「空の記憶」





 花が、風にそよいでいた。
 草むらにうつぶせに寝転がり、ロディは小さな足をぶらぶらとさせていた。目の前で風にゆれている薄桃色の花のまわりを、小さな虫が飛んでいる。あの虫は蜂という名前だということを、彼は知っていた。おじいちゃんが――――ロディを育てているゼペットじいちゃんが、そう教えてくれたのだ。
 小さな花の中にごそごそともぐりこんでいった蜂は、やがて満足そうにな様子で出てきた。毛の生えた腹やギザギザの脚に、花粉がいっぱいついている。蜜が採れたんだといいな、とロディは思った。おじいちゃんが言っていたのだ。蜂は花から蜜をとって、子供たちに食べさせてあげるんだと。
 軽い羽音をたてて蜂が飛んでいってしまった後も、ロディはそこでじっとしていた。春の原っぱは、草や木や花の匂い、そこらを駆け回る動物たちの匂いやしめった土の匂いがして、空気をかいでいるだけでとても気持ちがいい。できれば一日中でも、ここに寝転がっていたいくらいだった。
 でも、もちろん、そんな事はしない。
 ロディはもう五つで、おじいちゃんのお手伝いだって、ちゃんとできる。体は小さくても、大きな箱や樽を軽々と運べたし、木の根を掘り起こしたり、畑をきれいに耕すこともできる。この春に生まれたばかりの雛が、夏には自分の羽で巣から飛び立つように、ロディだってもう赤ちゃんではない。
 ロディは、そっと身を起こした。風にそよぐ花たちに、小さな声で、またね、とささやく。ロディの小さな手足はとっても力が強くて、うっかりすると、花や虫や生き物たちがひどく傷つくことになってしまう。だから、立ち上がるときも、草むらを駆け出したときも、彼はひどく用心深かった。土くれひとつ、跳ね飛んだりはしなかった。
 こんもりと盛り上がった草むらや、木漏れ日のさす雑木林を、ロディは一心に駆けていった。ひらひらと楽しげに舞う白いチョウが、彼の後先についてくる。きゃっきゃっと笑い声を上げながらロディは、チョウをつかまえようと小さな手をのばした。チョウはふわりと上昇し、ロディの手の届かない高みまで行くと、ひらひら羽を動かしながら木々の向こうに消えた。
 取り残されたロディは、チョウが飛んでいった空を名残惜しげに見上げた。チョウが飛び去ってしまったのが、とっても淋しい。もう少しの間、一緒に走ってみたかったのに。でも、きっとチョウには、大事なご用があるんだと思う。ロディのおじいちゃんも、ご用があるときはどこかに行ってしまうのだから。
 くるりと向きを変えると、ロディはふたたび走りだした。雑木林を抜けるとそこはなだらかな坂になっていて、緑の芝草が一面に生えている。坂の上には、小さな家が建っていた。おじいちゃんとロディが住む、森の中の庵だ。
 扉にたどりつくと、ロディは勢いよく暗い部屋に飛び込んだ。
 「じいちゃん!」
 呼びかけたが、答えはなかった。
 ロディは、薄暗い部屋を見渡した。小さな木のテーブル、本で埋め尽くされた棚、いつも何かの書き付けが積んであるゼペットの机。それらが、しんとした佇まいで主の帰りを待っている。
 「じいちゃん?」
