込めそうな位に小さい。低いと見えていた背は距離を詰めてみると、くるぶしを辛うじて越える高さと判った。僅かな揺らぎを示す姿をただ真っ直ぐに見つめ、知らぬうちに息すら潜めている。ゆっくりと近付いてきたセシリアもまた膝を付き、微笑む。
「可愛い花ですね」
ロディはセシリアを見、頷く。
「しかしおかしなところに生えてるもんだよな、こんな光もろくに当たらねえ森の中なんかに」
突っ立ったまま、いかにも不可解といった風でこぼしたザックに、ハンペンが深々と息をついた。全く何の情緒もないんだから、まあセンチメンタルって言葉はザックには縁のないものだしね、肩から駆け下り呆れ交じりに言う。
「何が言いたいんだよ」
「別に何でも。でもそういえば、何処かの国に<豚に真珠>って諺があるらしいよ」
「豚に真珠?何だそりゃ。豚公なんかに金目のものやっても意味ねえだろうが」
「その通り、判ってるじゃんザックも。価値の判らない人にはどんな高価なものあげたって仕方ないってことだよね」
ハンペンが快活に言い、途端にザックはその空色の体へと右腕を伸ばす。首の後ろの皮膚をつまみ引き上げると、自分の眼前に吊るし睨み付けた。
「何だとこのクソネズミ」
「ああ、嫌味はちゃんと判るんだね、上出来上出来」
吊られた方に怯んだ様子はない。ややあって投げ出されれば身も軽く土の上へと着地する。いい加減にしねえと海に放り込むぞ、幼稚ともするべき脅しに肩を竦めてみせる。
「でもザックの言うことにも一理あるかもね」
「今更フォローのつもりか?」
「まあまあ、そんな卑屈にならない」
「少し不思議なところに花を付けている、ということかしら」
花へと落としていた眼差しを一人と一匹のコンビに向け、セシリアが声を挟む。
「そうそう。流石セシリア、誰かさんとは大違い」
「一言多いんだよお前は」
「オイラは本当のこと言ってるだけだよ」
茶飯事の言い合いが続けられる様子をセシリアは苦笑を浮かべ見守っているのだが、その傍らでロディは頭を揺らさない。茎へと添えさせた右手はそのままで、頑ななまでに動かないその面差しは、花から逸らされることのない意識を如実に示しているようでもある。ザックは周りを見回し、自分たちを包んだ冷ややかで湿った薄闇を確かめる。
暖かい陽光を浴びることによって生を輝かせるものからすれば、余りに相応しくない、それどころか忌避すべきともできる場所だ。しかし眼下の花は間違いなく咲いているのであり、覚えずある筈ないのにある花ね、と独りごちる。刹那微かにロディの頬が震えたようにセシリアに見えたのは、発されたばかりの科白がこの緑なさぬファルガイアの上、花の息吹を復活させようと懸命な一人の少女を連想した為もあるのだろうか。しかし全くの錯覚でもなかったようで、触れさせたままだった手を自分の方へと引き、彼は小さく息を吐く。
「引っこ抜かなくていいのか?」
ひどく直接的な表現にも気分を害した風はなく、ザックを振り向くと一つだけ首を縦に振る。
「これで、いいんだ」
短く、控えめながら言い含めるかの言葉からは真摯ともいえる意思が感じられる。セシリアとハンペンが視線を合わせ微笑みを交わす一方、他人の感情に無頓着なザックは怪訝げに眉を顰めている。まあそれなら構わないがな、言うと顔を回し、アーデルハイド城のある方を見遣る。下を向いたままで多少窮屈を覚えていた背を反らし伸びをする。
セシリアは再びロディを見た。ゆっくりと口を開き、話し掛ける。
「アーデルハイドに、お花屋さんが出来たみたいです」
ロディもまた、セシリアへと視線を向ける。その色は、唐突の科白の意図を理解しあぐねているといった様相だ。
「ゼルデュークスの石像の傍で、女の方がお店を出しているみたいですよ」
少なくなく戸惑っているらしい表情へと笑みを見せる。緩慢な仕草で立ち上がった。
「少し買わせて頂いてから行きませんか?」
「何処へ」
即座に返してきたのはザックである。顔を顰めることも問い掛けを遮ることもなく、セシリアは眼差しだけをザックに移し、落ち着いた口調のままで続ける。
「タウン・ロゼッタです」
「ロゼッタって、ああ、そういうことか、成程」
ようやく納得したように頷き、破顔した相方をハンペンは溜息をつきつつ眺める。遅すぎる上に鈍いよね全く、漏らしながら両腕を腰に添えて威勢を見せる。いつもの揶揄に、苛立つのにも飽きたのかザックは何も言わず、反応を示したのはロディであった。
「あの、セシリア、俺は」
「久しぶりに顔を見せてあげたら、きっと喜びますね、マリエルも」
慌てて立ち上がったロディに、セシリアはにこやかな笑顔を浮かべる。エルゥの皆が姿を消した後も、錆び付いた地にまた花を咲かせようと一人でマリエルは身を削り続ける。焼け野が原に開いた一輪の花に似ていて、ロディにとっては特にそうであると思う。会えばお互い共有できる筈の安らぎの、次の機会はいつ訪れるか判らない。
明日にはまた発たねばならないのだ、とすれば望む通りに動けるのは今日を過ぎればしばらくない。しばしの間ロディは困った風だったのだが、そのうち説得を諦めたらしい。合わせるかに綻ばせた顔は、次第に普段のものより多い柔らかさを含み始める。ゆっくりと月色の花を振り返り見下ろし、その足許を白い子犬が擦り抜けた。
マリエルは帽子をかぶり直し、小屋の外に出た。差してきた太陽の光に心持ち瞳を細め、空を見上げる。雲の殆どない空には青が広がり、大切な花たちへと降り注いできているのである恵みを思い唇を緩めた。
よく解された土は踏み荒らされた様子もなく、その上の花も白く煌めいて見える。最近は街の子供たちからの悪戯もないようで、見慣れたとも言える平穏な光景だ。勿論自分たちの過去が赦されたとは考えていないが、取り巻く環境からは厳しさが減っているような気がする。それでも時々視線を遠く、空の向こうへと遣ることがある。
辛いと思うことはあった。一人だと実感することもあった、しかし孤独を感じることなどなかった筈だった。いつからか知った淋しいという感情を悟る時、決まって脳裏には三人の影がある。初めて出会ってから何かと気遣ってくれるその渡り鳥たちは、今頃何をしているのだろう。
どの辺りを旅しているのだろう。ザックにセシリア、そして今まで見てきた中で誰よりも思いやりの深いロディ。決して償うことなどできない罪を抱えた自分を仲間だと言ってくれた、ひと。護ってもくれた、何よりも寂寥感と暖かな心を教えてくれた彼の為にも、この花を育てようと決めている。役に立てるのなら、笑顔を見られるのなら時々しか会えなくても堪えられる。
いつか向けられた柔らかな笑みを思い起こし、マリエルは微かに笑う。花の様子を見ようと歩み寄りかけ、とある瞬間街の方から流れてきた声を聞き立ち止まる。僅かに首を傾げ、自分の名が呼ばれた気がしたのは空耳だろうか、と考える。しかし誰よりも待ちわびる彼の声はもう聞き取れないまま、届いた複数の足音と仄かな芳香にゆっくりと振り向いた。
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