 畑かな、と首をかしげて、ロディは外に飛び出した。壁伝いにぐるりと走っていく。古びた庵の南側には、小さな畑があって、ゼペットとロディが食べるには十分な量の野菜が作られているのだった。春から秋にかけて、おじいちゃんは、日差しがそれほど強くない午前の中ほどまで畑仕事をしていることが多かった。でも、今朝はロディも一緒になって草取りをしたのだし、午後遅くまでのんびりすると言っていたのに……。
 さして広くもない畑に着くと、ロディは周囲を見回した。だが、誰もいなかった。
 少し不安になってロディは、畑の間に立ち尽くした。おじいちゃんは、どこへ行ったのだろう? なんだか胸がどきどきしてきて、ロディは心細げにあたりを見まわした。ひとりっきりだと思うと、さっきまであんなにきれいに見えた葉や花たちが、ふいによそよそしくなってしまったかのような気がする。
 「……じいちゃん?」
 小さな声で呼んでみたが、答えは返ってこない。
 もしかして、街に買いだしに行ってしまったのだろうか? そうだとすると、早くても二、三日は帰ってこない。一番近い街でさえ、この庵から一日近くかかるのだから。ロディは、ぐすっと鼻を鳴らした。
 ロディ自身は、今まで一度も街に行ったことがなかった。それどころか、おじいちゃん以外の人に会ったことさえない。おじいちゃんは、ロディはまだ小さいから、街へは連れていけないと言うのだ。だからロディは、おじいちゃんが買い出しに出掛けるたびに、ひとりぽっちでこの庵で留守番をしているのだった。
 今日もまた出掛けてしまったのだろうか。ロディは背中を丸めて、とぼとぼと庵に戻り始めた。ひとりぽっちのお留守番は、大嫌いだった。風の強い夜などは、まるで魔物たちが総出で襲いに来たようにがたごとと窓が鳴り、ふとんにくるまっていても、こわくてさびしくて、泣きだしてしまうのだった。
 かさ、と背後で音がした。
 はっとしてロディは振り返った。
 風の中に、何か、聞こえる。一心に耳をすませたロディは、ぱっと顔を明るくした。あれは、じいちゃんの足音だ。良かった、お出掛けしたんじゃなかったんだ。笑顔になってロディは、今度ははねるような足取りで、音に向かって駆け出した。
 雑木林の中の小道は、じいちゃんが狩りにいくときのものだった。春もたけなわの今頃では、どこが道でどこが草むらかわからなくなるほど草が密生しているが、ロディの足取りに迷いはなかった。おじいちゃんの足音と、草や獣たちの匂いにまじったおじいちゃんの匂いを頼りに、どんどん駆けていく。
 やがて道の先に、杖で草を払いつつ歩いてくる人影が見え、ロディは歓声をあげた。
 「じいちゃん!」
 小さな手をいっぱいに振り、ロディは叫んだ。ゼペットじいちゃんもロディに気づいて、足取りが早くなる。きゃあっと声をあげてロディは、おじいちゃんの足にとびついた。思いきりしがみつきたかったけれど、そんなことをしたらおじいちゃんが痛い思いをしてしまう。だから、ちょっと我慢をしてズボンに頬ずりするだけにした。おじいちゃんの手がのびてきて、ロディの頭をやさしくなでてくれた。

ちびロディ(やしまさん・画)

 「どうしたね、ロディ」
 しわがれた声が、名前を呼ぶ。いっそううれしくなって、ロディは、ほんのすこしだけ手に力をこめた。
 「こら、こら、そんなにしがみついたら、わしが歩けんじゃろうが」
 笑いながらおじいちゃんが、そっとロディの腕を自分の足から引き離し、ごつごつした腕で抱き上げてくれた。きゅうっとその首にしがみついてロディは、枯れ草とパイプの香りがまじったようなおじいちゃんの匂いを、胸一杯にすいこんだ。
 「どうしたね、庵にわしがおらなんだので、びっくりしたのかの?」
 こくんとロディがうなずくと、おじいちゃんの手が、安心させるようにそっとロディの背中をたたいた。
 「すまなかったのう。丘に登って、雲行きを見ていたんじゃよ」
 「くもゆき……?」
 首をかしげてたずねると、おじいちゃんはうなずいた。
 「畑のためにはぜひとも一降り欲しいところじゃからな。運良く南に、雨雲があった。風もしめっていたし、今夜あたりはたぶん、ガーディアンさまが恵みの雨をくださるじゃろうて」
 ふーん、とロディはつぶやいた。おじいちゃんは笑いだし、

 「わしらの暮らしを支えてくれる畑の豆やキャベツが、雨が降るとおなかいっぱい水を飲めるようになるんじゃよ。そう言えば、わかるかの? ロディだって、おなかが空くとつらいじゃろ? わしらが撒く水だけでは、とうてい乾いた土をひと湿りさせるくらいしか役にたたんからのう」
 「……雨がふると、みんな、うれしい?」
 考えながらももたずねると、おじいちゃんはうなずいた。
 「そうじゃよ、わしも、畑も、森に住むものたちも、みんなうれしいんじゃ」
 おじいちゃんの手が、背中を撫でる。ほっこりと胸があたたかくなって、ロディはゼペットじいちゃんの肩に顔をうずめた。みんながうれしいなら、自分もうれしい。早く雨が降るといいのにな、と思った。
 「それにな、わしは、あの丘の上から見る空が一番好きでのう。遠くに見はるかす地平線から、背後にうずくまる森まで、空がどこまでも果てしなく続いておる。こんなに人里離れたところを終の棲み家に決めたのも、あの眺めがあったからなんじゃ。空を見ていると、忘れかけていた昔の夢がよみがえるでのう……」
 ひとりごとのように、おじいちゃんがつぶやいた。
 ロディは顔を上げて、空を見た。ちょうど雑木林から出て来たところで、頭上には、薄青い空にもこもこした雲がのんびりと流れていた。日の光はまだそれほど強くなく、なにもかもが穏やかでやさしげだった。
 「……その昔、人の視線は空へと向かい、やがては鳥のように自由に空を飛ぶようにまでなった。わしも幾度か飛行機械を作ろうと思い、自分なりに試してもみたのじゃが、どうにも自由に飛ぶというわけにはいかなんだ」
 老人の喉から、かすかに笑い声がもれた。
 「じゃが、そのことはいい。わしの遺志は、弟子たちが継いでくれている。いつかきっと誰かが、わしの夢見たあの空を飛ぶことじゃろう。その道すじをわしは作った。それだけで今はいい――――」
 空を振り仰ぎ、ゼペットはかすかに目を細めた。
 「……空を飛ぶことになんの意義があると、弟子たちに聞かれたことがある。じゃが、人間とは、はるかな昔から益もないことに血道をあげる生き物ではなかったかの? 音楽は最初、神に聞かせるためのものじゃった……そのうちに人は、人間同士で音楽を聞かせあうようになった……さまざまな種類の楽器が作られ、幾千幾万の曲が奏でられた。なぜ歌うのかと聞かれて、答えられるものがおるじゃろうか?
 「歌だけではない、女たちが身にまとう美しい布、絵画や彫像、舌を楽しませる料理……これらすべては、人に捧げるものとして生まれて来た。空を飛ぶこと、それ自体に意味はない。だがそれでも、“大戦”以前の人々は空を飛んだ……」
 ゼペットじいちゃんの声が、ぼそぼそと続いている。おじいちゃんの言うことは難しくて、ロディにはひとつもわからなかったが、でも、おじいちゃんが空を飛びたいと思っていることは、よくわかった。
 ゼペットに抱き上げられたまま、ロディは首をのばして空を見上げた。太陽が、じわじわと天のいただきに昇ろうとしている。綿毛のような雲のふちが日の光を受けて金色に輝き、雲の背後の空は、飛び上がって手を伸ばせば届きそうなくらい、深く濃い青をしていた。
 空が、好きだ。
 うっとりと空を見つめながら、そう思った。
 いつかじいちゃんと二人で、あの空を飛べたらいいな、と思う。風のように、鳥のように、はるかな光を目指してどこまでも。
 風が流れ、ロディの青い髪をなぶった。気持ち良さそうにロディは、息を吸い込んだ。草や土の匂いの中に、かすかに湿った雨の匂いがする。じいちゃんの言うとおり、夜にはきっと雲が出て、雨が降りだすだろう。空がくれた贈り物に、木や草や畑の豆たちが息を吹き返し、いっそう濃い緑を見せてくれるだろう。
 「……そら、ロディ。わしらの庵が見えてきた」
 ぽんぽん、と軽くお尻をはたいて、じいちゃんがロディを地面の上に降ろした。小さな家に向かってロディは、歓声をあげて駆け出した。おじいちゃんよりも早く家について、扉を開けてあげたいのだ。
 後ろからついてくるゼペットのゆっくりとした足音を聞きながら、ロディははねるように駆けていった。頭上高く飛ぶ鳥の声が、青い空にひときわ響き渡る。小さな手を空にのばしてロディは、笑い声を上げた。
 どこまでも、どこまでも澄んだ空。
 鳥が、白い羽根を輝かせて、天へと昇っていく。
 青く、高く、澄みわたった空に、薄絹のような雲がひとはけ流れる。
 うっとりするほど、きれいな空。
 じいちゃんが愛した、ファルガイアの空。





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